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Sep.
2007
Yellow

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/ 23 Sep. 2007 (Sun.) 「三日目・昼を観る」

さて、今日は長くなると思うので覚悟していただくとして、まずその前にきのうのことから。きのうは夜、吉祥寺でミクニヤナイハラプロジェクトvol.3『青ノ鳥』を観る。(鈴木)将一朗君や渕野(修平)さん、高山(玲子)さんらが出ている。『ニュータウン入口』と日程がかぶらなければここに上村(聡)君も出ていたんだろうかと想像するものの、まあそれはさておいて、とにかく足立(智充)君がよかったな。足立君といえば、私のなかで、まず何よりはじめて生で観た宮沢章夫作品である『月の教室』に出ていた人として印象深く、そのことだけでもって半ば「ヒーロー」的ですらあるのだけど、その後に観た舞台のなかでは今回、ずばぬけてその存在感を示していたように思う。むろん将一朗君も見どころ(および聞きどころ)たっぷりだし、こう言っちゃなんだが渕野さんも相変わらずだ。高山さんもまたうまくその魅力が引き出されていたように思う。っていうか、出てくる役者、みんながみんな魅力的に映っていたと言うほかない。と、まとめておいて直後に申し訳ないが、あと、やっぱり稲毛(礼子)さんはいいな。非常にいい。ちなみに、たぶん向こうはおそらく私の顔など忘れていると思うけれど、稲毛さんとはもうだいぶ前、宮沢さんの「テキスト・リーディング・ワークショップ」でいっしょだったことがある。
で、そういった興奮もさめやらぬまま、おとといの今日で二回目、観られるときに観ておこうと『ニュータウン入口』三日目・昼の回に行った。私が言うのも何だが、舞台はだいぶ安定してきたように見え、初日に気になってしまったいくつかの場面が今日は気にならなくて、早い話が、すごくよかった。あと、やっぱりこれは泣けると思う。
で、舞台を観る直前、立川から三軒茶屋へとむかう電車のなかでずっと『ニュータウン入口』のことを考えていて、それでようやく、舞台全体について私なりに語る、その言葉の糸口をつかむことができたように思えた。以下に書くその感想は、舞台の内容にも触れているので本来なら公演終了後にあらためて書くべきかとも思うが、時間が経てばそのときに生まれるまたべつの言葉に取って代わられてしまうだろうから、なるべく〈いま・ここ〉の言葉をここに書いておきたいとも思い、そういうわけで、その部分はいったん「非表示」になるようにし、内容に触れていることを承知で読みたいという方のみ、クリックしてご覧いただけるようにしてみた。まあ、おそらく観ていない人には何が何やらわからない文章になっているだろう意味も含め、基本的には観劇後にお読みになっていただければと思います。

ここをクリックすると、感想が表示されます(※携帯でご覧の場合には非表示になっておらず、この下にそのまま表示されているかと思います。お読みにならない場合は、このままスクロールしないでください)

感想を「非表示」に戻す。
でまあ、もったいぶって「表示/非表示切り替え式」にしてみたものの、要は一個人の感想であって、まとまりも欠くし、あるいは「そんなこと、誰でも思うでしょ」というレベルのことを書いているかもしれなく、その点は読んでがっかりされてもご容赦いただきたいと思うが、それで、やっぱりこれは「神話」なのだと思う。
しかし「悲劇」なのだろうか。古典的な悲劇/喜劇を分岐するごくごく機械的なポイントとしてはひとつ、ラストに際して主人公が死ねば悲劇、生きていれば(悲劇の対としての)喜劇ということがあるだろう。そもそも『ニュータウン入口』においては誰を主人公とみるかがむずかしいが、たとえば主要登場人物のひとり、ポリュネイケスは終劇に際して死んだかのようでもある。しかし引用元のポリュネイケスがそうであり、何人かのセリフのなかに示唆されるように、彼/彼女は「はじめから」死んでいた。「おまえは生きる方を選び、俺は死ぬ方を選んだ」と語るアンティゴネもまた、しかしラストの「映画」のなかで、劇中をとおしてもっともかっこいい、次の言葉を語る。

真昼子。
言葉で君をここに連れ戻す。

全ては真実で、すべては、真実を待っている。
壁の向こうにきみ。

壁の名前は明日。
壁を、壊し、新しい街は生まれ、未来は見えない。
けれど、死にはしない。
新しいやり方で、俺はここから行く。
[強調=太字は引用者]

ところでいま、ラストの「映画」、という言い方をしたけれども、しかし少し考えてみればわかるとおり、まもなく数分ほどでエンドロールをむかえるそれは、正確には「映画のラスト(シーン)」でもある。
拍手をするタイミングがないという話があるけれど、ふだん映画にたいして映画館で拍手をするという習慣がうすい日本においてはあたりまえのことなのかもしれない──だってこれ、どう考えても拍手のタイミングは(映画におけるタイミングがそうであるように)エンドロールのところだろうと思うのだ。それこそ、劇中でも引用される黒澤明の『素晴らしき日曜日』ではそのクライマックス、カメラにむかった主人公の女性が(つまり実際にはどうみても映画館の観客にたいして)「どうか私たちに拍手してください!」と叫ぶのだが、まあ黒澤の特集上映に集まるような客層においてはそれなりに拍手が起こりもするものの、当時、一般に反応はさんざんだったらしい(で、これが海外だとものすごい拍手の嵐になるらしい)
ま、そうした意味も含めて、この舞台はそもそものはじめから一本の映画なのである。以前の日記でプレ公演の感想を書いたとき、私は、

