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バストリオ『まるいじかんとわたし』に寄せて

  • Posted by: SOMA Hitoshi
  • February 27, 2017 10:57 AM
  • culture

 以下は、2010年11月27日に京都で観たバストリオの公演『まるいじかんとわたし』について、彼らに「何か感想コメントのようなものを」と頼まれ、2011年5月30日に書いた文章です。観劇直後に日記として書いた「まるいじかん」( 2010年11月27日付)と併せ、お読みいただければさいわいです。

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 たった一夜、京都市左京区にあるギャラリーで行われたその公演をじかに目にした者の数は、出演者・スタッフを含めても五〇に満たないはずだ。地縁的な関係でもなければまず居合わせることのないようなその小さな営みが、それでいて普遍的な時間へとつながっていたことについて、べつだんわたしは驚かない。なぜならかれらはいつでも、かれら自身の、個の単独性=交換不可能性をこそ舞台に賭けるからだ。生身の身体どうしが対峙することで意識される個の交換不可能性──いまここで〈わたし〉であること──は、同時に、〈彼/彼女/あなたであったかもしれない者としてのわたし〉という個の根源的な交換可能性=普遍性を土台として、「にもかかわらず〈わたし〉である」ことの奇跡として、生じるものである。バストリオというユニットをつねにつらぬいているものこそ、その「普遍性 - 単独性」という軸にほかならない。
 タイトルにある「まるいじかん」とはおそらく、時間的な普遍性のことを指すのだろう。時間というと、過去から未来へとのびる直線をつい思い浮かべがちだけれど、時計の文字盤はまるく、円環をなしている(じっさい、会場のドアを開けてまず目に入ったのも、向かいの壁に掛けられたそのまるい時計だった)。カレンダーなら毎年買い替える必要があるかもしれないが、円環をなす時計は、あるいは180度の回転をくり返す砂時計も、あたらしい一日がはじまったからといって使えなくなりはしない。
 客席にたいして横に細長く伸びた演技空間の中央に、テーブルと、イスが二脚。その左右にのびる空間で、同時に別々のエチュードが展開する。ひとつのエチュードがおよそ三分ずつ。中央のテーブルに置かれた三分計の砂時計が演者の手によってひっくり返されるごとに場面が変わり、あらたなエチュードがはじまる。客席と演技空間とがごく近いので、左右に展開するエチュードを俯瞰的に見ることは基本的にできない。ばらばらに見えるエチュード──じっさいばらばらである──をつなぐ縦糸は、冒頭ちかくと終盤とに配置された、中央のテーブルで演じられる若い夫婦の日常の断片だ。とある書類に捺印しようとするが家にハンコがなく、24時間あいているという近所の百均ショップに買いに出掛けた夫が、買い物を済ませ、雨に濡れて帰ってくるまでのそのわずかな時間が、まったくべつの場所の、あらゆる時間とつながっていることを『まるじかんとわたし』は示してみせる。また、相撲部屋での力士どうしの会話で、「ちゃんこ」という単語だけが「戦争」に置き換わっているというエチュードが比喩的に示すとおり、それらのさまざまな時間、さまざまな三分間は、ひとつの〈いま - ここ - わたし〉にたいして範列的に存在する、いくつもの、そうであったかもしれない時間として想像されている。
 〈ここ〉にいるわたしは、同時に〈あそこ〉には存在できない。でも、〈そこ〉と〈ここ〉なら行き来ができるし、〈そこ〉から〈あそこ〉へはそう遠くないのかもしれない。──と、かれらの舞台を観ながらそう思うとき、わたしは、いわば神話の大地に触れたような感覚を得て、しばし、しあわせな気分に浸ることになる──なにしろ、「神話の輪舞の描く大地は円い」(レヴィ=ストロース)のだ。
 あまたある夜のうちのひとつとして、ひっそりと熱く、その日、京都市左京区の一角に、そんな夜があったのだ。

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