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Jun.
2007
Yellow

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/ 30 Jun. 2007 (Sat.) 「伯父の見舞いへ」

東京の日暮里に住む伯父がひと月前に倒れた。そのことを母の電話で知ったのはつい先日のことだ。今日、妻とふたりで見舞いに行った。(出掛ける間際に、途中まで書いた昨日の日記をいったんアップ。)
子どものころの私を、伯父はとりわけ可愛がったと周りからは聞く。当人としては、子どものことでもあり、関係の相対化などむろんできないから「とりわけ可愛がった」の「とりわけ」の部分など自覚があるわけではないが、私の側の勝手な「遊び(とその論理)」に、伯父は飽かず付き合ってくれたのだといまになれば思う。
伯父の名前は「博秋」で、おそらくその「博」の字に由来したんじゃなかったかと記憶するが、私の勝手な設定で、伯父と私のあいだでは「伯父は博士(ハカセ)なのだ」ということになった。じゃあ自分は何なのか(助手なのか?一般の者なのか?それとも同学の士であって私もまた博士なのか?)という話だけれど、そこはたしか曖昧だったはずだ。で、「博士なのだから何にでも答えられなければならない」ということでもって、私は「博士」にクイズのようなものを仕掛けていた(だから私は何者なのだよと言いたい)。そして、その他いろいろ。
伯父は江戸っ子である。まさしくちゃきちゃき(嫡々)のそれ。見舞いのあと、喫茶店でごちそうになりつつ義伯母と話をしたなかで、伯父が犬好きであるという話題になったのだが、じゃあ飼う犬を探そうかという段になったとき、伯父は「シェパード以外は犬じゃねえ」というわけのわからないこだわりを見せたという。あはははは。江戸っ子だなあ。
ほんとうに「ヒ」と「シ」の区別がつかないのだ。一人娘の名前が「ヒロミ」なのだが、「シロミ、シロミ」言っている。自分で言えない名前を付けるなよと、山家者(やまがもの)の私など思ってしまうところだけれど、まあ江戸っ子なのだからしょうがない。
「博士、また。じゃ、また」とその耳元に声を掛けて帰ってきた。

(2007年7月 1日 00:25)

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/ 29 Jun. 2007 (Fri.) 「『ニュータウン入口』準備公演・初日を観る」

※14時ごろ一度アップしたのち、加筆/修正して再度更新しました(2007.06.30 21:54)