物語の期待を一身に背負うのは、結局のところ、その土地の成り立ちを描いたとされる一本の映画(『ニュータウン入口』)なのだろうか。[中略]その内容が戯曲中に描かれていないという意味で、映画は物語の外部にあり、そしてルールとして、物語の外部に答えを求めるべきではない。とすれば、やはり──

 と結んだのだが、ちょっと言葉足らずだったかもしれない点を補足しておけば、「ルールとして」と書いたのはべつに作劇のルールといったことではなく、テクスト論的な「読みのルール」のことで、つまり、『ニュータウン入口』と呼ばれる映画が何なのかについて、われわれは書かれてあるテクストのなかにこそ答えを求めなければならないのであり、とすれば──つまり、奇しくも同名のタイトルをもつこの劇そのものが映画『ニュータウン入口』なのだと言うほかないのだということが言いたかった。
本公演において、ついに「映画」はある実体をもったものとして登場するのだが、それでもやはり、それは舞台上と地続きのものとして存在する──まず何よりも、舞台のつづきとして鳩男は池のなかにいる。(で、カゴのなかに入れられ、沈められたはずの鳩男が泳いでいることには、単純に言って希望がある。「飛ぶ」のではなく「泳ぐ」鳩は、「組みなおされた、新たな闘い方」を暗示してもいようか。)
根本洋一のセリフによれば映画『ニュータウン入口』は「もう四〇年も前」に作られたというが、この時間軸上の設定に何か辻褄の合う意味を与えるとすれば、それはつまり第三次中東戦争(1967年)ということになるだろうか。

第三次中東戦争は六日間戦争、六月戦争とも呼ばれる、イスラエルとアラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン)の間で発生した戦争。この戦争の結果として、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区の支配権を獲得してパレスチナを統一、シナイ半島とゴラン高原を軍事占領下に置いた。戦争の結果は現在まで中東の地政学に影響している。
第三次中東戦争 - Wikipedia

 「〈この土地〉の意味/成り立ち」を描くとされる映画は、最後に、パレスチナ人自治区内にあるイスラエル人入植地(だと思うが)を捉えて終わるのであり、〈そこ〉へと至るまでの土地の成り立ちかた、そしてこれからも強力な「敵」がわれわれをつねに〈そこ〉へと至らしめようとする、その〈共時的な歴史〉を描くのだとすれば、やはり物語は〈神話〉にならざるをえない。
舞台奥でスクリーン用に演技する役者たちが客席からほとんど丸見えていて、さらにそれを撮るカメラマンが自身の行為を語り、劇そのものに言及するというその「自己言及性の連鎖」はしかしむろん目新しいものではなく、言ってしまえば「近代的」ですらない、人類最古/最長の「問題の種」である。けれどもやはり、最後にカメラマンがカメラを手にぶらさげてゲートをくぐり、手前の舞台へとのぼることには象徴性があって、いわば、その瞬間に〈神話〉内の時間は「現代」になるように思える。
加えて言えば、その瞬間まで、舞台上には「時間」がない。そこで営まれているのはまさしく「永遠と一日」であって、戯曲はつねに「きょうは日曜日」であることしか言及しない(サラリーマンである根本が土地探しに時間を割けるのはもちろん休日である)し、そして、ポリュネイケスはつねに「明日」にいる。(で、これはちょっとこじつけが過ぎる感があるけど、「六日間戦争」とも呼ばれる第三次中東戦争の六日間、1967年6月5日〜10日は月曜日〜土曜日なのであり、ポリュネイケスのいる「明日」は、じつはアンティゴネのいる「日曜日」と通じているのかもしれない、という読みもできる。そして、さらに牽強付会を重ねれば、「あの日、いちばん上の兄が警察に捕まった日が、いまでもずっと、その日として終わっていないかのようだ」というアンティゴネのセリフにある「あの日」のモデル、神戸の少年Aが逮捕された1997年6月28日は土曜日であり、その地点からみた「明日」=「日曜日」に、しかしアンティゴネはすでに/つねに立っている、という図式にもなる。)

観終わって携帯電話の電源を入れると、友人の永澤から留守電が入っていて、今日、夜の回に観に行くという。これから名古屋を出るというタイミングでかけてきたらしい。職場の休みが不規則かつ流動的な男であるため、まぎわになって「行ける」と判断し、遊園地再生事業団に電話してチケットをとった。その電話口で「これから名古屋を出るんでギリギリかもしれないんですけどいいですか?」と訊いたので、「俺、ものすごく熱心なファンだと思われているかもしれない」とは本人の弁。ていうか、あんた「ものすごく熱心なファン」だろう、どう見ても。
『トーキョー/不在/ハムレット』のときは永澤もまだ時間にいくぶん余裕のある身で(ちなみにそのころは山梨県在住だった)、プレ公演も含めて観に来てくれていた男だが、今回はプレ公演を観ていない。ので、まさにワンチャンスでもって本公演に遭遇する者がどういったふうにこの舞台を観るのか、その点でも非常に興味深く、終演後の頃合いをみはからって電話をかけたところ、どうもすっかり堪能したらしく、「よかった」「観に来た甲斐があった」と繰り返していた(本人による感想はそのブログを参照ください)

(2007年9月24日 17:23)

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