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関係の過剰性はどこに生じるのか──共同体の真正性とビデオコメントの可能性

 「小田亮の研究ホームページ」に置いてある口頭発表原稿「共同体と代替不可能性について」、および『思想』(2008年第12号)のレヴィ=ストロース特集に載った同じく小田さんの論文「『真正性の水準』について」を読んだ。いずれもその中心に扱われるのは、「真正性の水準」という言葉である。

(以下、「はじめに」の節では前提としての小田さんの議論をくりかえしています。そこはまあ了解済みであるという場合、次節「〈顔〉とは何か」からお読みいただいてもけっこうです。)

はじめに

 小田さんの説明をそのままなぞるようなかたちになるが、「真正性の水準」というレヴィ=ストロースの提唱したこの用語は、彼の手になるその他の用語に比べれば──あるいは比べるまでもないほどに──まったく流行らなかったものである。言葉としてさらに誤解を受けやすくなるのを覚悟のうえで、強引に平たく言い換えれば、「真正性の水準」とはつまり「ほんものであるかどうか」ということにあたるわけで、それを用いてなされるのもつまり「ほんものかどうかを見極めることが大事」だという議論である。「ほんもの/にせもの」という二元論における「ほんもの」の優位性が疑われ、あるいはまた二元論そのものが廃棄されたポストモダン以降のわれわれにとって、「ほんものであるかどうか」というのはいかにも古くさく、反動的で、守旧的な態度であるように映りやすいし、おそらくはそうした受容のされ方が「真正性の水準」という用語の不遇の一因であったように思われるわけだが、〈そうした受容〉のほうこそがいまや圧倒的に古くさいこと──それこそポストモダン以降のわれわれは、いつまでも二元論とその転倒なんかにかかずらっていられないのだ──は言うまでもないだろう。
 話を戻してレヴィ=ストロースにおいては、この「真正性」の尺度は〈社会〉にたいして用いられたものである。

 レヴィ=ストロースは、『構造人類学』に収められた論文「社会科学における人類学の位置、および人類学の教育が提起する諸問題」(初出は1954年)のなかで、将来おそらく人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献は、彼が「真正性の水準」と呼んでいる社会の二つの様相の区別、すなわち、人びととの生きた直接的な接触による小規模な「真正(オーセンティック)な社会」の様式と、より近代になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な、「非真正な(まがいものの)社会」の様式との根本的な区別にあると判断されるだろうと述べています。

 われわれの他人との関係は、折にふれての、断片的なもの以外、もはや、あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということにもとづいてはいない。われわれの人間関係は、かなりの部分、書かれた資料を通しての間接的な再構成にもとづいている。われわれが過去に結びあわされるのは、もはや、物語り師、司祭、賢者、故老などの人々との生きた接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本によるのであり、それらの本を通して、鑑識力が骨折ってその著者の表情を再現するのである。現在の面では、われわれは、同時代人たちの圧倒的な大部分と、あらゆる種類の媒介――書類、行政機構――によって連絡しているのであるが、これらの媒介は、多分、途方もなくわれわれの接触を拡大してはいるが、しかし同時に、われわれの接触に、まがいものの性格を付与しているのである。[レヴィ=ストロース 1972:407-408]

 レヴィ=ストロースは、そのような区別は、文字やメディアの発明による巨大な革命を否定的に捉えるためではなく、間接的なコミュニケーション(本・写真・新聞・放送)に起因している自律性の喪失を認識するための区別であり、3万人の人間は、500人の人間と同じやり方では社会を構成できないということを指摘するためだといいます。
小田亮「共同体と代替不可能性について」(口頭発表) 2. 真正性の水準と〈関係〉の複雑性/複数性([レヴィ=ストロース 1972]は『構造人類学』川田順造ほか訳、みすず書房)

 さてここで、〈ひとまずここを押さえてほしい〉と思うのは──読んでもらえば後段に書かれているとおりだが──、これらの記述において、「真正な社会」と「まがいものの社会」のどちらに社会としての優位性が置かれるわけでもないということである。そしてそのうえで、両者がはっきりと異なるものであると区別する視点を導入することこそが決定的に重要なのだというわけである。

