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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #1

  •  私が学校教育をちっとも受けていないということが伝説化しています。ですから、事実を伝える次のような記事に、多くの人が驚かれるかも知れません。「ニューヨーク州クリントンにあるハミルトン・カレッジでの講義に六年間参加していたハーポだが、この度キャンパス内への自由な出入りが許可されたとあって、神聖で古いその学術機関の歴史において教室に足を踏み入れた最年少の学生として有名になっている」。
     いやまあ、ちゃんと全部をお話しするべきでしょう。カレッジに行ったというそのハーポは私ではありません。カレッジに行ったというそのハーポは犬で、深紫色をしたプードルです。その犬は、ハミルトン校の最も有名な卒業生であるアレクサンダー・ウルコット── 上に引用した記事を書いたのは彼です── が、ある教授に養子として贈ったものでした。伝説は、残念ながら事実です。私はちっとも学校教育を受けていません。悲しい事実ですが、二年生さえ終了してはいません。
     とはいえ、何とかかんとか、自分に教育を施しはしました。私は、例えばグルーチョ・マルクスがそうであるように上手く書けたりとか、学問ができたりとか、するわけではありません。そんなふうに振る舞ったりはしません。けれども私は、唇を動かさずにものを読むことができますし、めちゃくちゃ口のたつ文学者たちとの付き合いでも、その会話の渦に沈むことなくしっかりしていられます。モネやアメリカの地方画家について、あるいはラヴェルやドビュッシーについて、誰にもどぎまぎなんかさせることなく── 私にも、です── 話すことができます。自分が、政治や世界情勢、人種差別廃止に向けた闘争、それにアメリカのティーンエイジャーたちの問題といったものに敏感であると考えるのが、好きです。敏感であるよう心がけています。それらのことが、私にとっては刺激的なのです。知り合いのカレッジ出の人たち── 深紫色のプードルを代わりに行かせたりとかではなく、ちゃんと出た人たち── にとっては、車とか洋服とか税金をごまかしたりとかが刺激的なことのようですが、それと同じように刺激的なのです。
     私がこれまでの年月、どこでどう教育といったものを仕込まれてきたのか、はっきりは分かりません。ただ、それがニューヨーク市の第86番小学校に一時逗留していた間でないことだけは分かっています。
     1900年、世紀があらたまろうというそのとき、人々はすべてを白紙に戻した上で新たな世紀を出発しようとしました。ある人々は古い借金を棒引きにしてやりました。名前を変えることで過去を清算した人もいました。あるいは、ライウイスキーだの、悪態をつくことだの、嗅ぎ煙草だの、それらを断つことでそうした人もいました。ニューヨーク市教育委員会は、アドルフ・マルクスを二年生に進級させることで過去を清算したのです。
     それは気高い身振りでありましたが、うまくは行きませんでした。アドルフ・マルクスが第二学年を過ごした一年と半年は、彼が第一学年の間中をあてどもなく夢想しながら過ごした一年間よりも、時間と納税者のお金の無駄に終わりました。
     (アドルフというのは、私が1893年にニューヨーク市で生まれたときに付けられた名前です。ハーポは、それから25年後、ポーカーゲームをしているときに付けられた名前です。その同じゲームの最中に、私の兄弟のレナードは「チコ」になり、ジュリアスは「グルーチョ」に、ミルトンは「ガモ」に、またハーバートはのちに「ゼッポ」に、なりました。それらのあだ名は、それらが付けられた瞬間から、くっついて離れないものとなりました。今となっては、かつてそれ以外の名前であったことなどないかのように感じられます。ですので、この本では、われわれはそれぞれチコ、ハーポ、グルーチョ、ガモ、ゼッポという名で通すことにします)
     ともあれ私の正規の学校教育は、第二学年の二回目のチャンスの半ばにして終了しました。そのとき私は、能う限りの近道でもって学校をあとにしました。窓から放り投げられたのです。
