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Sep.
2007
Yellow

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/ 27 Sep. 2007 (Thu.) 「俺もゴーゴリの『外套』から出てきた」

DEMOCRACY FOR BURMA!!
うーん行けないなあ、アフタートーク。明日こそはと思うが、どうだろう、行けるだろうかという案配。
で、舞台を観るのはあと一回、楽日をとってある。贅沢だな俺。楽しみだ。もう、存分に観るのみである。「ニュータウン入口 NOTE」[9月27日付]には楽日の「いたずら」のことが書かれてあったが、そういえば『トーキョー/不在/ハムレット』のときにはそれがなかった。『トーキョー・ボディ』のときはあって、で、『不在』には『ボディ』の出演者が多く参加していたから、みんなわりとかまえていたのだったが、結局何もなかった(と思ってるんだけど何かあったのかな)。ちょうど食べるシーンのあった岸(建太朗)さんが、「ぜったい俺だよ、俺んとこだよ」とさわいでいたのは覚えている。
南波(典子)さんの「しいたけ園←ブロッコリー」[9月26日付]より。

昨日大学時代の同級生O君から突然メールをいただきました。もう10年以上全く連絡をとっていなかったのに、どこからか情報を見つけてくれて、楽日に見に来てくれるのだそうです。すごいなあ。こういうのってとても嬉しい。楽屋で杉浦さんにそのことを話したら「求婚されるんじゃないの?」といきなりなことを言われましたが、O君は奥様と見に来てくれるのだそうです。こんな風に覚えてくれていて、見に来てくれるなんて、嬉しいなあ。

 奥さんと見に来たOさんが、なおかつ求婚してきたらどうしよう。うわっ、どうしよう。
きのうの、永澤へのアドバイスの補足。というか、そもそもなんでああしたものを書いたかというと、ブログを読むかぎりだが永澤が本気で悩んでいるように見え、それに加えて、

今日は,来月提出予定のとある書類を仕上げていた.
一通りそろったのだが,肝心の「抱負」が書けない.
文章がボロボロだ.

 という当面の問題も存在するらしいからである。そうしたことがなければ、永澤の「性急な」文章は、それはそれでべつにいいんじゃないかと私は勝手なことを思っているのだ。ひとごとだし。ひょっとしたら「性急さ」や「粗忽さ」といったものが永澤の書くものの持ち味かもしれない。仮に文章術といった面で上達したとして、それ、永澤の場合にはたんにつまらない文章になってしまうんじゃないかという危惧もある。でも、それは杞憂だろうな。ああした「くせ」のようなものがそうそう簡単に消えるわけがない。
「ていねいに書いてみたら?」というのはアドバイスとしてわりあい外してないところだと思うのだが、もうちょっとアドバイスっぽいアドバイスを書いておくなら、ありきたりな言葉にはなるけれど、やっぱり「もっと読め」ということと、「もっと書け」ということになるだろう。
「もっと読め」については、後藤明生のよく知られた言葉、「なぜ小説を書くのか、それは小説を読んだからだ」が示すとおりである(後藤明生『小説いかに読み、いかに書くか』)。あるいはまたドストエフスキーが言うように、「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から出てきた」。すぐれた映画を観たから自分も撮ろうと思い、文章を読んだから書こうと思う。基本はそうでなければならない。
「もっと読め」はかならずしも量の問題ではないが、「もっと書け」は量の問題だ。キーボード入力も含め、書くことが「手の運動」であり「技術」である以上、日々のトレーニングは重要である。書かないでいれば腕がなまり勘がにぶる。ま、書いたらいいじゃないか、なんのためのブログだっていうんだ。で、これに関して、ちょっと聞けば真逆のことを言っているかのような高野文子の言葉がいま思い出され、一気にアドバイスという目的からは外れるんだけど、それを引きたくなった。っていうかいま手元になくて正確な引用ができないのだが、『ニッポンのマンガAERA COMIC』に五年ぶりの新作「おりがみでツルを折ろう」とともに収録されているインタビューのなかで、高野さんは、「描かないでいるあいだも、ずっと漫画家でした」という意味のことを、じつにきっぱりと言っているのだった。この言葉には凄みがある。背筋が伸びる。って、ほんとうに一気にアドバイスという目的から外れたな。ま、いいか、ひとごとだし。

(2007年9月28日 14:50)

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