コーナーの日記

Diary

Title: Superman Red Diary


3月27日(水)「検索」

▼別に昨日今日の話でもないのだが、レンタルしているアクセス解析のCGIがマイナーバージョンアップし、検索サイトを通じて訪問があった場合の検索キーワードを、URLデコードした上でリストアップしてくれるようになっている。例えばそこには、「ハイデガー」や「及川正通」、「青梅街道」といった語句もあって、まったくの無駄足であったろうことを思うと、申し訳ない思いでいっぱいである。
▼と、その一方で、これは明らかにウチを探しているんだろうというキーワードもまたあって、それは例えば「相馬称」や、「superman red 相馬」といったキーワードたちだ。
▼たまたまブックマークを参照できない環境にいたリピーターの方だろうか。それとも単に、ブックマークをしない人か。だとすれば、したらどうですか?と言いたいが、まあ特に前者など「称」まで書けているのだから、おそらく知人のたぐいだろう。しかし、これは分からない。
▼「相馬さん」
▼私でしょうか?
▼もし私のことだったら、探し当てることができて何よりでしたねと労をねぎらいたいものの、そうでない可能性は高いのであって、そもそも、それはある特定の「相馬さん」を検索しているのか、それとも「ネット上でちょっと目上の立場にある相馬一般」に探りを入れたのか、考えようによってはそれすら不明だが、「ネット上でちょっと目上の立場にある相馬一般」に探りを入れるというのはいったい何だ。


3月25日(月)「電話ではない」

▼いいかげん自動引き落としにしたらどうだという話であって、あるいはコンビニまで、すぐそこじゃないかという話だが、どれだったか、督促通知に目を通してからもうだいぶ経ち、そろそろだ、そろそろあぶないのではないか。払わなければならず、払わなければならないが、なぜ2回も書いたのかが問題なのではなくて、ガスだったか、電気だったか、そのどちらかだったと思うのだ。
▼電話ではない。電話ではなかったはずだ。
▼水道代は比較的最近払った記憶があり、その際重い腰を上げて、自動引き落としの申し込みハガキをポストに投函したものだったが、それもかれこれ数年前のことであり、こうして今、手元に届いている水が、実は100年前に太陽を出発した水だと考えるだけで感慨深いものの、つまり私は、ねむい。
▼ガスじゃなかったか。


3月24日(日)「読む日々」

富山太佳夫『ポパイの影に』(みすず書房)は、やはり刺激的だ。いったい何の刺激か、という話もあるが、ともあれ。
▼どこからどういうつながりで読み返そうという気になったか、そこのところを忘れてしまったが、読み返そうと思ったところが部屋にないことに気づいた。誰かに貸したような記憶も引っ掛かってこないので、あるいは何かの折りに実家に持ち帰ったままか、もっと奥深く部屋を探さなければならないだけの話か、ともかくあきらめてもう一冊買った。それがこれまた1/19の話であって、以来買ったままになっていたのを先日思い出した。そして読む。
▼夕方から夜にかけては 渋谷 CLUB QUATRO にて DR. JOHN のライブ。「読み応え」充分の情報量はしかしたっぷりあっというまの2時間、表紙に参ってしまって、開かず眺めていたようなものか。
▼就寝前に、高野文子『黄色い本』(アフタヌーンKCデラックス)


3月23日(土)「博士」

▼起きてみて、何だ悲しい夢だったんじゃないかと気づくのは、父と腕相撲をするワンシーンがあったからで(私が勝った)、しかし夢はもっぱら、大掛かりな手品(のような演し物)を準備する夢だ。結局、一緒にいたはずの永澤とはぐれてしまい、落ち合うために携帯電話をかけようとするが、「永澤はすでにここにいます」というメッセージが液晶画面に読みとれて、振り向けば戻ってきた永澤が立っているのであって、そうか、最近のケイタイにはこうした機能まで付いているんだなと永澤にその話をするところで目が覚めた。
▼例えばの話、医学の博士課程を修了した者は「医学博士」と呼ばれ、文学の博士課程であれば、それを修了した者は「文学博士」と呼ばれるが、しかし今、私がなりたいのは「もの知り博士」だ。いきおい考えをめぐらせれば、学ばなければならないのは「もの知り学」かということにもなるが、「もの知り学」となると、「もの知り」という現象それ自体を研究対象とするにちがいないのであって、そうしたものは私のなりたい「もの知り博士」とはまた別の「もの知り博士」だ。と考えていて、はっと気づかされるのは「博学」という学の存在である。まちがいなく、私のなりたいと願う「もの知り博士」は博学の博士課程を修了している。
▼たまたまそんな時間まで寝ずにいて目にするNHKの「テレビ体操」の、番組の最後に男性の案内役が口にするのは、「このあともどうぞお元気で」であって、朝イチの段階で「このあとも」とは、何と無常の理を見つめていることか。


