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Apr.
2006
Yellow

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/ 30 Apr. 2006 (Sun.) 「打ち合わせ」

打ち合わせのメモ。「スーパー獅子舞」とはいったい何か?

ちょっと驚いた。たまさか自分の日記のバックナンバー(Yellow / 2003年11月)を開いて読んだのだが、これ、俺かよと思ってしまった。なんだかヘタである。じゃあいまは上手いのか、と聞かれると困るわけですが、自分としてはどことなく違和感がある。文章のリズムがちがうように思える。笑わそうとして書いている部分もあまり面白くないしね。急いで書いたものだったろうか。それともこれが「成長」というやつか。はたまた、私がヘタだとなじる数年前の文章も、いまのこの文章も、端から見れば同じようなものに映っているのだろうか。
で、そのついでに気づくことができたのだが、ページ左部にあるバックナンバーのメニューの、一番古い「2002年」のところが、ことごとくリンク先を間違えていて、クリックするとちがう年のページに飛んだり、Not Found になったりしていた。修正しました。
午後、荒川夫妻、吉沼夫妻、上山君夫妻がわが家へやってきた。田村の結婚式でやる余興についての打ち合わせ。結局、事前には何も用意できないまま、打ち合わせに臨むことになる。会議は難航。吉沼がいろいろといいアイデアを出してくれる。構成というか、方向性が決まったところで、その場で少し台本を書いてみる。その場では好評だったものの、しかしこれ、うまくいくかなあ。
強がり(?)を言わずに漫才にしておけばよかったか、というようなことを思わないでもないのは、漫才なら2人だけで稽古ができるからだ。だいたい、次に全員(今日だって永澤を欠いているので全員じゃないが)で集まれるのは当日しかないのだ。大丈夫かよ。式の前夜は栃木に前乗りし、式場にいちばん近いという荒川宅にみんなでおじゃまする予定で、そこでの稽古と打ち合わせが言ってみれば生命線なのだが、上山君が「前乗りするのはむずかしいかも」という状況らしい。まあ、大阪からだしね。しょうがないものの、痛いなあそれは。それだけでだいぶ焦ってきたのだった。

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(2006年5月 2日 00:18)

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/ 29 Apr. 2006 (Sat.) 「手短に」

うさぎたくさん。
たくさん。
たくさん。

更新のタイミングが1日分まるまるずれていて、日々、2日前の日記(といって日付とは関連の薄い内容がほとんどなのだが)を書いている状態であるのをここでいったん修正。
28日(金)。夜、新宿のTSUTAYAで『レモンのような女 DVD-BOX』を買う。バラで1枚目だけ買うつもりでいたがボックスセットしか置いていなかった。パッケージを手にとるうち、まとめて買ってもまちがいはないのではないかという衝動が湧く。1967年5月10日〜6月14日放映(TBS系列)のテレビドラマで、一話完結の全6話。全話を岸惠子が主演し、毎回異なるキャラクターを演じている。なにより、演出陣が円谷一、実相寺昭雄、飯島敏宏といった顔ぶれなのであり、脚本に佐々木守の名前はあるし、音楽は冬木透。放映日からいくと「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の間ということになる。まだ見ていないしよくわからないが、とにかくなにやら祝祭的な匂いが芬々とするのだった。夕食は立川の「牛角」。
29日(土)。午前中に母から電話があったのは、『生き延びるための思想』を読みたくなったがそっちで手に入らないかという問い合わせ。地元の書店に注文したところ取り寄せで3週間ほどかかりますがよいでしょうかと念を押されたと母は言い、それはそれで仕方ないもののどうせなら折角の読む気が冷めないうちに読みたい、3週間後ではそれがこころもとないし、なにより東京なら店頭在庫でほいほい買えるのではないかと頼まれた。地元の書店が、取り寄せに時間がかかる理由として述べたという「岩波なので」がよくわからない。岩波書店の流通はなにか特別なのだろうか。それで、ネットではなく、立川の本屋で買って宅急便で送ることにしたのは、併せて実家のほうに送るものがちょうどあったからだ。『不思議の国とアリス』のおまけ(購入特典)として使うためのぬいぐるみ(編みぐるみ)。あれは20体ほどだろうか、今日の未明に妻がようやく編み終えた。本は、同じ上野千鶴子による『老いる準備』(学陽書房)も足して、母の日のプレゼント。

