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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #5

  •  で、ともかく、八歳のときに、学校と手を切って自由の身になったのでした。それでもってどうなるということについては、考えがありませんでした。一点だけはっきりしていたのは、第86番小学校のそばに近寄ったり、ミス・フラットーの揺れる指が私を射程範囲に捉えたりといったことが、もう二度とないということ。そのころ五年生で、算数ではブイブイ言わせていたチコ、あるいは一年生で100の位をやっつけていたグルーチョ、彼らにとっては、学校というものも良かったのかも知れませんが、私には駄目でした。私が唯一得意としていたのは白昼夢でしたが、ニューヨーク市の教育制度ではこの教科に単位は出ませんでした。
     両親は、私が自由の身となったことを受け入れてくれました。彼ら自身、それぞれの人生で様々な退歩を受け入れてきたように、です── 自責の念とか、後悔とかはナシ。ミニーは、アル叔父の芸能生活を監督することに忙しくて、私にそれほど関わってもいられなかったのです。彼女は、ポリーのニシン売りの恋人を学校へ行かせることで、ともかく自分の職責は果たしたものと感じていました。フレンチーは、私が学校を辞めたという一報を聞いて、肩をすくめ、微笑んでうなずきました。肩をすくめたのは彼の失望を示していました。微笑んだのは彼の喜びを示していました。今度のニュージャージーへの「行商」に、助手として私を連れていけることになったというわけです。
     当時は知る由もありませんでしたが、きっと、長期欠席児童調査官と呼ばれるような人が私を探しにアパートへやって来ていたんじゃないかと思います。そうだとすれば、あれが何だったかが分かります。その人がうちをノックしたとき、われわれは大家の代理人が家賃の徴収に来たのだと思って銘々の隠れ場所へ飛んでいき、階下へと降りていく足音が聞こえるまでじっとしていました。
     私自身はと言うと、あのとき第86番小学校の窓をあとにして二度と戻らなかったことについて、自分は正しい行動をとったのだと思い、疑ったことは一度もありません。悪いのはみんな学校でした。その日その日をどう生きていったらいいのか、つまりそれは貧乏人はどうやって暮らしていけばいいのかということですが、学校はそういったことを誰にも教えてくれませんでした。学校は、「人生」── 遙か彼方の未来にあるアレ── に向けて準備をしてくれますが、「目の前のこの世界」のためには準備してくれません。今日、あるいは今夜、またあるいは、その日がどんな一日になるのか皆目見当もつかないままに目を覚ます朝、われわれはそれに直面しなければならないというのに。
     子供時代、「未来」なんて本当にありませんでした。24時間という時間を押し分けて行くこと自体が、次にやってくる24時間のことを思い悩んだりする必要もないくらいに、それだけで充分大変なことでした。「過去」を笑うことは、幸運にもそれを乗り越えてしまえば、できるでしょう。が、そこには心配な「現在」があるだけでした。
     不満をもうひとつ。学校は、こっちにとって祝福するような余裕など決してない祝日を教えます。感謝祭とかクリスマスとか。タダでパレードが見れる聖パトリックの日とか、通りの真ん中で巨大なかがり火をたいてもお巡りにとめられない大統領選挙の日とか、そういう本当の祝日は教えません。敵対してる一味にやって来られたときはどうすればいいのか── どの場合逃げて、どの場合陣地を守るべきなのか── も、教えてくれません。テニスボールはどう集めたらいいのか、片足スケートはどう作り、電車やトロリーにはどう乗り、配達用トラックにはどう便乗し、どう犬を飼い、泳ぎにはどうやって行き、アイスクリームの塊や果物ひときれを手に入れるにはどうするか── それらすべて1セントも払わずにやる方法── これまた学校は教えてくれません。
     教えてくれないことはまだあります。どこの質屋なら、どこで手に入れた品物かを聞かずに金をくれるか。ビリヤードの玉の突き方、ポーカーの賭け方。がらくたを売るところ。他の四人の兄弟と一緒のベッドで、自分の寝場所を探す方法。
     ひとことで言えば、どのように貧しくあったらいいのかということ、それでもってどう日々を暮らしていけばいいのかということを、学校は教えてくれませんでした。だから自分で学びとる、というのが私にできる最良の方法だったのです。街での私は、現在の基準でいけば、非行少年でありました。けれども、1902年時点のイーストサイドにおける基準では、私は誉れある生徒、だったわけです。

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