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Dec.
2005
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/ 21 Dec. 2005 (Wed.) 「つい『新潮』を買う」

19日付の日記の訂正。記憶だけで今福龍太の本を『スポーツの汀(みぎわ)』と書き、わざわざ読みまで示してみせたのが失敗で、正しくは『スポーツの汀(なぎさ)』というのが書名の読みだった。表紙にはそのように振り仮名がある(念のため説明しておくと「汀」という字は「なぎさ」とも「みぎわ」とも読みます)。ただ、「みぎわ」という読ませ方のほうが印象に残っていて、それも確認したが、「序 スポーツの汀」のなかに一箇所だけ「汀」の字にルビを振っているところがあり、それが「みぎわ」になっている。

あらためていうまでもなく、陸と海の狭間である汀(みぎわ)という自然環境においてのみ、波という地球物理学的な現象は生じる。

ほかの「汀」の字にはルビがなく、前後の文脈からいっておそらくここでは「水際(みずぎわ)」という語との連関を強調するために「またの読み方」を示したのだろう。このルビでもって記憶が左右されたらしい。

たしか「第1部 クリケット群島」のなかに「ネットサーフィン」という比喩表現をめぐる考察があって、[19日付の日記]

と書いたのも当てずっぽうな記憶で、冒頭の「序」のなかにその論考はあった。そのわくわくさせられる感じを伝えるために私はまた「引用馬鹿」になるが、たとえば、

波という流体による可変的な運動性をとらえ、そのリズムに自らの身体・意識を同調させることによって、陸と海の狭間においておこる「世界の流動」そのものを読むこと……。サーフィンというスポーツの本質をこう定義するならば、それはまさに情報の不可知の海と、それを知識として一体化しようとする主体とのあいだにおいて展開する、情報ネットワークそのものの運動性と見事に対応する。

沖に向かって泳ぎ、波を待ち、見事に波に乗り、波を横切って汀のうねり自体を自らの身体に刻み込んでゆくようなサーフィンのプロセスは、ざわめく水際が示すあらゆる運動情報をとっさに判断して対処する一回性のなかの真剣勝負となる。あらゆる波は別の波と異なり、おなじ波は二度と訪れない。固有の波が伝える一回一回の情報をサーフボードという一枚の接触盤を通して抽象化し、それをすぐさまいかに微細に身体化して受容するかが、サーフィンのほとんどすべてなのだ。

波は一回性の記号であることによって、世界の端緒にたちあがろうとする言葉を私たちに伝える。サーファーとはその世界のざわめく言葉を聴きとろうとする知覚メディアに与えられた名前なのだ。

といった調子である。

サイトに使っているアクセス解析のリンク元統計によれば、先日「犬と言えば」というキーワードで検索してきた人があったようだ。来年の干支に関連した、年賀状のネタ探しといった目的の検索だろうか。ひっかかってくるのは、「Red」の Vol.18 のページ右下にあるこのクロスワードパズルだ
ところで、アクセス解析にあった件のリンク元は Google ではない検索エンジンからのものだが、Googleでも同様に「犬と言えば」を検索キーワードにするといま現在「Red」のページが一番上に来る。通常「ページ内でキーワードを連呼する」のはいわゆる「Google対策」としては得策でないと言われ、あまり連呼しすぎるとかえって「不正に検索にひっかかろうとするページ」であるとプログラムに判断され検索結果からはじかれてしまうというのを聞くけれども、この「犬と言えば?」に関しては大丈夫だったようだ。何が「大丈夫」なのかわからないが。
あー、それにしても「Red」の最終更新日は2004年3月14日か。更新しようかと思うときがないではないのだ。

これは20日のこと。昼間、会社近くの本屋へ行く。ウェブデザイン関係の雑誌を買うつもりだったが、結局手にしてレジに向かったのは文芸誌の『新潮』である。新年号は赤い表紙。表紙でいえば『文學界』の端正さにも惹かれるし、それに『文學界』はなぜだか知らないが新年の特集が「ロラン・バルト」で蓮實重彦の論考が載っているというのも魅力的だったが、べつに会社で読むわけでもないのに何もいま分厚い文芸誌を二冊も提げて帰っている場合ではないだろうと冷静になり、ひとまず『新潮』のほうだけにする。
『新潮』新年号の目玉はなんといっても「休暇中」と題された古井由吉の4ページほどのエッセイだと書けばむろんそれは嘘になるが、しかしなんだかエッセイも小説も関係ないようなことになっているなこの人は。これ、まるっきりフィクションだとしたらびっくりだなあ。古井由吉、ほんとは25歳とかでね。舞城王太郎の270枚『ザ・パインハウス・デッド』も面白そうだが、これは同じ『新潮』誌に以前掲載された長編『ディスコ探偵水曜日』の続編で、どうもその正編のほうを先に読まないと冒頭からいきなりわけのわからないことになっているのだった。
あと、本屋でクルマ雑誌の『NAVI』も立ち読む。といってあれです、えのきどいちろうさんの連載コラムだけ。クルマにまったく関係ない話だというのは毎度のことながら、今号はブログとウェブ上の日記をめぐる文章。「どうして日記という形式になってしまうのか」というのはこういう話が出るたびに指摘されることで、どうしても既視感が漂うのは否めないが、しかし「つねにあらゆる話題に既視感がつきまとう」のがCMC(コンピュータを媒介にしたコミュニケーション)の特徴なのだとすれば、やはりある種の苛立ちとともにこの問いを発し続けることは必要なのではないかとも思う。

ラジオ・ラストソングスの「聖なる奇蹟の夜に」は早いものでもう第3話を迎えた。FTPを利用して以来音源のやりとりは順調で、第3話分のデータは20日遅くに鈴木謙一さんから無事届く。日付が変わってそこそこの時間に更新し、ラストソングスのメンバーに「配信しました」とメール。そのメールへの返信で、謙一さんも上村君もまだほとんど誰からもリアクション(コメント)がないことを気にしていた。
ラジオ・ラストソングスをお聞きかもしれないみなさんに一応説明しておくと、「第1話」とか「第2話」とかある各記事の一番下に「コメント (数字) 」となっているテキストリンクがあり、それをクリックするとコメント記入欄のついた各記事固有のページに飛びます(数字はその記事に対して投稿されたコメントの数です)。ブログの場合「その記事に対するコメント」というかたちになってしまうので、漠然と全体に対する感想など書こうとしたとき「ここでいいのかな」という気分になる場合もあるかと思いますが、そうしたことは気にせず、「聞いたよ」でもかまわないのでコメントをいただければうれしいかぎりです。
といったようなことをこの長文の、しかもいちばん下のほうに書いてもどうなんだということではありますが。

本日の参照画像
(2005年12月23日 11:57)

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