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(2006年4月30日 10:00)

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/ 27 Apr. 2006 (Thu.) 「眼鏡な話と」

セルの柄はこれではなく、微妙に異なるが、だいたいこんな感じ。
『不思議の国とアリス』のDVD特典のひとつとして使われる予定の、シロウサギのぬいぐるみ(編みぐるみ)。みえさんからの依頼を受け、妻が鋭意制作中である。

眼鏡が戻ってきた。
二週間ほど前だが、ごく久しぶりに新しい眼鏡をあつらえた。それを今週修理に出していたのは思いきり物にぶつけてしまったからで(というか、掛けたまま激しく物にぶつかってしまった)、レンズは無事だったが、よくよく見るとフレームが少し歪み、小さなネジが一本とれていた。店に持ち込むまでに少し日を置いため修理に日数がかかってしまった。ネジの抜けたセルフレームのネジ穴は次第に収縮をはじめるのだそうで、どうやるのかは知らないが、穏便に事を運ぶためにはまずそれをもう一度拡げてやらなければならない。
表参道にあるその眼鏡屋はメーカー直営の店舗だからということか、店員のメンテナンスの腕がひどくいい。そう感じる。ことによると感じるだけかもしれないが、もとより眼鏡の調整などというものはひどく微妙なものだ。「どこか掛け心地がおかしい」というとき、「ここがこうなってるんじゃないか(そのために気持ち悪いのではないか)」とこちらも当たりを付けはするものの、自信があるわけではない。「どうなさいました?」と聞かれ「ちょっと左側が下がってるように感じるんですが」と答えるこちらの見立てどおりにそのまま調整を施されても、それで違和感が解決するとはかぎらない。下手な店員というものはほんとうに下手だったりする。こちらが主観で述べたとおりのことしか調整できない、と言えばいいか。表参道のその店でも一応、「ツルが広がっちゃったのか、レンズが眼に近いように感じるんですが」などこちらの感じる症状を言いはするものの、店員はそんな素人の見立てなどほとんど聞いていないんじゃないかと思えるほどで、とにかくその場で眼鏡を掛けさせ、あれはどこを見ているのだろうか、ツルと耳との接触具合のようなところをチェックしては眼鏡を受け取り、奥へ消えていく。ここがこうなっていれば気持ちいいはずだというような、主観によらない物理的なセオリーのようなものがあるのだろう、たいがいはそれだけで違和感が消える。
田村の結婚式でやる「余興」について、吉沼からは「漫才はどう?」というメール。田村本人がここを見ているかもしれないなかで報告しているのは、まあ、それはやらないだろうということだけど、うーん、漫才はなあ、さすがに間に合わないと思うんだ。
説明すると、ここで吉沼が「漫才」と言っているのはおそらく私と荒川のコンビによるそれだ。高校時代、私が演劇部に所属していたことはあまり知られていないが──私、荒川、田村、永澤の四人は演劇部仲間である。私の結婚式のとき、荒川が余興(内スピーチ)でその経歴に触れると、司会をしていた笠木さんが「なんだよ、そうだったのかよ」というような視線を私に向けた。──、その演劇部での主な活動のひとつとして、私は荒川とコンビを組み、漫才をやっていたのだった。部として、高校演劇の地区大会のようなものにも一応出るのだが、なにせ私は当時「〈高校演劇〉的なるもの」が大嫌いだったし、やりたいのは漫才で、ある年の大会では無理やり「主人公が漫才師」という設定の創作劇を用意し、冒頭に劇中劇のようなかたちで漫才をしてみせた(で、そのコンビが楽屋に戻ったところから物語がはじまる、というような、たいへん申し訳ない構成)。
だからまあ結婚式の余興としては「友人がコンビ再結成」というような趣旨になるのだし、当時を知っている新郎はそれを懐かしんで喜んでくれる可能性が高いものの、でもなあ、やっぱり時間がないよ。ネタは? 書き下ろすのだとすればなおさら時間はないし、当時のネタをそのままやるのだとしても稽古時間が充分にとれない気がする。漫才という形式でぐだぐだになるのは、それはいやだよ。やるんだったらきっちりやりたいじゃないか。

