27 Sep. 2005 (Tue.) 「気になるクリエイター」

■また肺が痛かった。たばこか。たばこなのか。
■自分のサイトを更新しないでいる間は、よその個人サイトを見に行くのも頻度が減る。といってネット環境そのものから離れているわけではない。自分のところを書くまではちょっとよそに顔向けできないといった、よくわからない感覚がある。ブラウザのブックマークを開きつつも、見ている顔の前でカーソルの動きが鈍る。なんだか億劫なようになる。
■きのう宮沢さんの「富士日記2」
を開いたのも、ちょっとひさしぶりのことになる(今月の上旬に見たきりだったか)。で、そこには「こそこそやる研究会」についての話があり、そのネーミングをめぐって読者の方からメールで案を送ってもらったというようなことが書かれていて、それで自分もネーミング案を送ってみようと思ったのは、ここのところしばらくお会いしていない宮沢さんに、たんにメールがしたかっただけである。ああ、この用件でメールすればいいかと、それでネーミングを考えるものだから、本末転倒で、むろんろくな案はない。まさかまるごと日記のなかに引用されるとは思わなかった。送ってよかった。
■その宮沢さんが「ノート 〜コンピュータとMacにまつわる思考の遍歴〜」という連載を持っている『MACPOWER』誌の10月号を買う。左欄に載せたのがその表紙だが、そこには、文字にすると次のように書かれている。
あの人が気になっている、
あのクリエイター特集。テイ・トウワ
常磐 響
小山薫堂
糸井重里
高城 剛
リリー・フランキー
藤本やすし
小西康陽
桑原茂一
青木克憲
小島淳二
長谷川踏太
桐島ローランド
宮沢章夫
箭内道彦
川崎和男
中村拓志
永島京子
ナガオカケンメイ
一見すると、「あの人が気になっている、あのクリエイター特集」という企画にこれだけの人が参加しているかのようであり、宮沢さんもまた「あの人」のひとりとして特集記事のなかで気になるクリエイターの名を挙げているかのようだが、そうではない。実際に誌面を見てみると宮沢さんはいつものようにその連載コラムを執筆しているだけで、つまり、上記のリストは連載執筆陣も含め10月号に登場する主だった名前を並べているものだとわかるのだった。ちなみに宮沢さんの今月の原稿は「iTunes Music Store」というタイトルで、その iTMS が日本でサービスを開始した直後に松崎しげるの「愛のメモリー」が売上ランキングの上位に登場したというあの出来事を扱っている。とはいえ、そのコラムは雑誌全体のなかぐらい、ちょうど特集記事につづいてあるような位置に置かれているため、それもまた「あの人が気になっている、あのクリエイター」という枠組みのなかにあって、同じテーマを共有しているかのようにも読めるのだった。つまり、そうした枠組みのなかで読者は「宮沢章夫がいま気になっているクリエイターは松崎しげるである」という強いメッセージを受け取るのだったが、まあ、それは実際そうなのだからしかたがない。
26 Sep. 2005 (Mon.) 「ここらで端折〔はしょ〕る」
○9/18(日)
家でのんびり。先日実家に帰ったさいに、しばらく前からiBookユーザーになっている母にアップルの「iSight」
をプレゼントした。「iChat AV」
というソフトを使っていわゆるテレビ電話をするための専用カメラである。夜、「じゃあ、やってみようか」と電話したのち、荻窪と下館とでテレビ電話。
○9/19(月・祝)
所用で立川へ。そのこととはまったく関係ないが、妻が「GAMEBOY micro」
の本体と「ドクターマリオ&パネルでポン」、「スーパーマリオブラザーズ」を買う。夜、また下館とテレビ電話。きのうより早い時間帯だったので向こう側には姪っ子たちも現れ、かなり面白がっている様子。
○9/20(火)
○9/21(水)
○9/22(木)
働いていた。ホームページばかり作っていた。
○9/23(金)
昼に起き出し、夕方から出掛けて妻の実家に行ったのは明日の法事に出るためだ。途中、新宿で妻は「GAMEBOY micro」用に「MOTHER1+2」を買い、電車のなかで冒険をはじめる。私は高橋哲哉『国家と犠牲』(NHKブックス)
を読了(これについては後述)。妻の実家では毎度ながらいろいろ食事を振る舞われる。妻の実家のほうでも「パソコンを買ったらどうか」という話(主に妻から母親への働きかけ)は以前からあったが、それをにわかに後押ししたのが「荻窪−下館」間を結んでいま一大ブームを巻き起こしつつあるテレビ電話(iChat AVのこと)で、一大ブームはウソだが、とにかくそれで購入に至る弾みがついてしまった。以前「パソコンを買ったらどうか」という話が出たときに妻が想定していたのはWindowsだが、一転、iBook