 町会や村会の運営と、国会の運営との間には、程度の差だけではなく質的な差があることは周知の事実です。前者の場合、特に或るイデオロギー的内容に基づいて決議がなされるというわけではなく、ピエールとかジャックとかいう個人の考え、とりわけその具体的な人柄を知ることも、考えを決する基となります。その場合、人々は全体的に、大づかみに、人の行動を把握することができます。思想もたしかに問題にはなりますが、しかしそれらの思想は小さな共同体の一人一人の成員の身の上話や家庭事情や職業的活動によって解釈されうるものです。こんなことはみな、或る人数以上の人口の社会では不可能になります。私がどこかで「真正性の水準」と呼んだのはこのことを指しているのです。[シャルボニエ 1970:55-56 訳語の「信憑性の水準」は「真正性の水準」に変更]
同上より孫引き。[シャルボニエ 1970]は『レヴィ=ストロースとの対話』多田智満子訳、みすず書房で、上はそのなかにあるレヴィ=ストロースの発言。

 そうしてここに、〈顔〉の介在する関係からなる「真正な社会」と、メディアを介してつながる「まがいものの社会」が現れるわけだが、するとそれは容易にまた、〈失われた共同体〉と〈都市〉という二者の、古くからある関係に重ねられてもしまう。けれど、

真正な社会の様式とは、ロマン主義的なノスタルジーによって理想化された、純粋な民族文化や真正な不変の伝統をもつ、無垢で牧歌的な共同体ではない。
小田亮「『真正性の水準』について」『思想』2008年第12号、p302

のだし、近年の複数の文章をとおして小田さんが断固否定しようとするものこそ、そうした近代以来の〈共同体〉概念そのものにほかならない。

 ここで確認しておきたいのは、「共同体」という概念が、近代のオリエンタリズムと同型の思考によって創られたものだということである。その思考とは、近代の支配的な主体を、自律的で能動的で合理的なものとするためのものだ。すなわち、「同質化された同一性に基づく閉鎖的な共同体」という概念は、一九世紀に、ちょうど他律的で受動的で非合理的な東洋という概念が西洋という主体の対立概念として作られたように、自律的で能動的で合理的な主体からなる「社会」という概念の対立概念として創り出されたということである。

 「共同体」は、東洋的専制や「未開」社会といったものと同じく、近代に創出された概念に囚われてきたことが明白にもかかわらず、現在になっても、近代以前の過去のもの、克服すべきもの、失われたものとしてのみ扱われ、真剣に考察されてこなかった。そのような「共同体」概念を作り出した社会学では、いまだに「均質な共同体が解体して個人が自立し多様性をもつ社会が登場した」といった、一九世紀と変わることのない言説が横行しているようにみえる。それが、「共同体」概念の脱構築が必要なゆえんである。
同上、p309-310

 さて前置きとして最後に、これも小田さんが説明するところのものだが、この「真正性の水準」という用語を、ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」に重ねておこう。ただしそれは、真正な社会が「想像を介さない共同体」であり、まがいものの社会とは「想像の共同体=ネイション=国家」であるというふうに重なるわけではない。

(アンダーソンの述べる)「想像の」というのは、顔を合わせる直接的なつきあいの範囲を越えているという意味で使われている。しかし、アンダーソンは、ネイションの特徴が顔を合わせる直接的な関係の範囲を越えていることにあると言っているのではない。そのような意味ならば、アンダーソンもいうように、ある程度の規模をもつ共同体は、ネイションに限らず部族や氏族や村落共同体も含めて、多かれ少なかれ想像されたものである。アンダーソンは、つぎのように述べている。

 実際には、日々顔付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される。ジャワの村人たちは、かれらが一度も会ったことのない人々と結びつけられている、ということをいつもよく承知していた。しかし、その絆は、かつては、個々それぞれ独自に、無限定に伸縮自在な親族関係や主従関係のネットワークとして想像された。[アンダーソン 1997: 25、Anderson 1991: 6、訳文は一部変更した]

 ここでアンダーソンが、「共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」[アンダーソン 1997: 25]と述べていることは、非常に重要である。つまり、アンダーソンが論じているのは、ネイションを他の想像された共同体と区別する独特の想像のスタイルなのであり、近代のネイションが、近代以前の想像の共同体とは異なる想像のスタイルによって創りだされている――いいかえれば「構造」が異なっている――ということなのである。
小田亮「Web版『日常的抵抗論』」 第2章第2節。[アンダーソン 1997]は『増補 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石さや/白石隆訳、NTT出版