夕食の相談で妻に何が食べたい?と聞かれ、「三日三晩炊いたごはん」という答えを思いついた。どんなんだそれは。
『ニュータウン入口』の準備公演・初日を観る。いやあ、「いろいろな試み」についての部分などは、まだこれ書かないほうがいいだろうな。
客席には浅野(晋康)君、(鈴木)将一朗君、片倉(裕介)さんらの顔があった。「初日乾杯」というやつにまぜてもらい、そのあと宮沢さんのクルマで新宿まで送ってもらう。舞台に出ている上村(聡)君、實光(崇浩)君が乗り合わせて、車中は例の、「實光君のための観光スポット案内──實光君がよろこぶツボとは何かをめぐって──」である「富士日記2」6月24日付を参照)
今日まず食いついたのは「兜町」。どうやらはじめ場所のイメージは湧かずに、「カブトチョウ」という言葉の響きだけでもって反応していたらしい。「金融街だよ」と教えると「金融街 !?」と高い声をあげる。クルマは結局、神宮外苑を通るコースで新宿にむかったが、そんななか今日いちばんの食いつきは「国立競技場」だった。(おそらく前にもそうしたでたらめな紹介があったのだろう、)「これもひとりの人が建てたんですか?」と實光君が質問を投げると、「そうだよ、だからたいへんだよ円(トラック)を描くのが」と宮沢さん。
「いろいろな試み」とは比較的関係のない部分について少し書こう。というのは副題のことだ。「リーディング公演」とのはっきりとした違いは、なによりもまず副題が付いたことにあるだろう。「または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめたか」。これにより、あらためて戯曲の構造の中心に立つ者が「私=根本洋一=家の購入を検討する男」であることが明らかにされる(この場合の「中心」が、たとえば夏目漱石『三四郎』における三四郎のように、じつは周りで起こっていることをなにも理解できていない空虚な主人公──その無理解によって逆に周囲の群像劇が浮かび上がる──という意味だったにしても)。代演した實光君がかえってハマったとみるべきか、それとも「いろいろな試み」による戯曲のカットアップの効果なのか、準備公演では、リーディング公演のときよりももっと、その「中心としての根本洋一」が意識されやすくなっていたように思えた。
ところで、この副題がスタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』からの引用/もじり(「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」)であることはまず間違いないとして、であるならば、どうしたってこれはやはり〈皮肉〉であるわけで、「心配するのをやめ」ることにはひとまず負の意味が込められていると読まなければならない。ラスト、根本夫妻を招いて行われるビデオ鑑賞会のシーンは、いっさいが済んだあとの華やいだ(静かに華やいだ?)時間としてあるが、そこが華やいでいて、安堵に満ちていればいるほど、同時に一方で、この人はついに「心配するのをやめ」たのだ──〈パレスチナ〉を視ることをやめたのだ──という哀しみが強調される。むろん、根本が選択した「幸せ」──たとえば、〈妻が望むもの〉を選び取る、といったこと──を、戯曲は否定しない。そして、それが否定されないことによってこそかえって──、ということのくり返し……。
物語の期待を一身に背負うのは、結局のところ、その土地の成り立ちを描いたとされる一本の映画(『ニュータウン入口』)なのだろうか。「支部局長・加奈子」の言う台詞、「そうね、その映画ね」を聞くとき、なぜだろう、たとえば8ミリフィルムで撮られた家族の記録のような、ひどく個人的な題材を捉えたカメラの、淡い色合いが浮かぶ。その内容が戯曲中に描かれていないという意味で、映画は物語の外部にあり、そしてルールとして、物語の外部に答えを求めるべきではない。とすれば、やはり──
新宿駅に届けてもらったあと、上村君とふたり、ずいぶん長いこと話し込んでいた。いろいろ話したなあ(全部舞台のことですけど)。さらには中央線が何やら遅延・混雑していて、家に着くと1時を回っていた。妻の作ったスパゲティー・ナポリタンを食べて寝た。

(2007年6月30日 14:02)

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/ 25 Jun. 2007 (Mon.) 「ハッキングメロン」

ダリア。

かすみ草。

猫は寝る。

会社へ行って留守にしているあいだに、うちの実家からメロンが届いたという。届いているかどうかを確認する母からの電話には妻が出たが、そのなかで母は次のように説明したらしい。

「二個ともシールが貼ってあると思うんだけど、そのうち、オレンジ色が多いシールのほうのメロンが古いから、先に食べて」

 けっしてスマートな判別方法とは言えないものの、そのときは妻もなるほどと納得して受話器を置いた。で、これがそのメロンである。

070625_melon.jpg

はなはだ微妙ではないのか。印象の点で、おそらく、右側のことを言っているのかなあとは思うものの明白な差があるわけではない。「ちがうちがう、左側のことを言ったつもり」と言われればああそうだったのかと納得するしかないほどの差だ。ほかに見分ける方法がなかったのかと思うのは、(写真にも少しだけ写っているが)メロンなどの丸いフルーツによく履かせてある、ビニールの網状になったアレが二個ともに付いていて、その色がはっきり異なるからだ。こっちの色で伝えたらどうだったのかという思いに駆られて私は空を見上げた。
さてこの日は、ハッカーに侵入された関係でレンタルサーバのアカウントを一時止められ、まる一日「web-conte.com」が(あと、同じところに置いてある「all2step.com」や「puriseta.com」も)つながらなくなっていた日だが、そのことはこちらに書いたので割愛。
あそうか、メロンはどちらも「クインシーメロン」という品種で、クインシーメロンというのは赤肉なのか。だからシールにはそれをイメージさせるオレンジが使われているのか。シールを見るにそれぞれ異なる農園から出荷されたとおぼしいが、どちらの農園も同じ発想でシールをデザインしたというわけだ。で、きっと、この「小さな発見」が母のなかにもあったんじゃないかと想像する。「ああ、赤肉メロンだからオレンジなのね」という気づきのよろこびが、おそらく母をシールに注目させた。もうビニールの網なんか目にも入らない。どちらがいったいオレンジが多いだろうか──
いや、写真を見ていてようやくオレンジの意味に私も気がついたんだけど、なるほどなあ、それはありうるな。

本日の参照画像
(2007年6月28日 21:12)