3月18日(月)「とりとめもない」

▼とりとめもない。
▼サイードの『戦争とプロパガンダ』と、それとこれも読み了えたスーザン・ソンタグの『この時代に想う テロへの眼差し』(NTT出版)は、印鑑証明を3通もらうためにまずは印鑑登録をせねばならず、そのために寄った杉並区役所の、道路を隔てた向かいにある阿佐ヶ谷の「書原」という本屋で買い求めた。はじめて知る店で、それだから期待もせずにたまたま入ったのだが、「書原」はしかし、きっとこのあたりに住む「本を買う者」たちはみなここを頼りにするのだろうと思わせる品揃えであって、前掲の2冊は店の入り口付近、一番目につきやすい一角に『非戦』らと並んで平積みされてあったわけだが、やはり今、多くのまっとうな本屋たちの「平積みの風景」はこうしたものなのだろうとそれは思わせ、一方で自分が最近、そうしたまっとうな種類の本屋というものに久しく足を向けっていなかったようにも思い出されて、あたかも、その何ヶ月分かの「遅れ」を取り戻そうとするかのようにして私は2冊を、掴んではレジへ、掴んではレジへ……、と書けば、まるで2度レジへと行ったかのようだがむろんそんなことはなく、そもそも会社を抜けての区役所への用事のついでに何を探そうとしていたのかといえば宮沢章夫の『サーチエンジン・システムクラッシュ』の単行本だが、これは月刊誌の「文學界」に掲載された折りに一度読み、再読するにあたっては単行本が持ち運びの便にまさってよいだろうと探していたものをなんなく「書原」の棚に見つけることになるわけだが、手にとって奥付を見てみれば思いのほか、棚に生き長らえた「第1刷」のものであって、そのことに対するある種の感慨を述べるためにここまで「。」を打たずに来たわけでもなく。
▼そうだ、これまでどこにも報告せずにいたんじゃなかったかというのは、この無沙汰の間に、PowerBook G4 ユーザーになったということだ。
▼と、それとはまったく関係なくこれまた降ってわいた話だが、古い方のマシン、つまり PowerMac 7300/166 (+ G3カード) は、福祉関係の仕事をなさっているというTさんの元に引き取られていった。引き渡しの当日はTさんがタクシーでうちの部屋まで来たのだが、実際に会うのはそのときがはじめてだという状況の中、7300とセットで使っていた17インチのモニタ、56Kのモデム、スピーカーと、まとめてごっそりあげてしまった。ガランと空いたのは、それらを収納していた無印良品の木製ラックだが、さてここに何を詰めればいいものか。Tさんからはお礼に、固くてうまいパンをいただく。
▼同日、BOX東中野に『アレクセイと泉』を見に行った。


3月13日(水)「風呂場の辟易」

▼風呂場だが、いきおい同じ方向までむいて3つ、バスマジックリンのスプレー容器があるというのはちょっとした反省材料であり、なぜ詰替用のものを買わなかったのかという思いもさることながら、揃いもそろって「出」になっているというのは辟易だ。
▼ついでに書けば、「辟易」と書いて「とかげ」と読ませそうな気がするものの、そんなはずはないのであって、「へきえき」だ。

本日の「カートに入れてしまえ!」


3月12日(火)「思いねえ」

▼日記の方でいえば2月分がすっぽり抜け落ちるような有り様で、とにかくそのくらいのご無沙汰だが、取り付けてあるアクセス解析を見れば、ぱったりと客足の途絶えてしまう様子でもなく、まったくありがたいかぎりだが、無沙汰のあまり文章がヘタになっているというのはともかく、何をしていたかといえばいそがしかったのだった。
▼事の起こりは1月19日であって、一部の知人をのぞいて知る由もないことだが、父が亡くなったのだった。私は午前中アイシティに行ってコンタクトレンズを買い、本屋で本を買っていたが、しかし父は亡くなった。実家は浄土真宗の寺であり(という情報は、あるいはサイトを隅の方までご覧の方はどこかに書いたのを読んでいらっしゃるかもしれないが)、その関係で「密葬」だの「本葬」だのいろいろあったのであり、とりあえずひと段落、というところまでのスパンがまずは長かった。といって、私自身は(これは御存知!)三男なので、あとを継ぐとかそういうことには比較的関係ないものの、そこはやはりなんだ土日はなるべく実家の方に帰るようにしようじゃないかという腹づもりになったはいいがとばかりに仕事の方のピークがやってきたと思いねえ。

▼E. W. サイード『戦争とプロパガンダ』(みすず書房)、読了。