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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #2

  •  最後に学校の窓から放り出されたのは八歳のときでした。当時のわが家はアパートのフラット〔同一階の数室を一家族が住めるように設備したもの〕で、住所は東93番街179、北側にはアイルランド人地区があり、南側にはドイツ人が住むヨークヴィルがあって、その間を押し分けて進んだところの小さなユダヤ人地区でした。
     その179番地にあったアパートが、私の記憶にある最初のわが家ということになります。そこに越してくるまでは、ジプシーのような生活をしていて、それほど遠くへ移動することはないのですが── 事実、この近所を一度も出てはいません── しかし常に動いていて、立ち退き勧告書やら差し押さえ令状やら、目をギラつかせた大家の代理人やらにつきまとわれ、追い回されていました。マルクス家は、貧乏でした。とても貧乏でした。われわれはいつもお腹を空かせていましたし、それでいて大人数でした。けれども父と母の、その驚くべき精神のおかげで、われわれは誰一人、貧困のために憂鬱になったり怒りを覚えたりといったことがありませんでした。幼いころの記憶といえば、とにかく楽しかったということ以外はうすぼんやりとしていて、ただただ歌声と笑い声でいっぱい、大好きだったたくさんの人たちでいっぱい、というものです。
     食べ物が少なくなればなるほど、食べさせなきゃならない人数が増える。そんな感じでした。誰もそのことに不平は言いませんでした。皆、ただ、ちょっと張り切って働いちゃ、ちょっと張り切ってスープのだし用の骨だのザウアークラウト〔ドイツ料理の付け合わせ〕の皿だの、何とか余計にいただこうという策略を練ってました。179番地には毎日、十個の口が並んでいました。内訳は、五個が男の子でチコを筆頭にゼッポまで、養女として一緒に暮らすようになっていたいとこのポリー、父と母、それに母の父と母、となります。たいがいはそこに、母の妹のハナおばさんが加わります。また一週間のうちの所定の夜には、父方母方双方の親戚から所定の人数がやってきます。予告なしにやってきますが、招かれざる客というわけでは決してなく、歓迎します。
     フレンチー── 父のサム・マルクスをわれわれはこう呼びました── にとって、このことは実にさまざまな負担をもたらしました。フレンチーは、一家をまかなう家政夫であり、料理人でした。また、一家の稼ぎ手でもありました。フレンチーは仕立屋職人でした。生涯自分の店を持つことはできず、日中は、食堂せましと裁断用のテーブルだの裁縫用のベンチだのを並べ、長い生地やら切れっ端やらを台所の方まであふれさせていました。六時になった途端、縫いかけてる最中だろうが何だろうが、それまでやっていた仕事をやめ、専門職はちょっとそこまでといった具合に生地だの道具だのテーブルだの、一切合切を玄関の方にそっとしまって、10人分とか11人分とか16人分とかの夕食の支度をするという務めにとりかかるのです。
     世界中の誰も彼も、この務めには絶望を覚えるに違いありませんが、しかしフレンチーは、毎度毎度食卓に食事を用意してみせました。食べものに関しては、彼は本当に魔術師でした。二個のショートリブにしおれたキャベツ一個、スープ用の菜っぱ類がひとつかみ、栗の実一袋、あと香辛料をひとつまみ、それだけあれば、彼は呪文を唱えて奇蹟を呼び起こすことができました。ああ神様、フレンチーが包丁をふるい、お玉をふるい、においを嗅ぎ、かきまぜ、味見をして、絶えない笑顔と鼻歌で、キッチン全体を張り切らせていたあのときの、アパート全体が何と信じられないくらいかぐわしかったことか!
     もっとも、あとになって気づいたことですが、フレンチーが自分の分の夕食にがっついているときの笑顔と鼻歌は、別に自身の芸術的な料理の手腕に対してのものとかではなく、このあとピナクル〔カードゲームの一種〕をやりに行こうかなあと考えてのことでした。フレンチーはピナクルが下手くそでしたが、ゲームを愛していて、自分は一流プレーヤーだと考えていました。
     悲しいかな、そのことは仕立屋としてのフレンチーにもあてはまりました。仕立屋という職業についてもまた、彼は愛し、自分にはその才能があると考えていましたが、ひどいピナクルプレーヤーであるということにもまして、彼はひどい仕立屋だったのです。
     「紳士用注文服仕立屋、サミュエル・マルクス」と書いたビラを配って、彼は自分を広告しました── 景気よく、また物思いに沈んで。フレンチーは、整った印象のするハンサムで小柄なタイプの男で、輝くブラウンの目と、なめらかに彫刻をほどこされたような顔を備え、薄い唇でもって微笑みをたたえていました。口にできないほどの素敵な秘密を、この人は内に抱えているのではないか、知らない人ならきっとそう感じるような具合でした。
     最もみすぼらしい身なりで過ごした日々においてさえ、彼はエレガントな雰囲気といったものを保ち続けたものでした。口ヒゲはきちんと刈り込まれ、その見事な黒髪は、きちんとなでつけられていました。お披露目の機会が与えられれば、フレンチーはその非の打ちどころのない服装の趣味を見せましたし、それらを着こなす術も心得ていました。問題は、同じようにやすやすと、自分は良い服を作ることもできるのだと、信じて疑わなかったことでした。色彩や織物に関して、彼が一流の判断力を見せるということについては、全幅の信頼を寄せることができました。生地に対しても、真正の感覚を持ち合わせていました。これは、彼の料理がそうだったように天性のものでした。しかしフレンチーは、それら以外のことも感覚を頼りとしたのです。スーツの寸法を測ったり(巻き尺は決して使いませんでした)、型紙を切ったり(紙切りの芸人が何かのシルエットを切るようでした)、スーツを縫い合わせたり(寸法合わせに悩まされているところは見たことがありません)。