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/ 24 Jun. 2007 (Sun.) 「ミニストップの怪」

ここはひとつ、手前のサクランボにピントを合わせたかったところだが、枝をつまんで持っているために実の重みでかすかに揺れ、どうにも計算のない一枚。

タネとステンレス。

こちらはアマゾンへのリンク。

iTunes Plusニュースリリースってやつをはじめて利用した。アップルの iTunes Music Store で、すべての楽曲がではないが、参加レーベル(スタート現在はEMIグループのみ)の楽曲に関して、DRMフリー(=著作権保護のためのコピー防止技術を使っていない)で、かつ従来版よりも音質のいい(ACC 128kbps → 256kbps)データが購入可能(で、DRM付きの通常版より少しだけ高い)というサービス。
初期状態では iTunes Plus の楽曲は表示されず、利用にあたっては──これちょっとわかりづらいところじゃないかと思うけど──アカウント情報のところで設定を変更する必要がある(あ、あと前提としてバージョン7.2以上の iTunes が必要)。iTunes Store のトップ画面右上のほうにある「クイック・リンク」から「アカウント」を選択、アカウント情報のページに入ると「iTunes Plusを管理する」という項目があるのでそれにチェックを入れる。
従来版ですでに購入した楽曲がある場合には、差額分ぐらいを払うことで iTunes Plus 版をダウンロードできる。iTunes が勝手にライブラリ内をチェックして、「前に購入されたこれ、iTunes Plus 版が出てますよ」というふうに知らせてくるぬかりのなさだ。私のライブラリで該当したのは高橋幸宏『BLUE MOON BLUE』高橋幸宏 - BLUE MOON BLUE で、ものは試しとついバージョンアップしてしまった。
それと、あれです、『レキシ』レキシ - レキシ。iTunes Plus バージョンで買いました。いとうせいこうさんのブログをつうじて読み知っていたレキシだが、iTunes Plus の「トップ・アルバム」のなかにその名前があって「あ、これかこれか」と購入。詳しくは公式サイトを参照願いたいが、池田貴志のソロユニットにいろいろなミュージシャンが参加、いとうさんも参加している。(とここで「あ、中村一義も参加してるよ、上山君」と言いかけたんだけど、まあ知ってるだろうな上山君は。)
いいっすよ、レキシ。
夜、もう日付も変わろうかという時間になって急にソフトクリーム──ソフトクリーム型のアイスではなく、先っぽが柔らかくひゅいっとなったりするまさにあのソフトクリーム──が食べたいと厄介なことを言い出す者がわが家に出現した関係で、最寄りのミニストップがどこにあるのかといったことをネットで調べていたのだったが、そこで危うくだまされそうになったのがマピオンが示すこの地図、中央の赤い照準マークの右上(北東)にあるミニストップだ。「C」を丸で囲んだマークはおそらく「コンビニ」を意味している。これ、リンク先を開いてもらうといま縮尺が「1/21000」の状態で表示されていると思うが、まず照準をミニストップに合わせていただき、そのうえで左上のバーを操作、一段階ごとに拡大していってもらいたい。するとどうだろうか、最大の「1/3000」にした途端、ミニストップが忽然と消えるのである。
いやあ、拡大はしてみるもんだね。うっかり出掛けずにいてよかった。ミニストップの公式サイトにある店舗検索で調べても件の場所に該当するような店舗はないから、いやまあ行ってたしかめたわけじゃないけどおそらくここにミニストップはないんだと思う。なんだろう、縮尺ごとに地図の調査時期が異なって、さらにじっさいつい最近までここにミニストップが存在していたために「1/8000」と「1/21000」の地図がその古い情報を残している、といったようなことだろうか。それとも──
あ、そのミニストップ、すごくでかいってことはないかな。ナスカの地上絵のようなもので、ものすごく高い視点からでないと全体像が掴めず、それがミニストップだとわからないとか。

本日の参照画像
(2007年6月27日 14:17)

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/ 23 Jun. 2007 (Sat.) 「誰もまさかあれをパンに入れるとは」

立った?