で話はまとまる。「iSight」で「iChat AV」をやりたいという外堀が埋まってしまっているので自然な流れだが、そもそも「会社がWindows」とか「まわりがみんなWindows」とかそうした状況がまったくない環境なので、だったらMacのほうが「なんとなく使えてしまう」インターフェースをもっているのではないかと判断する(なにしろ、岸さんでも使えるのがMacだ)。あとまあ、Macのほうが私がサポートしやすくていいということもあるし。むろんいまはネット環境もないのでADSLも引かなければいけない。夜、私が持っていったPowerBookをAIR-EDGE(旧AirH")
でネットにつなぎ、アップルストアで iBook(12-inch: 1.33GHz)とその他もろもろを注文する。
○9/24(土)
法事は11時から。昼には終わり、食事をして戻る。今度はKDDIのサポートセンターに電話し、ADSLを申し込む。開通までには3週間〜1ヶ月かかるとのこと。そうこうするうちアップルからは商品を出荷した旨のメールが届く。早いよ。iBookだけが無駄に早く届いてしまうことになる。iBookはしばらく箱のままどこかに置かれて、ADSL開通後にあらためて私が来ていろいろセットアップすることになるだろう。夕飯に豚しゃぶをごちそうになってから荻窪に戻る。
○9/25(日)
また家でぼんやりとしていた。午後の早い時間に下館から電話があり、また「iChat AV」。やりたがっているのは姪っ子たちである。夜、上山君と永澤に電話。荒川からはかかってきた。それぞれに「iChat AV やろうよ」と呼びかける。上山君は「iSight」はすでに持っているが(だいぶ前に私があげた。そもそもはわれわれ夫婦が結婚前に1個ずつ持ち、テレビ電話をしていたのだが、同居するようになり要らなくなった一方を大阪に越した彼らにあげた)、使うのにOSのバージョンアップをする必要があり、上山君が重い腰を上げてくれるのを待っている状態。永澤はもうすでにやれる環境がある。救急病院に就職し、すっかり忙しい人になってしまったのであとは時間が合うかどうか。荒川は、まあまだちょっと先の話になるだろう。旧iMacを所有しているが OS 9 だし、それは実家に置きっぱなしになっていていま住んでいるところにはネット環境がない。来年1月に新居が建つというので、そのタイミングで新しいMacだの、ネット環境だの、おそらく整えるのだろう。
■というわけでいま、時代は「iChat AV」である。あと、「靖国問題」。
■ブログのほうの「Yellow を更新しました」の記事のコメント欄
ではいま「靖国と盆」をめぐり、兄弟で話をしている状態だ(「あ」という署名は「あきら」で私の次兄、「ま」は「まさし」で長兄である)。
■そのなかの長兄の文章には次のような箇所。
あれは(あの類は)日本に限らず、近代国家というものの根拠付けにとって(それがそもそも無根拠であるが故に)必要不可欠なものなのではないでしょうか。故に近代国家の首相としての行動は、残念ながら驚くに足りず、当然のことであると思います。
そう、そうなのだ。しかし――、とそこからに問いをすすめるとき、いまなにより参照されるべきは、ふたたび高橋哲哉の『国家と犠牲』(NHKブックス)
である。「靖国問題」から出発してさらにその根底にある普遍的な問題――「犠牲」の問題――へと問いをすすめ、「さらなる批判的探究の足がかりを作ること」を目指して書かれた同書は、現代日本にかぎらず、国家に普遍的に見られるところの「犠牲」の論理を古今東西の言説のなかに丹念に見つめて、その「克服の困難さ」をあらためて確認する。だから、最終章において高橋は、いったん次のように書かなければならないのである。
このように考えると、どうしても次の結論は避けられないように思われます。すなわち、いずれにせよ、人は「絶対的犠牲」の構造のなかで決定しなければならないのであって、その外部は存在しない、という結論です。
(中略)
非暴力平和主義もまた、「絶対的犠牲」のアポリアを免れるわけにはいきません。平和主義はもしそれがアプリオリに、あらゆる事態に対して自動的に適用されるのであれば、もっとも無責任な態度のひとつになってしまうでしょう。その場合には平和主義は、他者を尊重するように見えながら、実際はいかなる他者の呼びかけにも応答していないといわざるをえません。
