コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


1月19日(土)「しかしこれは、生者に向けられた言葉」

願以此功徳
平等施一切
同発菩提心
往生安楽国。


1月16日(水)「プロ!」

▼「Kagi」を使い、iCab Pro (29$) を買う。まだ正式版のリリースされていない iCab だが、いいよ、払っといてやるよという者は払ってしまえるのだった。払うと、登録キーがもらえる。
▼正式版が出たあかつきには、「Pro」でない、無料の「iCab Lite」もまた配布されるのだと言い、そうなると、気になるのは両者の違いということになる。いったい「Pro」は何がどう「Pro」なのか。高級感てやつか。だとすれば「Pro」は、マウスが少し重いのかもしれない。腰を落ち着けて操作する感じだ。あるいはしっとりしているのかもしれない、マウスが。あるいはめくるめくようなマウス。
▼いや、そういうことではないのではないかと、私は思い始めている。「マウスが」というのがよく分からないし。
▼まあ、「iCab Pro」を使う者は、やはりプロにちがいないのであるから、そう考えれば、「iCab Pro」はよりプロフェッショナルな人間を相手にした動作をすると考えるのが妥当なのではないか。ひょっとして、HTMLの文法チェックがより厳しくなるかもしれない。相手はプロだからだ。そして、違いがそれだけだとしたらどうか。もう、ここぞとばかりに厳しくなるのだった。
▼一方、「iCab Lite」を使う者は、やはり間違いなくライトだ。それは名前だったり、守備位置だったりするが、何かしらライトである。


1月15日(火)「霧の童話(本文とはあまり関係なし)」

▼「怪奇大作戦」は本当に面白い。
▼といったようなことを書いて日記にしようかと考えたものの、何をどう書いたらいいものか、目ばかり冴えてきてしまった。ふとこのまま何年ぶりかの「二角取り」でも始めて、報われない夜更かしをしてしまったらどうするのかという恐怖と背中合わせだとするならば、いけないのは「こたつ」なのか?
▼「散歩する首」と「霧の童話」。

▼提案だが、朝会社に行くにあたって「会社に行く」ではなく、この際「学校に行く」と捉えてみるのはどうか。「会社もまた学びの場である」とか、そういう比喩として思い描くのではなくて、ここはひとつ素直に「学校に行く」。どっちでもいいじゃないかとばかりに「学校に行く」のだ。すると急に楽しいことになるのであって、なんだか知らず、「遅刻してはいけない」という思いさえ生まれてくるにちがいない。
▼ここで間違ってはいけないが、実際に行くのは会社であって、本当に学校に行ってしまってはまずい。そういう者は、間違うくらいだから久しぶりの母校を訪ねたりはせずに、きっとそこらへんの手近な小学校とかに行ってしまうだろう。すると、生徒が自分よりもずいぶん若いので厄介なばかりか、教師にも見知った顔は誰一人無いのであった。
▼だから行くべきは会社だが、しかし私は「学校に行く」。


1月14日(月)「トランジショナル!」

▼今日の占いで「ナーバスになりがち」と言われた私が報告する、昨日の出来事とはァッッ!
▼と、つとめて明るく書き出してみたものの、考えてみれば、それこそ占いの結果に対して神経質になっていることになって、占いは「当たり」ということになるのではないか。そもそも、その「占い」って何の話だ。

▼トップページに載せているネタのバックナンバーだが、そろそろ目次が欲しい数になってきたんじゃないかということで、インデックスページを用意してみた。
▼で、一覧にしてみるとけっこうな数なのだった。何だこの情熱は。とても更新しているじゃないか。読み返してもみたが、内容は本当にでたらめである。

▼今、時代はトランジショナルだ。と、そんな書き方をいきなりしても誰も分かってはくれまいが、つまり HTML 4.01 Transitional である。言うなればドキュメントタイプ宣言だ。何を言ってるんだ。
▼トップページを手始めに、「個人ホームページのために」内のページであるとか、この日記の今月分とか、つまり今後更新の手が入るようなところを、とりあえず「HTML 4.01 Transitional」に準拠させるべく、今じゃかすかと書き換えているのだった。すべては来るべき「Mozilla 1.0」のために、である。いやその、iCab を微笑ませるとか、そういうことが重要なのでは決してなくて(って、これも説明なしじゃ Win な人とか分からないだろうけど、分かってみたい人はリンク先を参考に)。
▼ Best Viewed with Mozilla 1.0. と、サイトにはそう記したいじゃないか。違う時代のために。


1月6日(日)「チェブラーシカ、見れず」

▼吉祥寺バウスシアターのレイトショーで『チェブラーシカ』をやっているというので、ぎりぎりに出向いたところ、私もあなどったもので整理券が配布されており、それもすでに配布終了となってしまっていて入場できず。「チェブラーシカを見る時間」と思っていた時間が空いて、まだ本屋など開いている時間の吉祥寺に放り出されることになる。
▼F. レントリッキア、Th. マクラフリン編『続:現代批評理論――+6の基本概念』(平凡社)と、小森陽一『ポストコロニアル』(シリーズ「思考のフロンティア」、岩波書店)をお買い上げ。
▼学生か俺は。


1月4日(金)「大掃除」

▼大掃除。
▼というほど抜本的な解決がなされたわけではないが、部屋を片付けた。そうしてこたつを出す。
▼去年から部屋にはエアコンが導入され、むろんそれは暖房にもなるので、この冬はこたつを出さずに過ぎていくのだろうかとも思っていたがそうもいかず、この部屋、底冷えるのだった。6畳と4畳半の間のふすまを外してしまって、実質玄関までぶち抜きの状態にあるのがいけないのかもしれない。
▼と、気付けば、引っ越しの際に調子に乗って、去年まで使っていたこたつ布団は捨ててしまっていた。
▼駅前の西友でこたつ布団を買い、部屋を片付けて、こたつを出す。


1月2日(水)「原点」

▼実家。深夜にやっていた「ベストヒットUSA リターンズ」という特番を見る。
▼いや別に全然リアルタイムに視聴者だったわけじゃないし、リアルタイム以外で見る機会なんざさらにないのであって、「YOU を見て、ベストヒットUSA」(逆?)というタイムテーブルを過ごしたのは10コ上と7ツ上の兄二人にちがいないのだが、どうにもこうにも、80年代的なものに面と向かうと「ああ、やっぱり僕はここに端を発している」と感じてしまうのは困ったことだ。「懐かしい」といった言葉を出せば、直前までのくねくねと言い回した修辞法は何だったのかということにもなるが、兄がベータのテープに録ったビデオクリップだとか、兄の部屋に入ったときにかかっていたレコードだとか、その部屋を満たしていた、今となってはタバコの煙だと分かる白いもやだとか、そうした物理的な記憶とつながっている面もやはりあるんだろう。
▼けれど「懐古する眼差し」というか、沸き立ってさえきかねない身体が置かれているのはそういうベクトルじゃないんだよなあ。そこが困る。「今からでも遅くないから、僕はやはりこの中を生きなければならない」といった方向に意識は向けられていくのであって、いや、本当は困っていない。
▼そのまま、さらに深夜の映画枠へとこたつとともに滑っていき、内田有紀主演の『花より男子』を見ていた。
▼どうにもひどい映画であって、途中音声だけ聞き取ったりもしつつ、何とか最後まで見ていたというのも、そういえば高校時代「内田有紀のファンだ」と公言していたのではなかったか俺は、と思い出したのであって、そのわりにこの映画は初見だが、これもまた何かの「原点回帰」的な身振りとして見ていた。