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(2006年4月30日 02:13)

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/ 26 Apr. 2006 (Wed.) 「ちょっとした掲示板」

たまには妻の読んでいる本など載せてみる。岸惠子『私の人生ア・ラ・カルト』(講談社)。妻は岸惠子ファンだ。

あー、二日分にわたってプロレスを語っている場合ではないのだ。どうするよ、田村の結婚式。(田村って?という方は23日付の日記を参照ください。)
「ちょっとした掲示板」ははたしてどれほど需要があるのか、おそらくあまりないだろうと思われるものの、定期的に──とくに長いブランクのあとに更新を再開しようとするさいに──訪れる改造欲(足したくなってしまう癖)からついつい付け足してしまった。そういえば最初にこの「Yellow」(日記ページ)を作ったときのデザインはページを二等分し、左が日記、右が掲示板というものだったが、それと似たような生理か、どこかしらにポリフォニックな構造を呼び込みたくなるところが私にはあり、むろん私の日記それ自体がポリフォニカルであれば申し分ないのだがなかなか簡単にはそうもいかないわけで、だからまあ、気軽に伝言を残してもらえればと思うのだ。ノイズ上等。オンラインカジノの宣伝でもなんでもすればいいじゃないか。──五十の坂を二つ、三つ越したあたりの男がふと、衝動のふつふつと湧き上がってくるのを感じながら何日か過ごすうち、ある日たまさか周囲に人の居なくなったのを計って口から言葉を押し出すように、こう呟いたとしても私は驚かない。オンラインカジノの宣伝がしたい、英語でしたい、と。
「ちょっとした掲示板」は、「大黒屋本舗」さんの「SSL++ v0.1β」を利用させていただいている。はじめ、Safariでコメント部分が文字化けていたがそれは直った。MacIEは申し訳ないが非対応。

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(2006年4月28日 14:00)

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/ 25 Apr. 2006 (Tue.) 「これが正しいロープへの振り方なんです」

ちなみにこれが「延髄切り」という技です。
村松友視『私、プロレスの味方です』(新風舎文庫)。少し前にはちくま文庫から三部作を併せた「合本」が出ていたと思ったが、いまアマゾンで調べるとまたちがう文庫が出ているのだった。のちに小説家と知られる著者の、これがデビュー作で、当時編集者だった著者にこれを書くことを勧めたのが糸井重里だったと言われている。

きのうの日記はあれは何だという話だけれども、まあついつい書いてしまったんだからしょうがない。
古舘伊知郎の実況を引用した部分は、当該の試合が「アントニオ猪木全集」というDVDシリーズ(左のリンクはセット売りだが、バラ売りもある)に収録されていて、そのビデオから聞きおこしたものである。実況のなかに「金髪の爆撃機ジョニー・バレンタイン」というフレーズが出てくるが、それがフレッド・ブラッシー(「銀髪鬼」)とごっちゃになり、金髪と銀髪のどちらだったかと音だけでは判断がつかないようになって Google で検索すると、なんと私が引用しようとしているのとちょうど同じ箇所を「実況アナ名言集・試合中盤古舘ノリノリ」として紹介するプロレスファンのページがあった。しかし、そこにある実況の書きおこしは微妙にじっさいのものと異なる部分があり、おそらくは文章化するにあたって、より意が伝わりやすいよう適宜整形と省略をほどこしたというところではないかと思うものの、しかしことによったらこの人は記憶をたよりに書いているのではないかとも想像し、薄ら寒い思いを抱かされるというのも、その人が同サイトのまた別のページでたとえば「技の説得力」について、以下の指摘をするような「ファン」だからである。