イサクの犠牲は、アブラハムが刀を振り下ろす瞬間にさし止められます。しかし、「絶対的犠牲」の構造が終わらないことは、そこにも示唆されていました。イサクの代わりに別の他者が、すなわち雄羊が全焼の犠牲に供せられたのでした。
犠牲なき国家、犠牲なき社会、そして軍なき国家、武装なき社会。これらがいかに実現困難なものかが分かります。(太字強調は原文、以下同じ)
そしてつづけて、「では、私たちは犠牲を要求し、それを正当化し、聖化・聖別さえする(略)国家に対し、批判を断念しなければならないのでしょうか」と問いかける高橋は、しかしそれに答えてきっぱりと態度を表明する。「そうではないでしょう」と。
私の認識はこうです。あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なるものへの欲望なしに責任ある決定はありえない、と。
(中略)
かつて魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を描きました。もっとも戦慄すべきことは、「人食い」に戦慄する自分自身がその「人食い」の社会のなかで生きてきたこと、また生きていることでした。「絶対的犠牲」の構造とは、私たちの生と社会のいたるところに「人食い」があるということを意味しています。魯迅はしかし、「人間が人間を食う」社会に絶望しつつ、しかし希〔まれ〕な望み=希望への問いを最後に発したのでした。人間を食べたことのない子どもがまだいるかもしれない。
子どもを救え!私たち自身のなかに、「人間を食べたことのない子ども」への問いを見出すこと。「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせること。
■いやまあ、『隠し砦の三悪人』でいえば「裏切りご免!」にあたる部分をごそっと引用してしまっているわけですが、議論の詳細については同書をお読みいただければさいわいです。
17 Sep. 2005 (Fri.) 「荒川の結婚式に出る」






■高校の同級である荒川泰久と、里沙さんの結婚式当日。朝8時半にぎりぎり起きてわれわれ夫婦と恭子ちゃんと3人、下館(私の実家)から電車で宇都宮へ。次兄夫婦はそれとはべつに車で楽器等の荷物を載せ移動する。10時15分ごろに会場の東武ホテルに到着。10時半から12時ぐらいまで、実際の会場を使い余興の練習をさせてもらえることになっていて、われわれ3人が一番乗りだったが追ってぞくぞくと「マダムハニームーンバンド」(14日の日記に関連記事あり)の面々が集まってくる――田村は栃木から、上山君は大阪から、永澤は長野から、吉沼夫妻は東京から、そして宇都宮それ自体は都心から遠いと言うには憚られるものの近いというわけでもない、つまるところ「面倒」な、微妙な位置にあった――。式は2時半から。時間はない。
■神前式につづいては、いまどきちょっと珍しいのではないかというほど、結婚式と聞いて思い描くところのケレン味(イベント性?)にあふれた、そうした意味で「オーソドックス」な披露宴がはじまった。「なんでこの人が私の友達なんだろう」(褒め言葉)という具合であり、また、吉沼の言を借りれば、
もしこれが80年代で、演出の選択肢に「ゴンドラ」があったら、まずまちがいなく乗っていたね、彼らは。
という按配である。
■余興の時間に入り、まずはじめは新婦が所属しているガールズバンド「うらら」の演奏。新婦自らも演奏に参加し、ドレス姿でベースを弾く。そのあと、前日に妊娠が発覚したばかりの目出度い人、みえさん(私の義姉)が単独で「フラ」を踊り、ここでいったん新郎新婦が時間差でそれぞれお色直しのため退席するが、そのさい新郎は槇原敬之の曲を歌いながら退場するというやりたい放題を見せる。新郎新婦が再入場したのちが余興の第2部で、いよいよ「マダムハニームーンバンド」の出番である。
■いやー、だめでしたね。いろいろ準備不足というか、考えが甘かった。披露宴の帰り、上山君は「だから、『笑いに来ていない』お客さんを笑わせるのがいかに難しいかってことだね」と、結婚式の余興についての反省の弁とも思えない、ちょっとどうなのかと思うような言葉を口にしていたが、まあ、だいたいそういうようなことである。