平野甲賀『僕の描き文字』(みすず書房)

「ゼルダの伝説 夢幻の砂時計」(任天堂)

天気は夏。庭ではバラが咲いている。レモンの木も元気がいい。
妻が買ったホームベーカリー(右写真)が金曜に届き、それで焼いた食パンを朝うまいうまいと食べる。妻から購入の相談を受けてすぐはうまく像が結ばず、もっとこう大掛かりな装置をぼんやり思い浮かべたが、まあその、いわば「炊飯器のパン版」なのだね。「ぱんばん」というのがどうにも語呂が悪くていけないというのであれば「西洋版」とか、「小麦粉版」とか言い換えるのでもいいかもしれないが、ともかくそういうものだと理解した。理解した矢先にあれだが、でも「ごはん版」に較べると「パン版」は「おかま」に入れるものが複雑だ。はたで見ているだけだが、どうもいろいろ入れている。「スキムミルクがなければ牛乳で代用いただけます」とはいったい何を言っているのか。
そしてまた、そうした複雑さを前にして私が思ってみるのは、いま現在のこの食パンのレシピに至るまでに人類がはたしてどれぐらいの歳月をかけ、いかにしてそこに辿り着いたのかというその壮大な時間のことである。勘だけどね、一代じゃないね。何十、何百世代にもわたる食の冒険がおそらくは繰り広げられた。死んだ奴もいただろうな。「パンを作るときにけっしてこれを入れてはいけない」というふうに、その死はパンの歴史に貢献することができただろうか。ひょっとしてその者はこっそりと試して死んだために──そして、誰もまさか「あれ」をパンに入れるとは思ってもみなかったために、あるいはその死は無駄に終わったのかもしれない。それまでただ指差しによってだけ示されていた「あれ」に、名前が付けられたのはその者の死からどれほど経ってからのことだろうか。
と、そんなことを考えつつ(というのは嘘だが)、ひと月以上ぶりに「Yellow」を更新したあと、ふたりで買い物に出た。街の本屋で平野甲賀『僕の描き文字』(みすず書房)平野甲賀『文字の力』(晶文社)を買う。
『文字の力』のほうは純粋な作品集になっていて、

おびただしい描き文字装丁のうちから選りすぐった54点に、未発表「架空装丁」12点

 が収められている。ぱらぱらとめくっているだけで楽しいのは、まず、私もまたロシア・アバンギャルドに弱い者だからだ。

考えてみれば、二〇世紀のアヴァンギャルド運動といったって、あれからまだ五十年か六十年しかたっていないんだからね。そのつづきをぼくがやったって、ちっとも不思議じゃないんだよ。いまだにその渦中にいて当然なんじゃないかな。(「甲賀流コンピューターとのつきあいかた」/平野甲賀「文字の力」・著者インタビュー)

 『僕の描き文字』のほうはエッセイ集だが、こちらにもときおり実作の描き文字が挿入される。たとえば「暗闇へのワルツ ウィリアム・アイリッシュ 高橋豊訳 ハヤカワミステリ」の描き文字装丁。「暗闇」の二字にどちらも「音」があることを、いまさらのように気づかされてちょっとはっとする。
装丁家のなかで好きな人、あるいは「よく出くわす人」というのは平野さんのほかにも何人かいる。菊地信義がまずそうだ。よく出くわすし、この人もだいたいすぐわかる。すぐにはわからない場合もあるが、どことなくこれいいなあと思っていると案の定、菊地さんだったりする。菊地信義といえば古井由吉の作品群がまず思い起こされる。最近買った本では丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』(青土社)がそうだった。などなど。
あ、そうそう、アマゾンで予約しておいたニンテンドーDSのソフト「ゼルダの伝説 夢幻の砂時計」も発売日の今日届いた。冒険は妻が担当する。
ところで、宮沢さんにちょっとしたメールを書き送ったのだが、そのさい『ニュータウン入口 または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入を決めたか』の、今度の二回目のプレビュー公演を指してついつい「実験公演」と書いてしまう。送信ボタンを押した直後に間違いに気づき「あ。」と思ったのだった。その後更新された「富士日記2」の5月24日付の記述には、

このプレ公演の第二弾「準備公演」は、

 と公演名称にかぎ括弧が付けられ強調されていて、まあそういう意図ではないのかもしれないけれど、なんだか暗に指摘されているような心持ちになった。

本日の参照画像
(2007年6月26日 02:43)

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/ 22 Jun. 2007 (Fri.) 「日々に遠のく」

猫封じ。

パセリの上のかまきり。

「すいか」DVD-BOX (4枚組)