     これには二つの原因がありました。ひとつは同じクラスにいたアイルランド人の子供で、もうひとつはもっとでかいアイルランド人の子供です。私は彼らの完全なカモであり、格好の餌食でした。私は、年のわりに体が小さく、かん高いキーキー声で、それに教室でただひとりのユダヤ人だったのです。先生は、ミス・フラットーという女の人でしたが、私に何かを教えるということに関してすっかりさじを投げていました。ミス・フラットーはよく教室の前に立って、そんなことじゃ今にひどい目に遭うわよ、と予言したものでした。つまりは、アイルランド人の子供チームがミス・フラットーに同意して、彼女の予言を現実のものとしたわけです。
     アイリッシュチームはときどき、ミス・フラットーが教室から出ていくのを見計っては私を担ぎ上げ、通りに向かって窓から放り投げました。幸いなことに教室は一階にありました。落下距離はおよそ8フィート── 私をギョッとさせるには十分な高さでしたが、どこかを骨折するほどの高さではありませんでした。
     自分で立ち上がり、体のほこりを払って、先生が戻ってきたと分かるとすぐに教室にとって返します。トイレに行っていたのだと、ミス・フラットーには説明します。そこで本当のことを言ったりすれば、窓の外に投げられるよりももっとひどい目に遭うだろうということは分かっていました。先生は、私が、読み書きの問題を理解する能力はもちろんとして、自分の体内器官をコントロールする能力さえも十分に持ち合わせていないのだと、そう信じていたことでしょう。先生は母に、短い手紙を送りつけるようになります。書かれてある警告はいつも同じ。何か方策を考えてお子さんをマトモにしてやらないと、お子さんは家族やご近所の、ひいては国家の、面汚しになりますよ。
     そのころ、母は他のあれやこれやで手一杯な状態で、とても学校制度と手を結んで私をマトモにするどころではありませんでした。ひとつを挙げれば、私を教室(スクールルーム)に引き留めておくことよりも、兄のチコを賭博場(プールルーム)から引き離しておくことの方が、より差し迫った問題だったのです。
     そこで母は、ミス・フラットーと協議するべく代理人を立てました。これが不運でした。代理人というのは、私のいとこのポリーの恋人で、そのころわれわれと一緒に住んでいた人でした。彼は、往来でニシンを売り歩くという仕事をしていて、木のバケツから取り出したニシンをつかんでは大声を張り上げ、近所を回っていました。「さあさ、上モンだぜ! 上モン! せけえいちだ、どうでい!」。当然、体からは魚の悪臭を放っていて、1ブロック先からでも彼だと分かるほどでした。
     ある日、彼は授業の最中にひょっこりやって来ました。魚のバケツだの何だの全部持って。結局彼は、ミス・フラットーとの協議など何ひとつできませんでした。ミス・フラットーはひと目見、ひと臭いかいで気分が悪くなり、ポリーの恋人に学校から出ていくよう命じました。教室にいた残りの子供たちは皆、鼻をつまみながら笑い出しましたが、ミス・フラットーはそれを止めませんでした。
     もう駄目だと悟りました。
     例のアイリッシュたちは今度、日に三、四回のペースで、チャンスが来るたびに私を放り投げるようになりました。許可もなく何度も教室からいなくなる私に、ミス・フラットーは放課後の居残りを毎日命じました。私の鼻の先で揺れる彼女の指が今でも目に焼き付いていますし、そうして口から出る言葉も耳に残っています。「いつか分かるわ、坊や、いつか分かるわ!」 何が言いたいのかは分かりませんでしたが、その言葉だけは忘れませんでした。
     私のクラスの前でそんな馬鹿をやらかしたことも手伝って、ポリーはその恋人と別れました。これについては、とても悪いことをしたと感じました。同様に、そんなふうに定期的に校舎の窓から落とされる羽目になったヒザとヒジに対しても、とても悪いことをしたと感じました。
     そんな夏のある日、いつものようにミス・フラットーが教室から出ていき、すぐさま私は通りへと投げ出されましたが、そのとき立ち上がった私は第86番小学校に背を向け、まっすぐ家に帰りました。これにて、私の正規の教育は終了したのです。
     このエピソードには面白いこぼれ話が存在します。いとこのポリーは反動から、仕立屋と付き合うようになり、その彼と間もなく結婚することになるのですが、ともかく魚臭い生活から脱け出せた自分を祝福しました。彼女の夫は仕立屋のまま残りの人生も送りました。彼女が振ったそのニシン売りは、その後次々と商売を成功させて、大富豪として世を去りました。

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