■やっぱり人形劇はスケールが小さかった。2本向けたスタンドマイクではほとんど声が拾えず、「宴もたけなわ」であるところの各テーブルはうるさい。肉声でなんとか届くのではないかという判断が甘かった。テンポが悪くなろうとマイクは手に持たせるべきだった。頼みの綱は新郎で、事前の要望としては「俺(新郎)を楽しませてくれればいい」ということがあり、まあ最悪そこにだけ伝わればいいかとも考えていたが、どっこい高砂にいる新郎のところにはどんどんと人がビールを注ぎに来てしまうのだった。冒頭の映像(スライド)でそれなりに注意をこちらに惹けるのではないかという考えも当てが外れる。人形劇をやる舞台エリアとスクリーンは離れたところにあるのだが、舞台近くの席でせっかく注目してくれる一部の視線はガタガタと机を準備したり、楽器の音出しをしたりする舞台側のほうへ向いてしまっていて、いざはじまってもなかなかスクリーンに気づいてくれなかったらしい。「それでは後方のスクリーンにご注目ください」のアナウンスが一言あれば、ということだが、考えが至らなかった。そしてまあ、私も段取りと台詞を一部まちがえた。
■最後、新郎を舞台に呼び込んで「乾杯」を歌わせるという無理やりな構成が、しかしわれわれを救う。「主役」が歌い出せば、そりゃあ注目は戻るし、盛り上がるのだった。そりゃそうだよ。
■というわけでいろいろ反省。もう人形劇はやりません。メンバーのひとりである田村が来年5月に式を挙げることが決まっていて、次の「マダムハニームーンバンド」はもうそこと決まっているが、そのときにはこの反省をぜひ生かしたい。生かしまくりたい。うーん、やっぱり事前に何かビデオ作品を録ってそれを流すだけというのがラクで、手堅いだろうか。
■まあ、そんなこんなで、おめでとう荒川君、里沙さん。
16 Sep. 2005 (Fri.) 「下館へ。靖国問題ふたたび」

■明日に控えた荒川の結婚式は、栃木の宇都宮にあるホテルが会場だ。「マダムハニームーンバンド」の余興(14日付けの日記を参照のこと)の準備もあり、今日のうちに下館(茨城)の私の実家に帰る。実家の向かいに住んでいる次兄夫婦も明日の式に呼ばれていて、「マダムハニームーンバンド」のメンバー(音楽班)である。それから、同じく音楽班の恭子ちゃん(上山君夫人)も単身下館まで来てくれることになった。上山君、永澤、吉沼夫妻は都合上当日の朝に宇都宮入りするしかなく(上山君と永澤は仕事。吉沼はなんとかなるらしいが夫人の彩子さんがいま矢内原美邦さんのワークショップに参加していて、それがちょうど今日あり、夜遅くまで横浜にいることになるので無理)、結局全員揃うのは明日の10時半である(式は14時半から)。当初は田村(栃木在住)も下館に来てくれる予定だったが、田村は「マダムハニームーンバンド」の余興とはべつに通常のスピーチもたのまれていて、その原稿を書かねばならないとかで来られなくなった。
■音楽班(次兄夫婦と恭子ちゃん)の演奏を、出し物の人形劇のなかでどのように挿入するかといったことをまったく打ち合わせておらず、それを決める作業と若干の練習を兄の家でする。終わったのは未明の3時近く。
■で、私はちょうどこの日、この「Yellow」のまとめ書きをはじめていたところで、新幹線のなかで途中まで書いた13日付けの日記をその場でみんなに見せていたりしたが、「靖国問題」を扱ったそのかなり硬直気味の感のある文章を前に、兄はしなやかな口調でこう言ったのだった。
「靖国」ってさあ、あれ、たぶん「お盆」だと思うんだよね。
よりにもよって8月15日なんかに終戦しちゃったもんだから、日本人としてはつい「お盆」感覚で「参り」たくなるんだよ、とつづける兄の論旨は、つまるところ次のような答えに行き着くところのものだ。
「参り」たくなっちゃったら、(靖国ではなく、個々の菩提寺の)お墓に行けばいい。
「靖国問題」という言説群のなかにあって一見ひどく「のんきな意見」のようにも聞こえるが、しかしこれをきちんとした批評の言葉のなかに置いたとき、たとえばそれは、次のような言葉に連なってくるはずのものなのではないか。
例えば大災害があったとします。そのときに消防士などが亡くなったときにどうするのか。それを国家が、何らかの施設で「あなたのお陰で」というようなものは今のところはない。戦争の死者だけを、国家はなぜ追悼や慰霊をする施設を求めようとするのか、そこが問題です。国家は何故そういうものを求めるのか。憲法九条で日本は非戦国家だという宣言をした。実態はそうでないとしても、それは武力を持たず、交戦権も否認し、戦争を放棄し、要するに主権国家というものを自ら制限した。これは、二〇世紀途中までの全世界の国民国家のあり方とは異なる国のあり方を指し示した。憲法制定者がどこまで意識していたかはわかりませんが、後の世代はそう受け止めるべきだと思います。国のために死ぬということを、戦後の日本は国家としても個人としても選択していない。だとすれば、そのための国家施設というのはもともと不要です。これは子安宣邦さんの論(『国家と祭祀』)と重なりますが。
