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Jul.
2007
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/ 11 Jul. 2007 (Wed.) 「圧倒的な悲しみがプラズマテレビに、ハイビジョンで映っている」

身近にうれしい報せが咲く一方で、別の場所では圧倒的な悲しみが口をつぐんでいる。──書き出すにあたって第一文は、「うれしいニュースがあれば、悲しいニュースがある」という原形をしていたけれど、後者のそのニュースは「悲しい」という形容詞を拒否して圧倒的な〈遠さ〉のむこうにあり、その距離を想像することの困難が私に絶句を強いたのだったと思い返せば、「うれしい/悲しい」という修辞の対称性を、安易に選ぶわけにはやはりいかない。なにしろ私はハイビジョン放送に乗せられたそのニュースを、大画面プラズマテレビのなかに見ている者だからだ。どこまでも恣意的なテレビ視聴の、束の間の出来事に絶句して、言葉にならない──けれど、その〈「言葉にならない」という言葉〉を発するところから、手持ちの言葉から、どこまでも言葉の力を信じる者として私ははじめなければならないのだから、はじめよう。改行ののち私はきっと、いつものような軽やかな身振りで言葉を発しようとするだろう(そうしたいからそうするだろう)。見ていたのはフジテレビ夜の報道番組「ニュースJAPAN」、パキスタンの首都イスラマバード、「赤いモスク」と呼ばれる建物に立てこもる武装したイスラム神学校の生徒らと、その完全制圧に乗り出したパキスタン軍に関するニュースCNN.co.jpの関連最新記事だ。死を選んでまで徹底抗戦を叫ぶ者らは、なぜ徹底抗戦を叫ばなくてはならなかった/ならないのか。
私の帰宅時間も影響して、平日、たまたま点いているテレビでニュースをやっているという場合のそのニュースは、「ニュースJAPAN」であることが多い。その日いちにちのニュースソースをまとめて手にする機会として、けっして「ニュースJAPAN」は適していると言えない(し、じっさいそのようには利用していない)が、しかし何といっても、「ニュースJAPAN」というこの番組をぎりぎりのところで救っているのが、滝川クリステルというキャラクターであることはあらためて指摘せざるを得ない。もちろんそれは、悲惨なニュースとの対比においてその存在が安らぎを与えてくれるとかいう話ではなくて、番組内の他の男性キャスターや、解説員といった人たちとの対比においての救いである。
画面手前、カメラに近い位置に滝川クリステルがいてほぼつねに正面を向き、そこからぐっと奥まったところに男性キャスターがいてこれも正面を向いているという構図が、「なんだか変だ」ということがまずあるけれども(そして、三木聡さんがこの構図をさらに極端にデフォルメして、ドラマ「帰ってきた時効警察」のなかでパロディにしたのは記憶に新しいが)、さらにはその構図もあいまって、たまに聞いていると解説や総括のコメントとしてちょっとそれどうなんだよということを言っている男性キャスターらを、彼女が「あしらっている」ようにしか見えないのがじつにすばらしい。
ニュースのVTRが終わり、男性キャスターの松本方哉がちょっとその総括はいかがなものかということを言う。やや間があって、次のニュースに移行するために画面手前の滝川が、「(……)さて」と言う。その光景がどうしても、たとえばあるニュースでは、「(この人はこんな下世話なことを言っておりますが、)さて」と言っているようにしか見えないことがあり、それがとても面白い(あるいはそれしか面白くない)

あ、申し遅れましたが、「富士日記2」からのリンクで笠木さんの話を読みに来られた方は、きのうの日記ですのでそちらへどうぞ。

岩のかげからちょいと見てみれば 世界のことがよくわかる
岩のかげからちょいと見てみれば 気になるあの娘(コ)がよくわかる
村でいちばんの働き者さ 家に帰ればすぐシャワー
岩のこっちじゃ風呂場は見えぬ シャワー浴びてるあの娘は見えぬ
いいよ いいよ いいよ いいさ どうせ いいさ
いいよ いいよ いいよ いいさ どうせ いいさ
「岩のかげからちょいと見てみれば」『世界歌謡全集』、p.547

(2007年7月12日 20:47)

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