 ネイションにかぎらず、およそあらゆる共同体が「想像された共同体」であるのと同様に、「真正な社会」も「まがいものの社会」も、どちらも「社会」なのであり、そもそも「まがいものの社会」なしに、人口六〇億の世界など成り立ちようがないのである。けれど、ネイションとその他の想像された共同体とではその「想像されるされ方」がはっきり異なるという点がここでは重要なのであり、その想像のスタイルのちがいはまた、「真正な社会」と「まがいものの社会」とを決定的に分かつものでもある。

 以上はこの文章を書くにあたり、〈想像されたわたしの読者〉にむけ、まずこのあたりだけは文脈を共有しておいたほうがよいだろうという点の解説である。ここまでですでにかなりの引用を重ねているとおり、以上はほぼ小田さんのされている議論の受け売りであるから、これ以上については直接その引用元にあたっていただくのがいいだろう。

〈顔〉とは何か

 さて、では、〈顔〉のある関係からなる真正な社会というときの、〈顔〉のある関係とは何か。それがひとまずわたしのとっての問題である。〈顔〉とはいったい何なのか。「はじめに」で触れたような小田さんの問題意識はもう十年も前、わたしが成城大学に籍を置き、その授業を聴いていたときからのものだが、以来ずっと、〈顔〉という魅力的な言葉はわたしのなかで、魅力的なだけに輪郭をあいまいにしたまま保存されてきた。
 そこで言及される〈顔〉とは、おそらく何よりもまず、比喩ではない、直接的な顔そのものとしてあるはずだ。そのことはきっと決定的に重要な点であり、その根本そのものをずらし、レトリックでごまかしてしまっては論のすべてがだめになってしまうだろう。そのことは承知しているつもりである。
 しかし……、と考えてしまうのはつまり、わたしがインターネットというものに浸っている者だからだ。用語としてどちらが優位に立つのでもないとはいっても、たとえばネオリベラリズムへの日常的な抵抗の手段として、その足がかりになるのは「真正な社会」のほうであるというように、個々の局面における価値判断はともなうわけで、すると、(仮にだが)直接〈顔〉を会わせることのないつながりがすべて「まがいもの」であるとした場合、インターネット上のつながりは当然ながらすべてが「まがいもの」の側に属することになり、その場に「抵抗のための手がかり」は存在し得ないことになってしまう。もしも〈顔〉の定義がそうした単純なものであるとしたら、それはたしかにラディカルではあるものの、いささか平面的すぎて、さすがにちょっと「面白くない」のではないか。どちらかといってインターネットの側に身を置く者として、ついそのように考えてしまうのは結局のところ〈甘え〉でしかないのかもしれないのだけれど、言い換えればそれは、「共同体の真正性はそれほど非力か?」という思いでもある。
 そしてここに、〈顔〉──と、その言葉を括弧付きで示している小田さんのふるまいがあり、顔そのものを出発点としつつ拡散する、意味のひろがりがそこにはやはり含意されているのではないかと期待を寄せてしまうわたしがいる。あくまで直接的な顔それ自体をベースとしつつ、真正/非真正の区別を台無しにすることなく、どのようなひろがりを〈顔〉という言葉に読めばいいのか、そのことをわたしはずっと考えていた。
 そして、その問題にたいしてひとつの回答を受け取ったように感じたのが、小田さんの文章に出てくる、「関係の過剰性、複雑性、複数性」という言葉である。