ですから、「代替施設」という考え方自体がおかしい。靖国神社の代替の国立の施設を新たに求めるということは、つまり新たな死者を予定しているということにほかならない。私は共同体の集団的追悼にも疑問を持っています。それは共同体に国家が介入してくる危険性を排除できないと思っているからです。
――「討議 〈靖国〉で問われているもの」(『現代思想』2005年8月号所収)での田中伸尚の発言より。太字強調は引用者。
15 Sep. 2005 (Thu.) 「AirMac Extreme ベースステーション」
■日記でもって「閑話休題」もないものだが、話は変わり――日付が変われば話も変わろうというものだが、このようにまとめ書きしているとそう前置きしたくなる気分になる――、アップルの AirMac Extreme ベースステーション
を買ったという話である。わが家の無線LANによるネットワーク環境の改善を図った。
■すでにだいぶ前から無線LANにはしていて、それは corega というメーカーの無線ルーターを使っていたのだが、なにかと調子が悪かった。思い返せば AirMac Express
(通常のオーディオセットと Mac を無線でつなぎ、iTunes の曲を部屋のスピーカーから流したりできるもの)と併用するようになってから調子の悪さは倍加したように思え、ルーターのほうでいえばマシンがスリープ状態から復帰したあと無線ネットワークを再認識するまでにひどく時間がかかるようになったり、AirMac Express(AirTunes)はといえばしばしば曲が途切れてじつに気持ちが悪いし、かと思えばぷっつり途切れてまったく認識しなくなるといったことが頻発していた。
■でまあ、ネットワークのこまかい按配については明るくないものの、つまるところこれは「相性」というやつだろうかと考え、「アップル純正」であるところの AirMac Extreme の導入に踏み切った。
■いや、いままでの厄介事が嘘のようにすこぶる調子がいいのだった、「純正」は。
14 Sep. 2005 (Wed.) 「マダムハニームーンバンド、みたび」


■高校の同級、荒川の結婚式が17日に控えている。それに向け、またもや友人たちと組み、結婚式の余興のためのユニット「マダムハニームーンバンド」の出し物を準備する日々だ。マダムハニームーンバンドの第1弾は昨年初夏の(これも高校同級である)上山君の結婚披露合宿、第2弾は今年春の私の結婚式と、「バンド」の構成メンバーである友人たちのそれぞれの祝宴に臨んで新郎・新婦を除いた残りの面々が集まり、「余興用の何か」を準備するという歴史の浅い習わしである。
■今回は映像(パソコンを使い、Final Cutから静止画をスライド式に出す)と人形劇。そこに音楽担当班が伴奏を付けもし、そして最後に新郎を呼び込んで新郎自らに「乾杯」を歌わせるというよくわからないてんこ盛りな内容である。台本づくりと映像の制作、総合演出的なところを私が担当する。
■そもそもは、前もって全員で集まり、何か撮影をして本番はそれを流すだけという「映像作品」案がはじめにあったのだが、スケジュールがあわず、結局集まって撮影している時間がなくなって流れた。で、代案の「人形劇」というのは上山君のアイデアによる。なんのことはなくて、人形劇だと演じ手の人間側が身を隠せるので台本を見ながらしゃべれる、台詞を覚えなくてもいい、練習時間がほとんど取れない状況にあっては都合がいい、というだけのことで「人形劇」なわけだが、しかしなかなか面白そうだということになった。
■もうひとつ「人形劇」案を後押しした要素に、新郎の荒川がセサミストリートに出てくるキャラクターに似ている(なんとなくだが、しかし似ている)ということがあって、劇中に出す「新郎」役にその人形を使い、話を組み立てられるということがある。「新婦」役にもセサミストリートのキャラクターにちょうどよいのを見つけ、そのふたつは amazon で購入。残りの人形をどうするか迷ったあげく、新宿の東急ハンズで適当にムーミン、ラスカル、ミッフィー、くまのプーさん、スティッチのハンドパペットを買ってきた。で、それらのキャラクターをもとに台本を書き、専用のメーリングリストに流したのが1週間ほど前である。