相手をロープに振るとき、ほとんどのレスラーは腕を持って背中を押していますよね。しかし、一度木戸さんの試合を見て欲しいんです。木戸さんがどうやって相手をロープに振っているか。腕をハンマーに極め肘を押すようにして相手を振っている筈です。これが正しいロープへの振り方なんです。振られまいと踏ん張れば肘がいかれてしまう。こういう目立たないところをしっかりやっているのは、私の知る限り現役では木戸さんだけです。新日時代の高田もこのスタイルをしっかり守っていましたね。記憶では初代タイガーも、デビューからしばらくはこのスタイルでしたが、田園コロシアムでソラールの肘を脱臼させてしまってからは、背中を押すスタイルに変わってしまいました。

 これはかなり重要な指摘である。かなり重要な指摘であるけれども、しかし何を言ってるんだあんたは(笑)。
ところで、きのうの日記の主眼はノスタルジックなものを書くということにあった。その意味ではいくつかの書き漏らした項目がある。たとえば子供部屋に残された、大学ノート2冊分の長兄の高校時代の日記。本来はごく個人的な、いわば「恥ずかしい」日記のはずだが、のちに弟はふたりともそれを読んで育ったという不思議なしろもので、あれは面白かった。あそこにあった猪木対国際軍団の「1対3変則タッグマッチ(2回目)」に関する感想は忘れられない。いや、忘れたけど。それから「馬場より猪木。松田聖子より中森明菜。」ではじまって延々と「何々より何々」だけを連ねたコンセプチュアルな回も印象深かった。いや、ほとんど忘れてるんだけど。あれはまだどこかに残ってるんだろうか。もう読ませてもらえないだろうなあ。
話をメタなレベルにもどせば、ここでひとつ紹介したいのは去年出た、小田亮/亀井好恵・編著『プロレスファンという装置』(青弓社ライブラリー) である。

 本書を一言でいえば、プロレスファンによるプロレスファン論ということになるだろう。とはいっても、終章を書いている私(小田亮:引用者註)はプロレスファンではない。
(「終章 プロレスファン論の可能性に向けて」p.228)

 引用にもあるように「プロレス」ではなく、「プロレスファン」を分析対象とする論考集で、編著者である小田先生は成城大学でその授業を受けたこともあるかなり刺激的な文化人類学者である。論者の多くは若い研究者で、取り扱われるプロレス界の事象も私の興味対象外となって以降のそれや女子プロレスについてが大半を占める。個々の論文についてはだから「へえ、そうなんだあ」とふうに単純に読んだところが多いが、論者たち自身がじっさいにプロレスファンであることによって論考それ自体が「プロレスファンによる言説」の一見本であるというメタ性を帯びることになり、最終的にそれを(卑怯にも)非プロレスファンとして俯瞰、整理してみせる小田論文がやはり面白かった。

 その点では、ミスター高橋のいうショーとしてのプロレスの魅力は、いわばディズニーランドでのショーのような「よくできたエンターテイメント」としての魅力であり、自分の創る「物語」を常に書き替えながら楽しむファン=読者の快楽とは異なったもののように思える。また、タダシ☆タナカも、『日本プロレス帝国崩壊──世界一だった日本が米国に負けた真相』(講談社、二〇〇四年)のなかで、日本のプロレスファンはまだ、プロレスが「やらせ」であることを「カミングアウト」したあとの「大人の楽しみ方」を知らないというが、彼が勧める「スマート」というファンの読み方は、団体側が考えたアングル(筋書き)を見抜き、それが自分のアングルと一致することを楽しむという、エンコーディングする側に立つ楽しみであり、いわば自分の批評眼を誇るものだ。それは「カミングアウト」後かどうかにかかわらず、いわばロラン・バルト以前の、作者の権威を後ろ盾にした一部のエリートを自任する批評家(エンコードする側に立ちたかったデコードする側の人間)の楽しみでしかないだろう。
(「終章 プロレスファン論の可能性に向けて」p.234)

