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Dec.
2005
Yellow

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/ 23 Dec. 2005 (Fri.) 「吾妻橋ダンスクロッシング Holy Night Special」

こういうかたちのものが上に載っかったあのビルがアサヒアートスクウェア。

吾妻橋ダンスクロッシング Holy Night Special』を観に、浅草へ。会場はアサヒアートスクウェア。吾妻橋を渡る。『文七元結』で文七が身を投げようとしたのが吾妻橋である、と要らぬ説明を妻に垂れる。水上バスが走っていた。昼間はいくぶん穏やかに感じる気温。整理番号83番で呼ばれて建物の入り口からエレベータに向かうと、出演者である康本雅子さんが慌てて駆けてくるところだった。
このダンスの祭典に「alt. (a.k.a. AKIO MIYAZAWA)」として出演するのが南波さん、上村君、田中夢ちゃんの三人で、チーム名にある "a.k.a." というのが "also known as" の略だというのはこないだネットの力を借りてはじめて知った。「〜としても知られる」「別名〜」という意味になる。「赤い宮沢章夫」ではなかった。(が、もし仮にそうだったとすればほかに「青い宮沢章夫」や、「物干し竿と呼ばれる通常よりも長い宮沢章夫」などがいたにちがいない。)
パフォーマンスの冒頭は上村君が小説版『不在』の冒頭、(杜李子の死体の第一発見者である)坂本高哉について描写する部分を朗読し、同時にバックのスクリーンには(まさしくその描写部分を映像化した)映画『be found dead』第5話が再編集されて流れる。いつしか舞台奥には二十数個(?)の、なみなみと水をたたえたコップが一箇所にまとまって並び、南波さん、田中さんも姿を現す。三人はそれぞれ「幸森」「詩人」「杜李子」の、『トーキョー/不在/ハムレット』のときと同じ衣裳を着ていて、水死体として発見されたときと同じ青い服の杜李子は(舞台版においてははじめて)身を横たえる。
「小説版の〈地の文〉を読む幸森」という構図は、物語内現在から時間を経た「いま」、じつは書き手(語り手)として存在するかもしれない幸森の可能性を思わせもするものの、しかし演技的にはあくまで「書物としてすでにそこにある『不在』」を幸森は読んでいるように見え、すると今度は「小説=映画(=複製芸術)」ラインが成す物語世界とは必ずしも同一ではないもうひとつの世界が、あたかもパラレルワールドのようにして舞台上に進行するかのような、そうした印象を受けるけれども、これはまあ完全に〈『不在』との付き合いが長い者の目〉であり、舞台上の「ダンス」はおそらくそうした感慨とは無縁に、ただただ美しく進行する。
青い服を着た女が中央に横たわるなか、朗読を終えた男に代わって言葉を発するのは「詩人」と呼ばれる女であり、男と詩人は、それぞれ舞台奥のコップをひとつずつ手にとっては、それを舞台の見えないマトリクス上に点々と置いていく。あたりまえのことながら、なみなみと注がれた水はときおり振動を受けてコップからこぼれ落ちる。水の振動はせりふ(身体)に、せりふ(身体)の振動は水に、お互いに影響を与えるという繊細なダンスである。いや、その趣向そのものがそのままダンスになるというものでもないのだろう。一連の動きのなかで、ふとしたはずみに、舞台全体がダンサブルなものになる瞬間がある。
奥にまとまって置かれたコップがひとつずつ運ばれだした時点で、ああ、これは整然と全部が舞台上に散らばってそれで終わるのだなと予想が立ち、その予想された終わりへ向けて一種予定調和的な時間が流れるが、あるとき詩人たちは一度一点へと置かれたはずのコップをふたたび手にし、また別の一点へと運び直しはじめる。そのとき、なぜだか知れず全体が踊りはじめた。やがて杜李子も踊り出す。コップを手にして。
コップの水がきれいだった。「朝の水」だと感じた。その朝、松田家のテーブルに置かれていたかもしれないコップの水、だろうか。やがて夕刻が訪れても、それはそこに置かれたままである。

むろんボクデスとチーム眼鏡、康本さんはただただ気持ちよかったし、ほうほう堂もよかった。首くくり栲象のあまりのアングラっぷりにはちょっと笑いそうになった。

本日の参照画像
(2005年12月24日 12:30)

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