ご無沙汰です。
幾度となくペンを握ってはノートを開くまでに至らず、それを繰り返しては、書こうと思う事柄の日々に遠のくにまかせる。あれもこれも、もう取り立てて書くまでもないことばかりであるように思えて、しかしその繰り返しがやがてまた巡ってくる。「あれもこれも」を引き連れてどんちゃんどんちゃん、やってきたのだ。ご無沙汰ですと書き出して、その遠い騒ぎを見遣っている恰好になる。書き終わってみればどれもこれも、書きたいことはやっぱりこれではなかったろうという顔をしてこちらを見ている。
6月2日は豪勢で、観たい映画の初日が三つ重なった。渋谷でモーニングショーの『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』(藤原敏史監督)を観、立川にとって返して『監督バンザイ!』(北野武監督)を観る。『大日本人』(松本人志監督)を翌週にまわすつもりでいて、結局未見のまま梅雨に入った。
『映画は生きものの記録である』の初日舞台挨拶には土本典昭監督も姿を見せた。本編中の土本監督はいっさいタバコを喫っていないが、じつは二年の撮影期間のなかばでやめたのだという。それまではインタビューを受けているときもひっきりなしに喫っていたから、「映画が全篇こんなに煙っていて大丈夫だろうか」とよくわからない心配もするくらいのものが、たまさか途中でやめ、さらにたくまざる編集の結果、やめて以降の取材テープのみが残ったために画面は一貫して澄んでいることとなった。
5月10日の日記に書いた『水俣—患者さんとその世界—』についての記述を宮沢(章夫)さんの「富士日記2」で取り上げてもらい、あまつさえ「いい文章だった」と言われてしまったことに対しては、まずもってこの日記のなかで素早く応答したいところだったけれど、それももう無沙汰の彼方だ。いまさら書くけれど、うれしかった。いま日記を書いている自分に提案があるのだが、その宮沢さんの言葉をここに引用して、いま一度うれしさを噛みしめてみるのはどうだろうか。あらためて引用してみて、ひょっとすると、やっぱりそれほどうれしくもないなということになるかもしれないけれど、そうなったらそうなったで私はいっこうにかまわないと思っている。

相馬のブログが久しぶりに更新されおり、土本さんの映画を観にアテネフランセに行ったのを知った。いい文章だった。僕も行きたかったが家で仕事をしていた。その仕事っていうのが、土本さんについて書く原稿で、なんだかよくわからないことになっていたのだ。「富士日記2」2007年5月12日付

 やっぱりうれしいよなあ、これは。なにしろ宮沢さんだ。「ただのファン」としてはこの更新しないったらないサイトをそれでも定期的に覗きに来てくれているというだけで充分にうれしい事態なわけだが、加えて「いい文章だった」である。どうしよう。もう一回引用しようか。
それもただの宮沢さんではない。当時「土本さんについて書く原稿」でうんうんうなっていたところの宮沢さんだ。釈迦に「いい説法だね、それ」と言われているようなものじゃないか。釈迦そんな口調かよとも思うけれどそれはそれとして。ことのついでに自慢しておくけれど、以前、ひょんな流れから宮沢さんに私の書いたコント台本を読んでもらう機会があって、これはメールで「すごく面白い」と言われたのだった。宮沢さん自身の仕事が絡む状況下でのことだからまるきりのお世辞でもあるまい。これはうれしかった。そしてそれと同様、今回もうれしかった。(ところで宮沢さんのほうの「土本さんについて書く原稿」は『映画は生きものの記録である』のパンフレットに収まっている。もちろん本文もよかったが、なによりそのタイトルにやられた。これは近年の宮沢さんの文章のなかでも出色のタイトルだ。「あの五年間に」。多少の予備知識があることも手伝ってピンと来るから、もう、タイトルだけでおなかいっぱいである。)
さて、宮沢さんからそんな言葉をもらうとはつゆ知らず、ひきつづく5月11日の日記では呑気に「立ち喰いそば」の話など書いていた。その日記に、高校同窓の永澤のブログからトラックバックをもらう。自身のブログに「立ち食いといえば」という記事を書いてくれたのだが、それと同じ日に更新された別の記事の、次の文章に笑ってしまった。