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(2006年4月27日 14:13)

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/ 24 Apr. 2006 (Mon.) 「『MOTHER3』はすごく面白いから是非やりなさい、と妻は言う」

猫を乗せ、妻は『MOTHER3』。
もう一匹の猫。きのうの「赤い写真」は、後ろに写っている電気スタンドのカサです。

いったい何を言いだすのかと思われるだろうが、私はプロレスが好きだ。「落語が好きだ」や「小説が好きだ」と同様、世間でそう呼ばれるジャンルまるごとを無条件に受け入れるものではないその一方で、「落語が好きだ」や「小説が好きだ」がそうであるように、ジャンルそのものに対してそう叫びたい気持ちもある。リアルタイムで(とはいえ主にはテレビで)観ていたのは、「落日の闘魂」と呼ばれ出して以降のアントニオ猪木である。あと、前田日明のリングス。ジャンルそのものに対して好きだと叫びたい思いとは裏腹に、好きな範疇はじつはぐっと狭い。猪木とリングスだ。ニュアンス以上のものではないが、「猪木と前田」ではなく、「猪木とリングス」である。人名で揃えるなら「猪木とヴォルク・ハン」のほうが適切かも知れない。会場まで足を運んだのは3度。猪木の30周年記念大会(猪木・シン組対ベイダー・浜口組)と、猪木の引退試合、それと前田日明のリングス・ラストマッチである。最近のことは知らない。
自分で「ワールドプロレスリング」(新日本プロレスという団体の試合を放映するテレビ朝日の番組)を見はじめたとき、かろうじてそれはまだゴールデンタイム枠に残っていたが、すでに実況アナウンサーは古舘伊知郎ではなかった。いま思えば、なぜそれで「猪木ファン」になれたかが不思議なほど、私は遅れてきた世代なのだが、しかし決定的なことに、10コ上の兄がプロレスファンだった。兄の上京後に残された子供部屋には村松友視の『私、プロレスの味方です』があったし、「ワニの豆本」シリーズのレスラー名鑑もあった。兄が当時の「ワールドプロレスリング」を録画したベータのテープを、文化保護のためのちにダビングして1本のVHSにまとめたそのテープはいま立川にある。あとから別の試合が重ね録りされたため途中からはじまっている猪木対タイガー・ジェット・シンの試合は、しかしそのことでかえって奇跡的と映るほど、すぐれて劇的なワンシーンが上書きをまぬがれ、10コ下の弟の記憶となった。重ね録りの切れ目を示すノイズの向こうから立ち現れるのは、すでにリング下に降りていて、エプロンをめくり凶器をさがしているタイガー・ジェット・シンである。おそらくはその直前にリング上で猪木に強いダメージを与えたシンは、猪木がのびている隙にリングを降り、手ごろな凶器がないかと物色している。猪木はすでにリング上で立ち上がっているがいまだ意識は朦朧としていて、目を閉じているようにも見え、眉間のあたりを親指で押しては首を振っている、とこれは見事な演技である。リング下のシンの行動には気づいていない、という素振りを猪木が(シンと観客に対して)見せるなか、救護用の水が入ったビール瓶を見つけたシンがそれを手にリング中央に戻ってくるその瞬間、その位置のままジャンプした猪木が延髄切りを見舞う。猪木の延髄切りは当然美しいが、何よりも、シンの手を放れて宙を舞うビール瓶が美しい。クライマックスはしかしその技の瞬間ではない。形勢逆転した猪木はリング上に転がったビール瓶を掴むと、逆にこれでやってやる、と大見得を切る。少したっぷりと見得を切りすぎたためシンに反撃の隙を与えてまた試合は動き出すが、おそらくこの「大見得」のなかにこそ猪木がいたし、この試合のクライマックスがあった。そんな「スポーツ」のあろうはずがないじゃないか。
ついついまた見たくなり、先日、だいぶひさしぶりにそのテープを引っ張り出してきたのだった。妻に、プロレスは不評である。「八百長なんでしょ?」という妻に、「演劇だと思って見てほしい」と返すものの、それではどうにも言葉が足りていない。とはいえ、そのビデオを「いまの演劇」として機能させるだけの言葉を見つけるのは困難だ。つきつめていけばノスタルジーなのだろうな、と思うのだ。妻からは、「なんで倍賞美津子が猪木と結婚したのかがわからなかったが、昔はかっこよかったんだ」という感想を引き出しただけでよしとしなければならない。
ところで古舘伊知郎は「ワールドプロレスリング」のレギュラー実況を退いたのち、2度、猪木の重要な試合に呼ばれて実況をつとめている。ひとつは引退試合だが、もうひとつが1988年8月8日の対藤波辰巳戦。弟子である藤波の持つベルトに猪木が挑戦するという構図で、この試合も、当時「負ければ猪木引退か」という空気が漂っていた(結果は60分フルタイム引き分け)。その試合中盤、ノリノリになった古舘がしゃべる次のくだりが、やはり一番ぐっとくることはたしかなのだ。(それもまたノスタルジックな感性に訴えるものであり、オーラルなものとナショナリスティックなものが結びつく、そのあやうい魅力を抗しがたくたたえている。)

