9
Sep.
2005
Yellow

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/ 26 Sep. 2005 (Mon.) 「ここらで端折る」

9/18(日)
家でのんびり。先日実家に帰ったさいに、しばらく前からiBookユーザーになっている母にアップルの「iSight」 (新規ウィンドウ) をプレゼントした。「iChat AV」 (新規ウィンドウ) というソフトを使っていわゆるテレビ電話をするための専用カメラである。夜、「じゃあ、やってみようか」と電話したのち、荻窪と下館とでテレビ電話。

9/19(月・祝)
所用で立川へ。そのこととはまったく関係ないが、妻が「GAMEBOY micro」 (新規ウィンドウ) の本体と「ドクターマリオ&パネルでポン」、「スーパーマリオブラザーズ」を買う。夜、また下館とテレビ電話。きのうより早い時間帯だったので向こう側には姪っ子たちも現れ、かなり面白がっている様子。

9/20(火)
9/21(水)
9/22(木)
働いていた。ホームページばかり作っていた。

9/23(金)
昼に起き出し、夕方から出掛けて妻の実家に行ったのは明日の法事に出るためだ。途中、新宿で妻は「GAMEBOY micro」用に「MOTHER1+2」を買い、電車のなかで冒険をはじめる。私は高橋哲哉『国家と犠牲』(NHKブックス) (新規ウィンドウ) を読了(これについては後述)。妻の実家では毎度ながらいろいろ食事を振る舞われる。妻の実家のほうでも「パソコンを買ったらどうか」という話(主に妻から母親への働きかけ)は以前からあったが、それをにわかに後押ししたのが「荻窪−下館」間を結んでいま一大ブームを巻き起こしつつあるテレビ電話(iChat AVのこと)で、一大ブームはウソだが、とにかくそれで購入に至る弾みがついてしまった。以前「パソコンを買ったらどうか」という話が出たときに妻が想定していたのはWindowsだが、一転、iBook (新規ウィンドウ) で話はまとまる。「iSight」で「iChat AV」をやりたいという外堀が埋まってしまっているので自然な流れだが、そもそも「会社がWindows」とか「まわりがみんなWindows」とかそうした状況がまったくない環境なので、だったらMacのほうが「なんとなく使えてしまう」インターフェースをもっているのではないかと判断する(なにしろ、岸さんでも使えるのがMacだ)。あとまあ、Macのほうが私がサポートしやすくていいということもあるし。むろんいまはネット環境もないのでADSLも引かなければいけない。夜、私が持っていったPowerBookをAIR-EDGE(旧AirH") (新規ウィンドウ) でネットにつなぎ、アップルストアで iBook(12-inch: 1.33GHz)とその他もろもろを注文する。

9/24(土)
法事は11時から。昼には終わり、食事をして戻る。今度はKDDIのサポートセンターに電話し、ADSLを申し込む。開通までには3週間〜1ヶ月かかるとのこと。そうこうするうちアップルからは商品を出荷した旨のメールが届く。早いよ。iBookだけが無駄に早く届いてしまうことになる。iBookはしばらく箱のままどこかに置かれて、ADSL開通後にあらためて私が来ていろいろセットアップすることになるだろう。夕飯に豚しゃぶをごちそうになってから荻窪に戻る。

9/25(日)
また家でぼんやりとしていた。午後の早い時間に下館から電話があり、また「iChat AV」。やりたがっているのは姪っ子たちである。夜、上山君と永澤に電話。荒川からはかかってきた。それぞれに「iChat AV やろうよ」と呼びかける。上山君は「iSight」はすでに持っているが(だいぶ前に私があげた。そもそもはわれわれ夫婦が結婚前に1個ずつ持ち、テレビ電話をしていたのだが、同居するようになり要らなくなった一方を大阪に越した彼らにあげた)、使うのにOSのバージョンアップをする必要があり、上山君が重い腰を上げてくれるのを待っている状態。永澤はもうすでにやれる環境がある。救急病院に就職し、すっかり忙しい人になってしまったのであとは時間が合うかどうか。荒川は、まあまだちょっと先の話になるだろう。旧iMacを所有しているが OS 9 だし、それは実家に置きっぱなしになっていていま住んでいるところにはネット環境がない。来年1月に新居が建つというので、そのタイミングで新しいMacだの、ネット環境だの、おそらく整えるのだろう。