     ですので、フレンチーが出来上がったものを注文客に届けに行っている間、家族はおそるおそる、気をもみながら彼の帰りを待っていました。果たして代金を手に戻ってくるのか、スーツを手に戻ってくるのか? 50パーセントを超える確率で、スーツでした。
     定期的に、代金ナシで返されたスーツがたまると、フレンチーはその不合格品を残りぎれや何かの束("lappas" と呼んでいました)と一緒に二個の大きなスーツケースに詰め込んで、いつものあの笑顔でちょっと肩をすくめて出かけていき、近郊の家々を一軒一軒売り歩きました。時を同じくして、何の不平をもらすでもなく、母はその弟のアルに貸し付けた金の催促に、祖父はベッドの下から取り出した道具一式を持ってニューヨークの通りへ傘の修理の仕事をしに、出かけたものでした。
     そうしてフレンチーが外へ巡業に出ているときも、生活の方は回っていました。が、179番地の台所となると、彼が戻ってくるまでは冷えびえとしてもの淋しい場所でした。そう、スーツや "lappas" のかわりに新鮮なキャベツやハムをスーツケースいっぱいに詰め、戻ってくるまでは。
     私の子供時代の、そうしたひもじい、つらい日々を通じて、フレンチーは一度も働くのをやめませんでした。一家の稼ぎ手であるという責任を、回避するようなことはありませんでした。自身のベストを尽くそうとしましたし、仕事においては、ベストを尽くせていると頑固に考えていました。フレンチーは、情のこもった、温和な人でした。起こったことすべてを── 幸運であれ悲劇であれ── 等しく、その変わらない甘露な気質でもって受け入れました。一日一日を受け入れ、暮らしていく、それ以上の野心なぞ持っていませんでした。彼の悪癖といえば二つだけ、すべての人に対する誠実さ(彼は決して敵を作りませんでした。たとえ、彼から巻き上げようとしている詐欺師たちに囲まれたとしてもです)と、それにピナクルでした。
     フレンチーの誠実さを、悪く言うべきではないでしょう。それこそが、われわれ家族をひとつにし、こうしてここまでやってこさせたものだからです。フレンチーは、アルザス=ロレーヌ地方の一部、フランスの統治を受けるようになってもドイツへの忠誠を守ったままだった場所で生まれました。ですからフランス語が公用語となっても、マルクス家の中では低地ドイツ方言が話されていました。
     一家がアメリカへとやってきたとき、彼らは自然と、同じ方言を話す移民たちのもとへ引きつけられていきました。マンハッタンのイースト・サイドの北部(ちょうどアルザス=ロレーヌがドイツの境界線上にあったように、そこはヨークヴィルの境界線上にあたりました)に、一種の低地ドイツ方言社会といったようなものが生まれました── 非公式なものでしたが、整然と組織されたものでした。
     誰であれ、低地ドイツ方言をしゃべる奴ァ大丈夫だ、というのが、フレンチーの不滅の信用となりました。フレンチーが、低地ドイツ方言をしゃべる数少ない街の仕立屋のひとりとなると、まったくの感情的な理由から、まったくもって彼に見合わないようなたくさんの仕事が舞い込みました。フレンチーとその同郷のユダヤ人の、相互の忠誠というものがなかったならば、マルクス兄弟も、その名が知られるようになるまで同じ屋根の下にとどまってはいなかったでしょうし、まして一緒にショー・ビジネスに身を投じるということもなかったでしょう。
     フレンチーが担った責任のうちで、最も彼の手に負えづらかったものといえば、家族の規律に厳しい人であるという責任でした。厳格な父、などでは彼はありませんでしたし、自然体でそんなふうに振る舞える人でもありませんでした。けれども、そうした役割を演じようとして彼はあきらめませんでした。
     私が近所のお店で盗みを働いて捕まったりしたら、それはもう大変な罪です。(私の罪というのは、もちろん、盗みを働いたことではなく捕まってしまったことです。)私を捕まえた男は、罰を受けさせるため、(ここでもまた忠誠心が働いて)警察のかわりにフレンチーのもとへ私を連れていきます。
     フレンチーは、笑顔をぐっと飲み込もうとするかのように唇で息を吸い込み、眉をひそめ、頭を横に振って、言います。「いいか倅、よくもしでかしやがって、こうしてやらあ。てめえの体の骨って骨を、へし折ってやらあ!」そう言って私を廊下の方へと引っ張っていきます。残りの家族にそのような残忍な光景を目撃させまいとしてのことです。
     そうしておいて、ポケットから取り出したブラシによる打擲が始まります。「いいか小僧」彼は続けます。「こうしてくれる!」私のあごの下でもってブラシを振り、食いしばった歯の奥から出す声で繰り返します。「こうしてくれる!」
     フレンチーは、果敢に試みようとはしたものの、私のあごの下でブラシを振り回す以上のまねは決してできませんでした。彼はため息をつき、フラットの方へと戻って、打ち負かしてやったぞという身振りに両手を払ってみせ、制裁は終わったのだということを家族に示します。
     父が私の体の骨という骨をへし折っても、それほど痛くはありませんでした。

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