■むろん、ことは水面下で、(最後に新郎に「乾杯」を歌ってもらうという段取りを除いては)新郎新婦に対しては内容が漏れないように準備を進めるのだが、この日記を書いている現在はすでに本番を終えてしまっている状態なので詳細が書けるわけだ。(といって、新郎新婦が仮住まいしている栃木のレオパレスにはパソコン環境がないらしく、実家に置いたままの iMac をさわって新郎がメールチェック等するのはごくたまにらしいので、この日記がリアルタイムに更新されていたとしても見られる可能性はかなり低いのだったが。)
■というわけで、これがその「マダムハニームーンバンド」第3弾の台本である。実際の上演に際しては音楽班との絡みもあり、多少の変更・追加・削除を行ったが、だいたいこのままである。
■いや、その、前述のとおり「ラクだから人形劇」という選択だったはずなのだが、結局あまり「ラクでない」台本になってしまった。短いからなんとかなるだろうけど、これ、やっぱり台詞を覚えた上で動かないとうまく間がとれないし、うまく間がとれないとちっとも面白くならないよ、という代物(まあ、それを言えばだいたいなんだってそうですが)で、練習時間に乏しいなか、まったくの素人たちに割り振ってやるにはちょっときびしいだろうかと反省するものの、まあ受けなかったらすべて私の責任である。そもそもねらいが「笑い」にあるということも何か間違ってはいないのか、もっとこう、ふつうに「祝う意志」を見せたらどうなんだということも反省されるべきだろうが、まあそれもすべて私の「癖」である。
■と、心配はそれだけではなく、聞くところによれば披露宴会場はかなり広いらしく、お客さん(ご列席の皆様)の数もかなりあるようで、そんななかちまちまと人形劇をやってはたして「届くのか」という根本的な問題があり、いまさら間際になってそうした「装置」的なところを心配するのだったが、まあそれはそれ。
■夜、スライドに使う画像を作る。
13 Sep. 2005 (Tue.) 「靖国問題」
■ここのところ友人・知人のサイトをまめにチェックしておらず、たとえば「上山君の日記、読んだ?」と妻に聞かれてはじめてそれを見に行き、ようやく今日「1 1/2計画」の告知を知ったような感じである。
■しかし上山君(夫妻)の日記といえば、まったくいまさらながら言及しておきたいというのは8月15日付けのそれで、つまりふたりはその日、また別の友人に誘われて靖国神社に参拝に行ったのだった。そのことに関して、サイトではふたりがそれぞれの視点から別の日記を書いているが、
境内に入る門をくぐったところで、まもなく正午ですから、黙とうをしましょう、というアナウンスが入る。それが耳に入った途端、反射的に、走って逃げてしまった。
と書く恭子ちゃん(上山夫人)が、つづけて、
日本の首相が靖国神社にお参りすることについて他の人がいろいろなことを言うのを、私はあまり快く受け止められない。靖国神社にお祀りされている人が、どんな人だったか、ということが、問題になっている。でも、人は死んだら、物になるだけだ。土とか、水とか、空気になる。そして、あたらしい命はそこから生まれる。私も、そうして生まれた。だから、それはとても尊いものだ。そういうことを宗教の言葉では、死んだら仏になるとか、カミになるとか言うのだと、私は思っている。
と書くのを読みながら、私は正直なところ苛立ったのだった。そうじゃないんだよ。「靖国問題」というのはそういうことじゃないだ。ひどく「良心的」に見える上記のような言説のなかに問題が回収されてしまうとき、それは結果として「靖国の精神」と呼ばれるあの嫌悪すべき思想(「お国のために」という言葉に表される思想)に与してしまうことにしかならないのだ、と。けれども、そのように苛立つのは少し気が早かった。恭子ちゃんは次のようにつづける。
けれども、そういう死んだ人に会いに行こうというときに、「国」という言葉が出てくると、抵抗がある。よく分からないけど、死んだ人に直接関われなくなるように感じる。靖国神社は奥に進めば進む程、「国」という言葉に満ちていた。たしかに、「国」というものは、ある。「太平洋戦争」もあった。「8月15日」もあった。その続きに私があることは、知っている。でも、人間は「国」じゃない。「太平洋戦争」でもない。「8月15日」でもない。とにかく、ここに眠っている人たちがいるのだ、その人たちに会わなければいけない、と思った。
それで、黙とうできなかった。
