盗作的 (1999)

 朝日新聞の5面、テレビ欄から読み始める人にとってはだいぶ奥まったところという印象だろうか、「主張・解説」面の一角に「朝日川柳」はある。あるいは見覚えのあるという人がほとんどなのかも知れない。

(「朝日川柳」、99.1.24朝刊掲載分、朝日新聞)

 高村鉄三(たかむら・てつぞう)、「鉄三」と言うと三男であるかのようだが実は長男であるらしい。今年65歳。彼の15年に渉る暗闘の場がここである。


 言うまでもなく、「朝日川柳」は読者投稿による川柳のコーナーである。「大伴閑人選」とあるように、掲載されるのは言わば優秀作であって、☆印はその日の最優秀作品を示している。と同時に、それらはその背後にある、選にもれた無数の投稿作品(と、その投稿者)という存在を暗示してもいる。実際のところ、「無数の」という言い方は筆者の想像によるものでしかないのだが、しかし、それはおそらく「想像に難くない」のであって、その想像の先には、いわゆる「常連」と呼ばれるような人々の姿がボンヤリと映し出されてくることになるだろう。
 筆者もその一人であるような、投稿、あるいは投書といった行為に縁のない者にとって、そうした「常連」を単に他者としてではなく想像することは難しい。しかし、ここにひとつの事例がある。


 この15年、特殊なかたちでではあるが、高村鉄三は「朝日川柳」への投稿者として常連でありつづけた。紙面の常連であったわけではない。「朝日川柳」の欄に高村の作が載ったことは一度としてなく、この15年、有り体に言って彼の作はボツになりつづけた。とはいえ、川柳作家としての力量に致命的な問題があったというわけではない。そもそも彼の実際の力量をはかる機会など、15年の間にただの一度もなかったのである。
 確固たる、そして当然とも言えるボツの理由が他にあった。この15年のほぼ毎日、朝日新聞編集局に宛てて高村は、あからさまなかたちで「盗作」を送りつづけたのだ。
 あからさまな盗作?
 全く奇異と言う他ないのだが、彼は、その日の「朝日川柳」に掲載された最優秀作品(☆印の付いたもの)を葉書に書き、送るという行為をつづけたのである。それは「行為」と呼ぶにはあまりに無為な行為である。(それが紙面に掲載されるかも知れないという意味での)「勝算」は全くない。そうした意味で、それは「盗作」ですらない。何等の利害も介在しないところに、はたして「盗作」など成立するのだろうか。
 「反復」?
 「反復」という言葉が、差し当たりしっくりくるのかも知れない。ただしそれは純粋な反復ではあり得ない。「朝日川柳」に掲載される作品の多くは社会風刺的であり、畢竟それは時事的なものとなる。高村の葉書が編集部に届くのが投函の翌日として、紙面に載るのは(もし仮に載るとしてだが)さらにその翌日となるはずだ。つまりそこには、二日の「遅れ」が生じることになる。時事性を生命とする作品にとって、「遅れ」は致命的な「劣化」に他ならない。
 結局。
 結局、高村が生み出しているのは「ひどい代物」でしかあり得ない、ということ、だろうか(「複製技術時代の芸術」とベンヤミンの著作に掛けて呼ぶには、葉書に書き写すという作業は肉体的すぎる)。


 編集部に勤める友人の話によれば、今年に入って高村はその「盗作」の標的を変えたようである。そして、新たな標的とされたのは同じ5面で「朝日川柳」に隣り合う、投書欄「声」であるらしい。
 「声」の剽窃?
 川柳から投書へと変わり、書き写す文字数の増加分だけ確実に無意味さを増した高村鉄三の投稿作業は、なおも過剰な表象のみを纏いつづけている。(了)