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Apr.
2006
Yellow

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/ 25 Apr. 2006 (Tue.) 「これが正しいロープへの振り方なんです」

ちなみにこれが「延髄切り」という技です。
村松友視『私、プロレスの味方です』(新風舎文庫)。少し前にはちくま文庫から三部作を併せた「合本」が出ていたと思ったが、いまアマゾンで調べるとまたちがう文庫が出ているのだった。のちに小説家と知られる著者の、これがデビュー作で、当時編集者だった著者にこれを書くことを勧めたのが糸井重里だったと言われている。

きのうの日記はあれは何だという話だけれども、まあついつい書いてしまったんだからしょうがない。
古舘伊知郎の実況を引用した部分は、当該の試合が「アントニオ猪木全集」というDVDシリーズ(左のリンクはセット売りだが、バラ売りもある)に収録されていて、そのビデオから聞きおこしたものである。実況のなかに「金髪の爆撃機ジョニー・バレンタイン」というフレーズが出てくるが、それがフレッド・ブラッシー(「銀髪鬼」)とごっちゃになり、金髪と銀髪のどちらだったかと音だけでは判断がつかないようになって Google で検索すると、なんと私が引用しようとしているのとちょうど同じ箇所を「実況アナ名言集・試合中盤古舘ノリノリ」として紹介するプロレスファンのページがあった。しかし、そこにある実況の書きおこしは微妙にじっさいのものと異なる部分があり、おそらくは文章化するにあたって、より意が伝わりやすいよう適宜整形と省略をほどこしたというところではないかと思うものの、しかしことによったらこの人は記憶をたよりに書いているのではないかとも想像し、薄ら寒い思いを抱かされるというのも、その人が同サイトのまた別のページでたとえば「技の説得力」について、以下の指摘をするような「ファン」だからである。

相手をロープに振るとき、ほとんどのレスラーは腕を持って背中を押していますよね。しかし、一度木戸さんの試合を見て欲しいんです。木戸さんがどうやって相手をロープに振っているか。腕をハンマーに極め肘を押すようにして相手を振っている筈です。これが正しいロープへの振り方なんです。振られまいと踏ん張れば肘がいかれてしまう。こういう目立たないところをしっかりやっているのは、私の知る限り現役では木戸さんだけです。新日時代の高田もこのスタイルをしっかり守っていましたね。記憶では初代タイガーも、デビューからしばらくはこのスタイルでしたが、田園コロシアムでソラールの肘を脱臼させてしまってからは、背中を押すスタイルに変わってしまいました。

 これはかなり重要な指摘である。かなり重要な指摘であるけれども、しかし何を言ってるんだあんたは(笑)。
ところで、きのうの日記の主眼はノスタルジックなものを書くということにあった。その意味ではいくつかの書き漏らした項目がある。たとえば子供部屋に残された、大学ノート2冊分の長兄の高校時代の日記。本来はごく個人的な、いわば「恥ずかしい」日記のはずだが、のちに弟はふたりともそれを読んで育ったという不思議なしろもので、あれは面白かった。あそこにあった猪木対国際軍団の「1対3変則タッグマッチ(2回目)」に関する感想は忘れられない。いや、忘れたけど。それから「馬場より猪木。松田聖子より中森明菜。」ではじまって延々と「何々より何々」だけを連ねたコンセプチュアルな回も印象深かった。いや、ほとんど忘れてるんだけど。あれはまだどこかに残ってるんだろうか。もう読ませてもらえないだろうなあ。
話をメタなレベルにもどせば、ここでひとつ紹介したいのは去年出た、小田亮/亀井好恵・編著『プロレスファンという装置』(青弓社ライブラリー) である。

 本書を一言でいえば、プロレスファンによるプロレスファン論ということになるだろう。とはいっても、終章を書いている私(小田亮:引用者註)はプロレスファンではない。
(「終章 プロレスファン論の可能性に向けて」p.228)

 引用にもあるように「プロレス」ではなく、「プロレスファン」を分析対象とする論考集で、編著者である小田先生は成城大学でその授業を受けたこともあるかなり刺激的な文化人類学者である。論者の多くは若い研究者で、取り扱われるプロレス界の事象も私の興味対象外となって以降のそれや女子プロレスについてが大半を占める。個々の論文についてはだから「へえ、そうなんだあ」とふうに単純に読んだところが多いが、論者たち自身がじっさいにプロレスファンであることによって論考それ自体が「プロレスファンによる言説」の一見本であるというメタ性を帯びることになり、最終的にそれを(卑怯にも)非プロレスファンとして俯瞰、整理してみせる小田論文がやはり面白かった。

 その点では、ミスター高橋のいうショーとしてのプロレスの魅力は、いわばディズニーランドでのショーのような「よくできたエンターテイメント」としての魅力であり、自分の創る「物語」を常に書き替えながら楽しむファン=読者の快楽とは異なったもののように思える。また、タダシ☆タナカも、『日本プロレス帝国崩壊──世界一だった日本が米国に負けた真相』(講談社、二〇〇四年)のなかで、日本のプロレスファンはまだ、プロレスが「やらせ」であることを「カミングアウト」したあとの「大人の楽しみ方」を知らないというが、彼が勧める「スマート」というファンの読み方は、団体側が考えたアングル(筋書き)を見抜き、それが自分のアングルと一致することを楽しむという、エンコーディングする側に立つ楽しみであり、いわば自分の批評眼を誇るものだ。それは「カミングアウト」後かどうかにかかわらず、いわばロラン・バルト以前の、作者の権威を後ろ盾にした一部のエリートを自任する批評家(エンコードする側に立ちたかったデコードする側の人間)の楽しみでしかないだろう。
(「終章 プロレスファン論の可能性に向けて」p.234)

本日の参照画像
(2006年4月27日 14:13)

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