7
Jul.
2007
Yellow

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/ 24 Jul. 2007 (Tue.) 「がっぱり」

また会社に泊まった。急にせっぱつまったような具合だが、朝五時に床に寝るまで、がっつり仕事をした。九時半に起きてからもがっつりだ。
つい誘惑に負けて書いてしまうのだったが、「がっつり」ということで言えば、「富士日記2」に突如現れた「がっぱり」のことを書きたくてしょうがないのは、俺疲れてるってことだろうか。

でも、ようやく夏らしくなって、調子があがってきた。七月は一年でいちばん好きな季節だったが、ぜんぜん、夏らしくなくてがっぱりしていたのだ。
「富士日記2」2007年7月24日付[2007.07.25 16:30時点]

 文脈からいって「がっかり」の誤字であることは明らかだし、意図のあろうはずもないから、こんなとこで取り上げてないでメールで指摘したらどうなんだって話なんだけど、おそらくは音的に隣接する「がばっ」と「ぱっくり」のせいだろう、私には「がっぱりしている宮沢さん」が瞬時に想像されて、ちょっと愉快な気分になってしまったのだった。なにせ「がっぱり」はなあ、相当な状態だと思われるのだ。

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前回の日記に、これも「富士日記2」への言及としてだったが、「Always Look On The Bright Side Of Life」をBGMに使ったサッカーの映像集のことを書いた。すると、たぶん知らない人なんだけど、とあるブログがここのリンクをきっかけに考えを巡らし、一本の記事にしていたのだった。

こちら[引用者註:当日記のこと]で知ったこの動画が面白くて、で僕はサッカーは全然詳しくないし意識的にリアルタイムで見ることもほとんどないからどうなのかと思うのだけど、これってまさに今歓声/喚声を上げ眺める人達は笑えないんだよね。とりあえず僕がその場で(生で)見ていても笑えないだろうと想像するから“ファン”な人達は一層笑えないのだろう。コンテクストから隔離されたフレーミングの妙で笑いへと転化されるってのが見てとれる。あちら側とこちら側、のこちら側で眺めることが許された場ではじめて生まれる笑いとでもいうか。“笑い”をちゃんと考えたことはないから凄く曖昧だけれどとりあえず笑いには3種類あって、それは、こちら側で起こる笑い(会話の中で巻き起こるそれ。あるコミュニティ内での笑い)、あちらとこちらのその狭間で起こる笑い(芸人らの“笑い”)、あちら側を笑う笑い(今回の動画とか)なのかなと今思う。例えば自嘲的な笑いだったら、自分をあちら側に位置づけて笑ってみせるその解離っぷりが時に恐怖を誘うのだろう、とか。
MCMLXXXIX/AT HOME [2007-07-23]

 文章はこのあともつづき、後半は、森美術館で開催されたという『笑い展』を巡っての展開になるから、もちろんそこまで含めて読まないと本来的な文意がどこにあったのかを手にしにくいと思うが、それはリンク先に直接あたってもらうとして(というか、全部読んだら読んだでさらに文意が掴みにくくなる印象が私にはあったんだけど)、とにかく、偶然にも見知らぬ人とつながってしまったというこの出来事がまず純粋にうれしく、うれしさのあまり書いてしまうんだけど、この〈こちら側〉と〈あちら側〉の関係から見た「笑い」の三分類は、ちょっと恣意的というか、弱いんじゃないかなあ。
自身、文中で、笑う対象が〈こちら側〉にあるはずの「自嘲的な笑い」が、じつは笑う瞬間に対象を〈あちら側〉に投げることで成立していることを指摘しているが、だとすれば、事態をより微細に見つめて、「すべての笑いは、笑う瞬間に、対象を〈あちら側〉へと位置付けるのだ」という言い方をすることも可能であって、それを否定してなお「三つの笑いは質的に異なるのだ」とする根拠がちょっと言われていないように思える。仮にそれが「あるコミュニティ内での」「会話の中で巻き起こ」った笑いであっても、笑う者は、笑われる者をその瞬間〈あちら側〉に置くことによって笑っているのだ──「笑う」という行為はそのようにしか存在し得ないのだ──という主張は、ひとまず成立するように見えるのであり、この点を処理しないかぎり、「三分類」のうちのどれかひとつを取り出して肯定的に語るのはむずかしいのではないかというのが私の感想である。
いや、まったく見当外れなことを言っていたら申し訳ない。うれしかったんだよ。うれしかったんだろうなあと思ってくれればさいわいだ。

(2007年7月25日 19:08)

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