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Dec.
2005
Yellow

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/ 24 Dec. 2005 (Sat.) 「『ソウル市民』を観たり」

いせゆみこさんが出演するフレデリック・フィスバック演出『ソウル市民』を観に、三軒茶屋へ。なお、向かう途中の新宿駅で田中夢母娘とすれちがったことはフレデリック・フィスバック演出の『ソウル市民』とはまったく関係なく、ここに差し挟んでもしかたがないと知りつつも、なぜだろうついつい報告への欲求を抑えられずにいる。はたしてほんとうに、新宿駅ですれちがった田中夢母娘はフレデリック・フィスバック演出の『ソウル市民』とまったく何ら関係なかったのだろうかという問いさえ用意しかかるが、関係ないよなあ。
当日の折り込みチラシのなかに、来年12月に予定されている青年団による『ソウル市民』三部作連続上演の告知があって、そこに「本物は、あと一年待ってください。」とあったのを、それ、すごいコピーだなあと思いつつ、私は「本物」を観たことがない。さらに言えば青年団の舞台も観たことがない。ある種の演劇をひと括りにして「静かな演劇」と呼ぶ乱暴さが、それでもなお何らかの有効性をもっていたらしい時期、そもそも私はまだ演劇を観ない者だった。じつは戯曲も読んだことがなくて、同時進行する複数の会話が上下二段になって書かれてあるらしいとか、まったく省略のない時間が描かれるらしいとか、そうした象徴的ないくつかのことを伝え聞いているだけである。構造上まったく省略のない、均一な時間が切り取られるのだとすれば、文字通り物語の「枠」を示すものとして重要なのは、どこから始まり、どこで終わるのかということになるだろうか。戯曲上でそれがどう指定されているかはわからないが(読めよ、俺)、今回の「偽物」はまさに「不意に暗転」した。ケレン味さえ感じるような鮮やかな暗転。
むろんそれだけではなく、「枠」はことさらに強調される。プリン型というか、小高い土俵のような舞台が中央にせりあがっていて、観客席はそれを挟んで前後の両側にある。「開演」前に登場した役者たちはその最前列の席に座って、役を演じないときもソデではなく客席へと戻るから、ステージという枠はゆるやかに解消されているが、逆に、その外側にある観客席が今度は舞台を縁取るフレームとして浮かびあがることになる。その自覚を促すように、役者はときおり会話を中断して客席をしげしげと見つめる。その執拗な視線は、「いったい役者たちは舞台の外に何を見ているのか」と問うてその答えを単純に劇の内部に求めることを許さない。あきらかに、見られているのは観客である私だからだ。そのとき問いは、「舞台の一番外縁にいて、見つめられている私はいったい何なのか」というものに質を変える。劇の構造のなかで私は何を担わされているのか。舞台上の「篠崎家」を取り囲み、見つめる「朝鮮人」の目? それともより大きな「歴史」の目といったようなもの?

前回の日記の最後に、

首くくり栲象のあまりのアングラっぷりにはちょっと笑いそうになった。

と書いたのはアップ間際、時間がなくなって慌てて付け足したものだが、それにしても言葉が足りなかったと少し反省している(だいたい、アップした当初は「ボクデス」を「ボスデス」と誤記もしていた。お詫びして訂正します)。というか、宮沢さんが「富士日記2」に書いている説明を読んではじめて、ああそうだったかと合点がいくことがあり、すると私が覚えたあの違和というか、笑いそうになってしまった点もまた、その同じ言葉で説明されるべきことだったと気づく。

黒沢さんは、30年以上踊ってきて、「ダンスがわからなくなってしまった」というのである。たしかにビデオで観たダンスは、かなりわからなくなってしまった人のダンスだと思い、もう黒沢さんから目が離せない。(「富士日記2」12月24日付)

 私には、何ていうんでしょうか、黒沢美香さんが「とりあえず踊っている」ように見えてならなかった。黙々と手順を踏みつつ首をくくる人と、寝ている人、そしてそこにとりあえず踊っている人がいるという構図が、とにかく可笑しく、何だろうこの人のこの感じはと思っていたのだったが、「わからなくなってしまった人のダンス」だと指摘されてみると、なるほどとそのときの感じが腑に落ちる。

『ソウル市民』を観終わって新宿に出る。ルミネのなかにあるブックファーストへ。本を買う目的は妻のほうにあり、それについていったかたちだが、そうした無目的なときにこそ人は本を買ってしまうものである。エスカレータをのぼって最初に目に入る新刊書の棚に、宮沢さんの『『資本論』も読む』と『チェーホフの戦争』が揃って並んでいたのには出鼻をくじかれる思いがしたが──というのはたとえば3、4冊買ってもいいかなと思っていたところがそこで2冊決まってしまったからだが──、結局以下の本を持ってレジへ。

  • 宮沢章夫『『資本論』も読む』(WAVE出版)
  • 宮沢章夫『チェーホフの戦争』(青土社)
  • 太田省吾『なにもかもなくしてみる』(五柳書院)
  • 上野千鶴子・編『脱アイデンティティ』(勁草書房)
  • 北田暁大・野上元・水溜真由美・編『カルチュラル・ポリティクス 1960/70』(せりか書房)

 いったいいつ読むんだ。年末年始でゆっくりとこれらを読むことができればいいが。

(2005年12月29日 01:45)

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