ビデオコメントという体験

 個人的な体験のことを書くが、先日このブログに導入したコメントシステムサービスの「DISQUS」にはビデオコメントの機能があり、じっさいに使ってみたのがこのコメントである。長谷川さんという方から記事にもらったコメントへのレスで、わたしは長谷川さんとは会ったことがなく、その顔を知らないままこれを投稿した。
 もちろん、わたしはここで、このビデオコメントに映ったわたしの顔を指して「インターネットにも顔がある」ということを言いたいのではない。それだったら、新聞の報道写真にだって顔はあるし、テレビにだってむろんあるが、それはここでいう、共同体の真正性を保証する〈顔〉とは根本的に異なったものである。
 メディアを介してつながる「まがいものの社会」においては基本的に、「あらわれとしての顔」が真正性を保証することはないと考えなければならない。家族や友人といった、すでにわたしと〈顔〉のある関係をもっている者らが件のビデオコメントを見るのならまた話はべつだが、少なくともそうではない者(たとえば長谷川さん)にとって、ビデオコメント上の「あらわれとしての顔」は、パーツを交換することで成り立つ〈均一的な個性〉であるところの「アバター」となんら変わるところがないのであり、それはおそらく、どこまで行っても「アイコン」であるだろう。
 といって、「あらわれとしての顔」が関係の真正性を保証しないのは、「その顔が本人の顔=ほんものの顔であるかわからない」といった〈匿名性〉の問題とは無関係のことでもある。たとえばここに紹介されているのは、写真中の人物の顔を自動的に補正して「美形」にしてくれるという開発中の技術だが、これらの技術の先には、自動的に顔のかたちまで補正してくれるデジカメ、さらにはデジタルビデオといったものの登場が想像可能だ。また、そこまで行かなくとも、アバターに用いる顔写真を手作業で補正するといったこと(あるいはもっと単純に他人の顔をあてはめるといったこと)はいまでも充分可能だが、すると、そこには「生来のものではない顔」「ほんものでない顔」が生まれることになる。そのほんものでない顔はある意味で、実社会における「化粧」や「整形」、「性転換」といったものと変わらぬ作用をもつわけだが、しかし実生活においてそうした人たちと相対したときに、けっして真正な人間関係が結べないわけではないのは言うまでもない。

 話をわたしのビデオコメントに戻そう。ビデオコメントを投稿するという経験をとおし、たしかにわたしはそのとき〈顔〉というものを感じ取ったのだが、それはくりかえすように「あらわれとしての顔」のことではない。そうではなく〈顔〉は、ビデオコメントを投稿するというその行為がとにかく〈厄介〉であるというそのことのうちに立ち現れたのだ。
 顔のことばかり言っているが、ビデオには声もつく。声がまた厄介である。なにしろ、あたりまえだが、しゃべらなければいけないのだ。しゃべることをかっちり決め、あらかじめ覚えてよどみなくしゃべるのも味気ないが、かといってあまりだらだら話すわけにもいかない。しゃべれば、とにかくそこに〈時間〉が発生するのであり、その〈時間〉は基本的には相手を拘束するものである。だらだらはまずい。長谷川さんに愛想を尽かされたくはないのだ。といって、「よどみなくしゃべるのも味気ない」などと強がってみたはいいものの、そもそも「よどみなく」などしゃべれないという現実がある。つっかえる。仮にもしよどみなくしゃべれたとしても、声には声の質、大きさ、調子といったものがついてまわり、それらはみなしゃべる内容と同等の〈情報〉としてそこに流通する。その情報はことによったら、本来伝えたいところの情報にとって邪魔なものであるかもしれない。伝えたいことが、ストレートには伝わらないかもしれない。しかしそれを言ったら、だいたい、いきなり用件を切り出すわけにもいかないのだ。というのも相手が、この場合長谷川さんのまだ見たことはない〈顔〉が、そこにいるからだ。「どうも」かな。「どうも、相馬です」だろうな。それで照れて、どうしたって無言の間があくだろう。しかしいつまで照れていて、長谷川さんを待たせるわけにもいかないのだ。等々。
 ふと気づくのは、これらすべての〈厄介さ/面倒くささ〉から逃れるためにこそ、われわれはインターネット上のコミュニケーション手段を進化させてきたのではなかったかということだ。そしてこの〈厄介さ/面倒くささ〉こそが、「関係の過剰性」にほかならないだろうということである。〈顔〉はこうして、それこそ擬似的にではあれ、ビデオコメントのFlashのなかにではなく、まず何より〈わたしのなか〉に現れたのだ。
 ひとつ附言しておけば、このビデオコメントに対し長谷川さんは、

初めまして、こんにちは。こちらは恥ずかしいのでテキストで失礼します。

とはじまるテキストコメントを返してくれたのだが、これはけっして長谷川さんが〈顔〉のある関係を拒んだということではないだろう。そうではなく、長谷川さんはわたしの〈顔〉にただしく関係の過剰性を読み取ったのであり、だからこそただしく「恥ずかし」がったのである(と考えることが可能だ、ということ。ほんとうは拒まれたのかもしれないしそれはわからないけれど)

 共同体の真正性を保証するところの〈顔〉とはつまり、非真正な社会における代替可能で比較可能な役割関係を超えてにじみ出てくる(にじみ出てきてしまう)関係の過剰性や複数性のことであると、わたしはひとまずそう捉えることにしたい。そしてそれはほかでもない、われわれが人と会って〈顔〉を合わせたとたんに発生する、あの、〈関係の面倒くささ〉のことである。

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