7
Jul.
2005
Yellow

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/ 2 Jul. 2005 (Sat.) 「半分ぐらい寝ていた」

批評は、ブログに言うだろう、「今」がそんなに好きか。
──鈴木一誌「遮光された部屋 ブログの画面論」『ユリイカ』2005年4月

ご無沙汰。
半分ぐらい寝ていた、というのは、ほんとうは昨夜の「タルコフスキー傑作選Vol.2」のオールナイト上映における私について報告したものだが、二ヶ月弱ぶりになる日記のタイトルにそのように書けば、それが日記を更新しなかったあいだの私についての報告であるようにも読め、考えてみれば、それもあながち間違いではないということになるのは、忙しくしていた時期も脱力していた時期もおしなべてしまって中長期的なスパンでその時間をふりかえったとき人は、たいてい「半分ぐらい寝ていた」ことに気づかされるものだからだ。そのことに気づき、人は思う。ああよく寝た、と。
昨夜の「タルコフスキー傑作選Vol.2」(池袋・新文芸坐 )は『サクリファイス』『ストーカー』『鏡』の3作品。そして約二ヶ月前、このオールナイト企画の「Vol.1」にあたる上映会(『ノスタルジア』『惑星ソラリス』『僕の村は戦場だった』)から早朝に帰宅した私が、「感想はのちほど」とさもじきに戻ってきますよという口ぶりで書いたのが不意の無沙汰がはさまる直前の5月14日付けの日記だった。

で、私はいま新文芸坐のオールナイト(タルコフスキー傑作選)から帰ってきたところで、これから少し寝て、今日の午後は例の「自主リーディング」のためにまた池袋方面へ出なければならない。タルコフスキーについてのことなど、書くのはそれが終わって帰ってきた夜になるだろうから、ひとまず短い報告まで。

 書こうとしていた「タルコフスキーについてのこと」がいったい何だったのか、いまとなってはあやふやな記憶しかないが、律儀にその予告に接続することからはじめれば、それはたしか次のような文章になるはずだったのではなかったか。
そう、それが無沙汰のあいだの一番古い記憶ということになるが、兵藤裕己さんの『演じられた近代』 を読了し、次に手を出したのが──両者のあいだに関連性はべつにないけれども──岡田利規さんの『三月の5日間』 で、その戯曲がたいへん刺激的だったことは言うまでもないが、と同時に、これに「似ている」と評された(らしい)オールツーステップスクール の『メイキング・オブ・チェーンソー大虐殺』のことを再考する上でも、ためになる(?)読書であったことはたしかで、それはつまり単純に「何が似ていると言われているのか」がわかったということだが、わかってみてあらためて言えることは、「似ている」という物言いの「何も言っていなさ」だ。それはタルコフスキーの『惑星ソラリス』を観て、主演の男優の顔がどこかしら梅宮辰夫に似ていると感想を述べることと何ら変わるところがなく、つまりまったく何も言っていないに等しい。両者は同じようにして「ほとんど何も言っていない」のであり、いやまあ、ちょっとちがうかもしれないけれども、そして、ことによると梅宮辰夫の比喩はまったく次元が異なるのではないかといま私は思いはじめているところだとしても、それはそれとして、『惑星ソラリス』の主演の男優は顔が梅宮辰夫似なのである。
ネット上でものを考えるということについて、その道具をさがす日々である。いま、さしあたり参照されるべきはおそらく北田暁大さん だろうか。『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス) はむろん読んだ。雑誌などを手に取るとき、名前を注意するようにしているひとりが北田暁大だが、その著作をはじめに読んだのは2004年4月号の『ユリイカ』に収められていた「引用学 リファーする/されることの社会学」という文章だったはずだ。と、やけにくっきりと思い出してみせたのにはわけがあって、以前に自分のブログにその論考のことに触れた文章を書いたことがある。ドメインの移行時(web-conte.comにコンテンツを移した際)に消してしまってネット上にはないが、ローカルにバックアップしておいたHTMLファイルを開いてその論考のタイトル等を確認した。(ファイル名で検索するということではなくはじめて使ったが、Mac OS X v10.4 の新機能「Spotlight」 はこともなげにそのHTMLを探し当てた。とはいうものの、件の『ユリイカ』を本棚から探すほうが有意義ではないのか?)

ところで、「儀礼的無関心」という言葉で語られるネット上の問題に関して、その議論の流れに違和感を覚えるのは、(社会学にはまったく門外漢ながら)その響きからいって、どうも「儀礼的無関心」という用語が本来の意味からズレて用いられているのではないかと感じるからで、「交通機関内や盛り場といった(公的領域と私的領域とを結ぶ「あいだ」の)空間で、他者に対して儀礼的な無関心を装うこと」を指す一般社会での「儀礼的無関心」がそうであるほどには、いま直接の問題となっているネット上の関係(ネット初心者とネットでの処世術に長けた者)が「対称的」ではないと思えるからである。(そして、その関係を「しかし、やはり根元的には対称的なのではないか」と捉えかえす──つまり、ネット熟練者がネット初心者の上位にあるとする二元対立をを崩し、無効化する──ことによって、より奥にひそむ「他者への応接」という問題へと接続しようとしたのが、北田暁大「引用学 リファーする/されることの社会学」(『ユリイカ』、2004年4月)ではなかったか。)

 というその私の文章をここにいきなり引用しても、前後の文脈を欠いているから(いったい何が「ところで」なのか)よくわからないことになるだけだが、読み返してみて「自分がなにやら小難しいことを書いている」ということが誇らしく、ただそれだけで引用してしまった。馬鹿か私は。
『トーキョー/不在/ハムレット』のメンバーであるいせさん と岩崎さんが出ている吉祥寺シアター オープニングステージ第2弾:KERA・MAP#004『ヤング・マーブル・ジャイアンツ』を妻と観劇後、買い物のために少し歩き、井の頭線で渋谷に出て、妻の友人と三人で食事とビール。9時半になり、私はそのふたりを店に残して新文芸坐に向かった。

(2005年7月 5日 14:10)

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