8
Aug.
2005
Yellow

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/ 10 Aug. 2005 (Wed.) 「なんというかこの、照れくささである」

宮沢さんが「新潮クラブ」に籠もり、「富士日記2」 新規ウィンドウ が更新されないと聞いて書くわけでもない。
ながらくサイトを更新しないでいてふたたび書くというときの、なんというかこの、照れくささである。どのツラ提げて、といったような。そんなときは却ってなんでもない些細なことを書くのがいい、と以前言っていたのは友人の上山君だ。その上山君ももういない。
いや、いるけど。
しかしどうにもこの、パラグラフが短くはないだろうか。「断章」と呼ぶならそれはそれで聞こえもいいが、なんのことはない、まとまった量の考え事を持続できないだけのことで、書かないでいたブランクは如実に文章に出る。リハビリと呼ぶしかない文章がしばらくはつづくだろうか。あるいはそのリハビリもまたつづかないのだろうか。相馬さんのサイトを見に行ってたまさか日記が更新されているとその日一日いいことがあるような気分になる、とよくわからないことを言っていたのは知り合いの北田さんだ。その北田さんがわれわれの前から姿を消して、二回目の夏がやってきた。
ところで「われわれ」って?
こうしてサイトの文章はたいてい、いきおいで紡がれていく。書いているうちに楽しくなって、本来書こうとしていたことなど忘れている。日記でもなんでもなくなっている。日記でもなんでもなくなれば本望、そこへ至るためのリハビリである。すでにいくぶん楽しくなっているのかもしれない。しかし最初に訪れる「はしゃぎ」には疑いの目を向けなければいけないのであり、そのはしゃぎはじつは面白くないかもしれない。
しばらく前に買って読まずにいたのをちびりちびり読みはじめたのはテリー・イーグルトンの『アフター・セオリー ──ポスト・モダニズムを超えて』(筑摩書房) 新規ウィンドウ 。概して「理論」と括り称される、ポストモダン的なる言説へ向けられた批判の書だが、それがむろん単なる反動でありえないのは、『文学とは何か』 新規ウィンドウ で知られる著者自身、その「理論」の真っ只中にいた人だからだ。文芸批評家である著者の出自はマルクス主義批評であり、その足場はいまも変わっていない。ふんだんな皮肉とジョークをまじえた熱っぽい悪口雑言のなかに、「社会主義」というイデオロギーが本来的に持ち得ていたはずの、ある「まっとうな希望」を語るその純心が力強く浮かびあがる。
ところで、「皮肉とジョークをまじえた」と形容される文章は実際のところ面白くないというのが通り相場だし、本書もまた「皮肉とジョーク」なるものが抱え込んでしまう根源的な「面白くなさ」から完全に自由ではないが、しかしイーグルトンは、たまに「面白い」のも事実だ。

プーシキンや言論の自由を大事にするとは、純粋に偶然のことに過ぎない。そうしたものを評価する世界にたまたま生まれただけのことである。まったく異なる世界に生まれる可能性もあったし、ほかの場所ではまったく違う価値観が現実に見られることもある。だが悲しみ、共感、直角三角形、あるいはこれらに似た概念がどれも文化的に偶然の産物だとは、なかなか理解しにくいだろう。ましてこれが、乾杯のときに硫酸を使わないといったことになれば、話は少々わけがわからなくなり始める。しかしいずれにしても(後略)

 「しかしいずれにしても」じゃないだろうと私は言いたいのだったが、また同時に、『アフター・セオリー』を紹介しておいてわざわざ引用すべきははたしてここかということも問題である。
あるいは、こうした一節。

特殊用語が必要な場合もあれば、日常用語を必要とする場合もある。医者からぽんぽんの具合はどうかと訊かれるのは構わないが、カルテに「ぽんぽんは少し元気」と書くようなら、医者としての腕を疑わざるを得なくなる。美術評論家がカンヴァスの中央には小さくおかしな赤いものがあって、これがとてもいいなどと書けば、この人間の教育に公共資産がずいぶん浪費されたと考え始めるかもしれない。自分で救命ボートを降ろすような羽目になることを、船乗りの口から聞きたくはない。話の内容を理解したために不愉快な気分になる事態は、人生には多々ある。「ちょっと左へ、それからしばらく気流に乗ってみて」などという管制塔の指示を、機長の無線からは聞きたくないのだ。

むろんそんなことよりも注目すべきところ、扱うべきところはほかに多くあって、たとえば、

肉体の各部分は匿名である。自分の肉体とは親密だが、肉体全体を把握することはできない。肉体には常に一種の「外部」があって、そこは斜めからちらりと見えるだけである。

 という文章にひどく惹かれるのだったが、しかし単に「背中」のことを言っているだけとは思われないこの言葉がいったい何を意味しうるのか、私の理解はそこまで及んでいなくてさらに考えなくてはいけないことなど書くべきことはたくさんあるが、なにしろいまはちびりちびりと読んでいるので、それはまた読了後にということになる。翻訳のせいなのかどうかはわからないが、とにかくイーグルトンの独特な文体はけっして読み易くない。その一方で最近やけに平易な文体を用いるようになった私の恩師(大学のゼミ担)、石原千秋先生の新刊『『こころ』大人になれなかった先生』 新規ウィンドウ は一気に読んでしまった(まあそもそも薄い新書本だし、内容の多くが授業ですでに習ってあることだというのはあるけれども)。

(2005年8月12日 00:25)

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