小田亮さんのブログがすごいのだ
ひっさしぶりに「小田亮の研究ホームページ」へ行ってみると、「とびとびの日記ときどき読書ノート」というブログ(はてなダイアリー)ができていた。これがすごい。
小田亮(おだ・まこと)さんというのは文化人類学者で、現在、成城大学文芸学部文化史学科教授。私が在学していたころから成城にいて、学科がちがったから特段親しかったというわけでもないが、その研究内容/講義内容のおもしろさ・たしかさから一目置かざるをえない七人衆(って、いま思い出しながら頭数揃えるんだけど、えーとね、有田英也、石原千秋、小田亮、黒崎宏、竹村牧男、冨山太佳夫、兵藤裕巳=五十音順・敬称略)のひとりとして注目していた。左に掲げた本はこれもそのサイトで知った近刊で、単著ではないが小田さんも執筆している論文集『呪術化するモダニティ—現代アフリカの宗教的実践から』(風響社)だ。本の構成と「まえがき」が小田さんのサイトで読める。小田さんの論文は「呪術・憑依・ブリコラージュ:真正性の水準とアイデンティティ」というもの。アマゾンだと「通常3〜5週間以内に発送」と言われてがっかりするが、たとえばセブンアンドワイなら「当日〜2日で発送」とある。って、6,300円かよ。わりとするなあ。ま、買っちゃいますけどね。
さて、それよりもいまはブログだ。
ブログは2006年12月からはじまっていて、そのアタマから順に読みはじめたのだけれど、この過剰な書きっぷりはいったい何だ。びっしりと長いエントリーが続出するし、そのうえ内容が濃い。その思考にひさびさに触れて思うのだが、私にとっていちばん〈信用のおける〉学術的言説って、あるいは小田さんのそれかもしれない。とにかく示唆的で刺激的で説得的だ。
具体的な論旨に関わる部分の紹介はまたあとで「Yellow」のほうにでも書ければと思うが、小田さんの思考が抵抗しようとするは、「グローバル化」と「ネオ・リベラリズム期市場経済」、それに親和する「ナショナリズム」や「セキュリティ」、「個人化」、「自己選択/自己決定/自己責任」、「ほんとうの自分」、そして「本質主義的なアイデンティティ・ポリティクス(戦略的本質主義)」といったものたちである。小田さんは、「〈個の代替不可能性〉にもとづいた〈機械的連帯〉の可能性」や、「〈真正性の水準〉を見逃さないことの重要性」を指摘しつつ、その抵抗を試みる。
で、そんな調子でありながら、書き出しと書き終わりの小田さんはどこかグズグズ(褒め言葉)してもいて、そのことがさらに論を好ましいものにしている。たとえば3,000字超の「戦略的本質主義を乗り越えるには(1)」を書き、
「前提」と「問い」を並べただけで、もう長くなりすぎたようです。ではこの続きは次回にしたいと思います。
としめくくったその数日後に、いきなり小田さんはこう言う。
前回から日にちをおいたら、何を書こうとしていたのか忘れてしまいました。
忘れちゃったのかよ。
しかしそれだけではない。「忘れてしま」ったというのは、最終的に書こうと思っていたことに至るまでの流れ(前回の話からどうつなげてそこへ持っていこうとしていたか)についてで、「忘れてしまいました」と書いたそのすぐあと、その「書こうと思っていたこと」の要旨をバーッと書きつけるのだけど、それがすごい。
個の代替不可能性(かけがえのなさ)が、顔のある関係の過剰性のある共同体においてのみ肯定されること、そして個の代替不可能性は、「本質主義的アイデンティティ」とは違って、関係を断ち切るのではなく「社会的連帯」を創り出すこと、そしてその連帯は役割連関としての有機的連帯ではなく、類似性による機械的連帯であること、その類似性(家族的類似性)は差異を前提としていること、したがって関係の過剰性による共同体はけっして同質的な共同体にはならないことなどについて書こうと思っていたことは覚えているのですが、
戦略的本質主義を乗り越えるには(?)
もういいからそれ早く解説してくれよって話ですよ。
で、次回以降、ひきつづきグズグズする姿も見せつつも、順々にこの部分を説いていくのであり、もう読ませる読ませる。あ、あとね、「戦略的本質主義を乗り越えるには(1)」の書き出しのこれもちょっと笑ったなあ。
きのうの夜は、センター試験の疲れ(受験したわけじゃないけど)と、他の仕事で、
わかるよ、そんな註を入れなくても。受験する側じゃないだろうさ。
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