というわけでいま、時代は「iChat AV」である。あと、「靖国問題」。
ブログのほうの「Yellow を更新しました」の記事コメント欄 (新規ウィンドウ) ではいま「靖国と盆」をめぐり、兄弟で話をしている状態だ(「あ」という署名は「あきら」で私の次兄、「ま」は「まさし」で長兄である)
そのなかの長兄の文章には次のような箇所。

あれは(あの類は)日本に限らず、近代国家というものの根拠付けにとって(それがそもそも無根拠であるが故に)必要不可欠なものなのではないでしょうか。故に近代国家の首相としての行動は、残念ながら驚くに足りず、当然のことであると思います。

 そう、そうなのだ。しかし──、とそこからに問いをすすめるとき、いまなにより参照されるべきは、ふたたび高橋哲哉の『国家と犠牲』(NHKブックス) (新規ウィンドウ) である。「靖国問題」から出発してさらにその根底にある普遍的な問題──「犠牲」の問題──へと問いをすすめ、「さらなる批判的探究の足がかりを作ること」を目指して書かれた同書は、現代日本にかぎらず、国家に普遍的に見られるところの「犠牲」の論理を古今東西の言説のなかに丹念に見つめて、その「克服の困難さ」をあらためて確認する。だから、最終章において高橋は、いったん次のように書かなければならないのである。

 このように考えると、どうしても次の結論は避けられないように思われます。すなわち、いずれにせよ、人は「絶対的犠牲」の構造のなかで決定しなければならないのであって、その外部は存在しない、という結論です。
 (中略)
 非暴力平和主義もまた、「絶対的犠牲」のアポリアを免れるわけにはいきません。平和主義はもしそれがアプリオリに、あらゆる事態に対して自動的に適用されるのであれば、もっとも無責任な態度のひとつになってしまうでしょう。その場合には平和主義は、他者を尊重するように見えながら、実際はいかなる他者の呼びかけにも応答していないといわざるをえません。
 イサクの犠牲は、アブラハムが刀を振り下ろす瞬間にさし止められます。しかし、「絶対的犠牲」の構造が終わらないことは、そこにも示唆されていました。イサクの代わりに別の他者が、すなわち雄羊が全焼の犠牲に供せられたのでした。
 犠牲なき国家、犠牲なき社会、そして軍なき国家、武装なき社会。これらがいかに実現困難なものかが分かります。(太字強調は原文、以下同じ)

 そしてつづけて、「では、私たちは犠牲を要求し、それを正当化し、聖化・聖別さえする(略)国家に対し、批判を断念しなければならないのでしょうか」と問いかける高橋は、しかしそれに答えてきっぱりと態度を表明する。「そうではないでしょう」と。

 私の認識はこうです。あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なるものへの欲望なしに責任ある決定はありえない、と。
 (中略)
 かつて魯迅は『狂人日記』のなかで、「人間が人間を食って」生きている社会の戦慄を描きました。もっとも戦慄すべきことは、「人食い」に戦慄する自分自身がその「人食い」の社会のなかで生きてきたこと、また生きていることでした。「絶対的犠牲」の構造とは、私たちの生と社会のいたるところに「人食い」があるということを意味しています。魯迅はしかし、「人間が人間を食う」社会に絶望しつつ、しかし希〔まれ〕な望み=希望への問いを最後に発したのでした。

人間を食べたことのない子どもがまだいるかもしれない。
子どもを救え!

 私たち自身のなかに、「人間を食べたことのない子ども」への問いを見出すこと。「人間を食べたことのない子ども」への希望を目覚めさせること。

いやまあ、『隠し砦の三悪人』でいえば「裏切りご免!」にあたる部分をごそっと引用してしまっているわけですが、議論の詳細については同書をお読みいただければさいわいです。

(2005年9月27日 12:46)

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