■いま、首相の公式参拝をめぐりその是非を問うというかたちで問題化されている「靖国問題」においてわれわれが問われているのは、つまるところ、「戦争がしたいの? したくないの?」ということだ。と書くと、「周辺諸国の抗議に対して断固たる姿勢を見せる(一戦まじえる)気概があるのか、穏便にすませたいのか」というニュアンスにとられる可能性もあるから厄介だが、むろんそういう意味ではなく、もっと根源的な問いとしての「あなたの家族・子供・知人を戦争に行かせたいのか、行かせたくないのか」である。
■まず基本的なところを確認しておきたいが、靖国神社に祀られているのは「すべての戦争被害者」ではない。広島・長崎の死者も、東京大空襲の被害者も、民間の死者たちは、いっさいそこには含まれていない。靖国神社が祀るのは「お国のために死んだ(と靖国側が判断した)軍人」だけである(そもそものはじめから言えば、明治維新直後、維新戦争をつうじて亡くなった「新政府側の戦死者」を慰霊するために建てられたのが靖国神社――当時は「東京招魂社」――である。そして言うまでもなく、「新政府側」というのは「天皇側」のことである)。また逆に、日本の植民地となった周辺諸国で「皇民化」を強制され、心ならずも日本軍として戦争に駆り出され戦死した日本人以外の人たちがそこには含まれている。その人たちが、死してなお日本の祭神として――その民族との関係において「加害者」である日本人と同列に――祀られることは故人にとって屈辱以外のなにものでもないとして、現地の遺族らが靖国神社に対し「合祀の取り下げ」を要求しているケースがあるが、靖国神社はそれらの要求にいっさい応えようとしない(これは少なくとも「一宗教法人」の振る舞いとは言えない)。
首相の靖国神社参拝について論じるときに、まず念頭に置かなくてはならないのは、現在も継続しているイラク戦争である。靖国神社であれ、別のかたちのものであれ、戦没者の追悼施設は戦争を遂行するための施設であって、首相の靖国参拝問題は、過去の歴史認識を巡る問題である以上に、現在と今後の戦争にかかわる問題である。靖国神社に関して小泉首相は「不戦の誓い」などという妄言を弄しているが、靖国神社の存在そのものがひとつの軍備であり、公人の靖国参拝が戦争準備行為であるという客観的な事実を見逃すわけにはいかない。国家の戦争を再生産するために戦没者は追悼されねばならず、生の再生産装置の傍らに死の再生産装置があるからこそ、男たちは徴用され兵士になることができるのである。ある皇軍兵士が軍事行動に際して「靖国で会おう」と誓い合ったという話が仮に事実だとするならば、それは明らかに戦争の誓いであり、靖国神社が戦争を推進する軍事施設としてあり続けてきたことを証明している。そのような腐った誓いを今後も可能にするのか、許容するのか、これからの若者たちにそのような誓いを強いるのかどうかが問われているのである。
――矢部史郎「六〇年前の亡霊にではなく、学生に賃金を。」(『現代思想』2005年8月号所収)
■いやまあ実際のところ、「靖国問題」にはものすごく多くの論点があるのであり(たとえば『現代思想』の「靖国問題」特集号には18本の論文と1本の対談が収められている)、その根幹にあるものはまちがいなく「戦争がしたいの? したくないの?」という選択だとしても、そのことを言い立てるだけではおそらく説明不足で説得力を欠くのだし、ほんとうはもっとじっくりと文章にしなければと思うものの、いくら「紙幅にかぎりのない」ウェブとはいえ1日分の「日記」――「日記」か、これは?――でまかなえるような問題ではないのであって、その意味でひとつ参考文献を挙げておくならば、むろんこれ、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)
である。
■同書の最終章において高橋は、靖国の「代替施設」として検討が進められている「(無宗教の)国立追悼施設」について考察を加え、そしてその結果、しごく単純な、単純であるがゆえに感動的ですらあるひとつの答えを取り出してみせる。『現代思想』に収められた対談のなかで高橋自身が説明している言葉を借りればそれは次のようなことである。
私は「国による追悼」を少なくともこの本(引用者註:『靖国問題』)の中では頭から否定しているわけではありません。「普通の国」による追悼は必ず「第二の靖国」になる、ということです。集団的追悼について言えば、人間の死、特に大量の死を様々な形で経験した共同体、それは家族から始まって地域社会や様々なレベルに及びますが、集団的追悼がそれ自体悪いとは言えない。国による追悼は一〇〇パーセント悪とも言えないだろう。しかしそれには条件がある。国による追悼が国家による顕彰となって、新たな戦争に国民を動員し、遺族に死を受け容れさせるための装置として機能する、つまり「第二の靖国」になるということであれば、反対せざるとえない。