 思えば戦後の敗戦、焼け野原にプロレスの炎がともって、高度経済成長の波とともに、この猪木の闘いが花開いていったのであります。そんななかで、大人の人気者はジャイアント馬場、われわれ少年の人気者はこのアントニオ猪木だったのであります。(猪木が)弓矢固め、弓矢固め、弓矢固め。さきほどはブリッジで弓なりになった猪木の身体、今度は藤波を弓なりにしている。エビのように反ってしまった藤波辰巳。
 かつての少年たちの人気者アントニオ猪木、歳月は流れました。しかしながら脈々と、そのかつての少年たちの胸に、アントニオ猪木のこのひと文字が息づいています。
 われわれは思えば、「全共闘」も「ビートルズ」も、お兄さんのお下がりでありました。「安田講堂」も「よど号ハイジャック」も「あさま山荘」も「三島由紀夫の割腹」も、よくわからなかった! ただ、金髪の爆撃機ジョニー・バレンタインとの死闘、あるいはクリス・マルコフを卍固めで破ってワールドリーグ戦に優勝した、この、猪木の勇姿はよくわかりました!

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(2006年4月26日 16:02)

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/ 23 Apr. 2006 (Sun.) 「それにしてもなぜ、足が筋肉痛なのかがわからない」

拡大したところで意味はないのだが。

高校の同級である田村君の結婚式が来月に控えている。準備のいい(というか、ふつうそうしたものなのだろうか)田村君から招待状が届いたのはあれは引っ越してまもないころのことだからまだ2月の中旬で、この二ヶ月間、だいぶ先のことだとばかり考えていたらもうそこに迫っているのはどうしたことか。友人代表のスピーチと、余興をたのまれているのだった。
何か間違ってはいないだろうかというのは、友人代表のスピーチだ。友人代表かよ、俺、と思わないでもない。同じ高校の同級である永澤は田村ともっと旧く、幼馴染みの間柄だったはずで、すると最初永澤のほうに打診があったと考えるのは自然で、永澤のことだから「俺は無理だよ」と断る口調はすぐに浮かべられるし、「相馬さんがいいんじゃない?」と水を向けられそうなのもたしかで、そういう流れから私のところに回ってきたか、とこれは先日、同じく同級の上山君がうちにやってきたときに話題になり、想像がまとまりかけたところだが、田村本人に確認してみるとそうではないという。直接、私に白羽の矢が立てられていた。
余興は仲間うちで恒例となった持ち回りのものだ。持ち回りと言うと少しおかしいか、この場合持ち回るのは結婚式のほうである。すでに祝われる側に回ったのが上山君夫妻、うち、荒川夫妻(夫が高校同級)で、今度が田村、残っているのが永澤で、これに式を挙げていないのでその機を得ていない吉沼夫妻(夫が大学同級)と、さらになぜか私の次兄夫婦がメンバーとなり、それぞれの結婚式で残りのメンバーが集まって何かやるという互酬的な流れができてしまっている。なお、今回はこのうち次兄夫婦が不参加(その時期、嫂が臨月を迎えるため招待されていない)。