ああ,なんて70-90年代前半の音楽は気持ちが落ち着くんだろう.時々の紬:ネーミング

 広いよ、範囲が。
4月1日付の日記には、「というわけで禁煙して二週間になる」と書いた。その記述を頼りにいまさら算出するところたしか3月19日の月曜だったはずだが、その朝出掛けに家で喫った一本を最後に、まる三ヶ月、私はほんとうにタバコをやめていた。禁煙したと書いた日記の日付が日付だけにひょっとして嘘だと思われているかもしれないという偶然に気づいたのは日記を更新してしばらく経ってからのことだ。今年のエイプリルフール、妻はごく親しい女性の友人に「妊娠しました」と携帯宛のメールをもらい、そのニュースを私に報告したすぐあと、ひきつづいて着信したメールに何と書かれていたかは知らないが、「まただまされた!」と叫んでいた。その友人には毎年嘘をつかれ、そのたびにだまされているのだという。
アマゾンから「まだ商品の調達ができておりません。現時点でこのご注文をキャンセルいただくこともできます」という案内をもらい、しかしキャンセルはせずにいて、忘れたころにまた同じ案内をもらう──それを数度繰り返して二ヶ月ばかりが過ぎていた『地球防衛少女イコちゃん・コンプリートDVD』が、届いた。ついつい注文してしまったのだ(作品自体は学生時代に見て知っている)。なぜ注文してしまったのかという話だけれど、たぐりよせていけば植木等さんの訃報にまでさかのぼる。追悼の一環で、「オヨビでない奴!」のDVDボックスを買い、そこからの流れ(つまり「磯崎亜紀子つながり」)である。
その「オヨビでない奴!」ボックスは、何度か高橋良明ファンであることを表明している笠木(泉)さんに貸した。貸したのはあれは『ニュータウン入口』のリーディング公演のときだが、いまだブログで話題にしていないところを見るとあれやこれやでなかなかゆったりした時間がとれず、楽しみはあとに回しているのだろうか。それとも乙女はひとり静かに高橋良明を楽しんでいるのか。
『廻罠』のリーディング公演の帰りには、出演していた笠木さんと上村(聡)君、見事に声を嗄らしたことで知られる實光(ちなみに「じっこう」と読ませる)君、それと観に来ていた鈴木(謙一)さんとでごはんを食べた。そういえば先日笠木さんの出ている『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』を観に行ったが、そこでも實光君と顔を合わせた。
neoneo坐での特集上映「映像作家・土本典昭 発見の旅」(6月16日、17日)はどちらか一日だけでも行けたらと思っていたが、結局だめだった。家でずっと、とある仕事をしていた。ちなみに『ドキュメント路上』だけは、『映画は生きものの記録である』の劇場ロビーでDVDを販売していたので買ってあるのだったが、特集上映を観に行くつもりでいてまだ見ていない。その「とある仕事」がなかなかはかどらずにいるうち、ついつい「行っちゃおうかな」という考えも頭をもたげたけれど、まあ、やめておいた。「とある仕事」は、それはそれでとても光栄な、楽しい仕事である。いずれ明るみになったら詳しく書こう。
もう終わってしまったが、ドラマ「セクシーボイスアンドロボ」の話。あれ、もう「中学生」という設定もいじってしまっていいから、いっそのこと「ニコ」役、市川実日子じゃどうなのかと思ったのは、これ、どうやら「すいか」(2003年、日本テレビ)と同じスタッフが集まって作っているらしいからだ。いや、ちゃんと調べてないんだけど、とりあえず脚本(木皿泉)と演出(佐藤東弥)、プロデュース(河野英裕)が同じ人である。キャストでかぶっているのは、レギュラー陣だと浅丘ルリ子、片桐はいりだけだが、白石加代子がゲスト出演した回があり、それを見ていて「あれ?ひょっとすると?」と気づいた。その後、小林聡美、ともさかりえ、もたいまさこ(いずれも「すいか」レギュラー)がゲスト出演する回があり、「すいか」ファンの妻をにんまりさせる。その第9話のラスト、桜吹雪にはやられたなあ。筋でもって物語が進むのではない、なんというか(なんとも吟味し切れていない言葉で恐縮だが)「鈴木清順的リアリズム」といった言葉が浮かんだ。原作は原作でむろん大好きだが、それとはまた異なる佇まいの作品になっている。まあ、原作はつまるところ「借景」程度のものなのだろう。それにしても、なぜ市川実日子が「喰いタン2」にいて、ここにいないのか。

本日の参照画像
(2007年6月23日 13:32)

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