そうならない究極の条件は、国家が常備軍を持たないことです。
――「討議 〈靖国〉で問われているもの」(『現代思想』2005年8月号所収)、太字強調は引用者
12 Sep. 2005 (Mon.) 「選挙がすんで日が暮れて」
■やはり選挙結果には憂鬱になるよ。
■夜、DVDで『2001年宇宙の旅』
のオープニング(サル部分だけ)を観ようと思ったのは、土曜日(10日)に立川の映画館でティム・バートン監督の最新作『チャーリーとチョコレート工場』
を観たからで、その劇中にはオマージュとして『2001年宇宙の旅』のワンシーンとあの音楽(R・シュトラウス/交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」〜序奏)が非常にくだらないかたちで使われていた。ちなみに、ロアルド・ダールの原作『チョコレート工場の秘密』
は柳瀬尚紀の新訳で新装版が出ている。
■面白いですよ、『チャーリーとチョコレート工場』は。
■これは以前に川島雄三監督の作品をほめるさいに使った言葉で、要は「どこがどうすばらしい」というのを言語化できずにいるところを誤魔化して言うわけだが、やはりティム・バートンはべらぼうに「映画がうまい」と評したくなるひとりだ。あと、ヘレナ・ボナム=カーターの魅力。
(2000年10月15日の私の日記より)
■阿佐ヶ谷で、川島雄三の『愛のお荷物』と『暖簾』。森繁が! 山田五十鈴が! 円谷が! 中村メイ子が! いや、中村メイ子はちがうのだが、そんなこんなであっという間だったというのを、あるいはいつまでもつづいていてほしかったというのを、なんと言ったらいいのか、やはりべらぼうに映画が上手いのだなこの人は。
■日曜日(11日)は夕方から投票に出掛け、帰ってきて居間で昼寝をするうちに、気づくとテレビの「選挙特番」がはじまっていた。いきなり「自民圧勝」を予測するテロップがおどっている。まあ、なんやかやで深夜まで「選挙特番」に付き合ってしまった。基本的にはNHKとTBSとを行き来して見る。TBSには久米宏が出ていて、筑紫哲也とのダブル司会である。「ニュース23」の枠に久米宏が特別出演というかたちか、あるいは「ザ・ベストテン」の枠に久米以外がごそっとやってきたのかそこはわからないけれども、自民圧勝という重苦しい状況のなか、このふたりのコンビによる司会がいちばん腹立たしくならずに見ていられた。あと、TBSには後半、姜尚中がコメンテーターとして登場し、結局あまり発言する機会はなかったものの、何を言うだろうかとその存在に惹かれて見ていたのだった。
■まったく関係ないものの、いま「姜尚中」の漢字が思い出せず、調べるために「かんさんじゅん」と打って Google 検索したところ見つけたのが、この「かんさんじゅんカコイイ」
というはてなダイアリーの日記だ。まあそうだよね、かっこいいよ姜さんは。あと、こわい。
■いま、会社への行き帰りの電車の中などでちびりちびり読み進めているのは『はじめからの数学』
というシリーズの翻訳書で、その第1巻の「幾何学」だ。「現代思想」誌の「靖国問題」特集号(2005年8月号)
に刊行案内が挟まれていて知ったもので、こうした本には単純にあこがれを抱いてしまうのが私であり、その程度には私は「文系」だ。「中学生でも読める文章」「数式はいっさい出てこない〈読み物〉」と謳われて、出版社が青土社ならさらに手は出しやすい。いやー、やっとわかりましたよ「非ユークリッド幾何学」ってやつが(「わかった」というよりか「知った」ということだが)。
■いま制作中の3Dアニメーション『不思議の国とアリス』
のなかで兄(そうまあきら)は、「またしても平行線だ」とひとりごちるドジソン(=ルイス・キャロル)に対し、アリスに「平行線は交わるじゃん、知らないの!?」と言わせているのだが、このときのアリスの台詞の論拠になっているのが非ユークリッド幾何学で、つまり「非ユークリッド幾何学上においては平行線は交わる」ということなのだが、このよくわからない言葉に対してよくわからないままに、どこか神秘的でさえあるような響きの心地よさを感じ取っては納得してしまうのが「文系」ってやつである。バカを告白するついでに言えば、「グノーシス派」という言葉にも似たような響きがありますね。
■いやー、そういうことだったんですね、非ユークリッド幾何学というのは。と、いたく膝を打っているこのごろである。
2005年8月の日記はこちら。