上山君の「結婚披露合宿」(都下のキャンプ場に友人知人のみを集めて一泊した)のときにこの面子で集まり、「歌と演奏とコント」という非常に長尺なものをやったのがはじめだ。次が私のときで、「映像と歌と演奏」。去年9月の荒川のときは「映像と人形劇と演奏」だった。さて、今度は何をやるのか、そろそろ建設的に物事を進めていかなくては間に合わない時期にさしかかっているのではないかと皆そわそわ腰を浮かしはじめてもいい頃合いである。言っておくが、田村君、何も決まっていない。
ただまあ、今回はかえってありがたいことにいくつかの制限がすでに加えられていて、「長くても8分以内に収めてほしい」という時間的なことと、もうひとつは「設備や予算上の問題で、できればスクリーンは使わない方向で用意してくれるとありがたい」ということが新郎から要望として上がってきている。あと、「マイクは3本」だそうだ。これに、「集まってする練習は直前に1日ぐらい、できるかどうか」というこちら側の制約が加わる。ここはひとつ、非常にミニマルなというか、こぢんまりとしたものをやろうかと思うのだ。そうだなあ、会場の隅で人知れず、小さくやるようななにかそうしたものだ。壁新聞を作って貼っておくというのはどうだろうか。いっそ、披露宴のあいだじゅう隅で壁新聞を作っているというのでもいい。きっと、模造紙が足りなくなるのだろうな。買い出しだ。模造紙を買いに会場を抜け、街へと出た男をビデオカメラは追う。見知らぬ街で男は文房具屋を探す。腹も減ってきた。なにせ、ずっと壁新聞を作っていたからだ。もう何枚も作った。そんなに作らなくてもいいじゃないかというほど、男は壁新聞を作ったのだ。
よくわからないことになったからやめるが、最終的には、「街に出たその男(永澤)の様子を撮影したビデオテープ」を新郎新婦にプレゼントする。「式の途中からずっとどっかに行っていた男の真実」は、かなりのちのちまで見返して楽しめるのではないかと考えるが、だめだろうか。
あと、こないだ上山君と話していて出たアイデアのひとつは「街頭インタビュー」だ。街行く老若男女に「田村結婚」の是非を問う。賛成派、反対派、意見はさまざまだろう。霞ヶ関や、沖縄、そして地元栃木など、いろいろな場所で是非を問いたい。ついでに憲法改正についての意見も聞こう。「田村ってやつのことはよく知らない」という人でも、憲法改正問題についてなら言いたいことがあるかも知れないからだ。
このように書けば、ほんとうに何ひとつ建設的なことを考えていないかのようだが、まあ、多少考えていることはある。あまり大がかりなことをせず、身の丈にあったことをしようと思っているのはほんとうのことだ。それぞれの身ひとつと、それにマイク3本。それだけで成り立つ何かをいまは画策中である。

書いている途中で思い出したのだった。タイトルの件。土曜日(22日)の夜、池上の本門寺にシティボーイズミックス『マンドラゴラの降る沼』を観に行ったのだったが、その帰り、本門寺から最寄りの西馬込駅まで、徒歩8分ぐらいのところだが、訳あってずっと走って移動したのだった。なんとも脆い話だが、それだよ、この筋肉痛は。

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(2006年4月24日 19:20)

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