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May.
2008
Yellow

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/ 3 May. 2008 (Sat.) 「手短に、のつもりが小田亮さんのブログ炎上の件で長くなってしまったよ」

あいたたた。ラストソングスの出演するライブイベントがあったらしい。わりと近場(東小金井)でやっていたというのに、告知を目にしたときにはもう終わっていたのだった。だからネットサーフィンにおける定期巡回ってやつは大事なのだが、どうもね、怠ってしまうときがある。もう半日早くなあ、気づいていれば行けていたのに。昼間は友人の荒川夫妻につきあい、シティボーイズの舞台『オペレッタ ロータスとピエーレ』を観に天王洲アイルまで行っていた。
それにしても、前回分の日記「コメディカルという思想」はくだらなかった。でもまあ渾身。いっしょうけんめい書いたよ俺は。さっそくY君からコメントがあり、どうやら怒っているふうでもないのでほっとする。Y君のコメントがこれ。

Comedic pharmacology
テキストでは無理だったけど,
講義では目指したいね.
かつて,T教授の講義を通じて(読んで)
理系の私が文学を面白いと感じられたように.

 Y君の私的言語を一応解説しておくと、この「T教授」というのは筒井康隆の小説『文学部唯野教授』のこと。で、前回少し触れたY君の新しい職場というのがつまりとある大学で、ここ二年ばかりY君は救急医療の現場に身を置いていたのだが以前の研究職にもどることになり、准教授というやつになって二、三の講義を受けもっているのだった。で、そのY君とは夜、iChatで長ビデオチャットをする。

ここ数日、アクセス解析を見ていると「小田亮」で検索してうちに来る人が目につき、何かと思ったら、小田さんのブログ(の一記事)がいわゆる「炎上」をしていたのだった。で、うちにはたとえば「小田亮さんのブログがすごいのだ」といった記事があり、それが参照(?)されたようだ。
炎上の舞台となったのは「正義と倫理のあいだについて」と題された記事。ただ、今回のその「飛び火」的な炎上は記事の主題(同一平面上に対立するものとして「正義(=裁き)」と「倫理(=慈愛)」とを捉えるべきではなく、両者がそれぞれ異なる「水準」において成立していることにこそ注目すべきであり、また水準の異なる両者は同時に存在可能であって、われわれはそのあいだを往還できる/している、といったような話)とほとんど関係のない位相で展開されている。火種はというと、青山学院大学准教授の瀬尾佳美さんという人。この人が自身のブログで行ったとされる「問題発言」の数々が2ちゃんねるやらブログやらで取り上げられ、非難の集中砲火を浴びているらしいのだが、そのさいに用いられる言説の一典型を取り上げて、小田さんはこのように分析する。

先の光市母子殺害事件の判決に関して、瀬尾佳美さんが自身のブログで、「最低でも永山基準くらいをラインにしてほしい。永山事件の死者は4人。この事件は1.5人だ」といったことを書いたことが問題になりました(私はそのブログを直接読んでいません)。それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。つまり、その非難は、固有性・比較不可能性をもつ死者を数えて比較すること自体に向けられてはいないわけです。正義=裁きにおいては、そのように数えて比較することが当たり前のことであり、その意味では「0.5人」という数えることも(当否については意見があるでしょうが)、「正義」(=公正さ)にとってはなんら奇妙なことではないのです。しかし、「倫理」にとっては、「子供を1人」と数えようと、正義のためには不可欠な、数えて比較すること自体がそもそもふさわしくないのです。ようするに、瀬尾さんに対する非難は、正義と倫理を混同してしまっているわけです。

 部分引用は誤解を招きやすいので念のため付言しておけば、小田さんは瀬尾さんの主張それ自体を擁護しているわけではない。そうではなく、「正義」と「倫理」という異なる水準のものが混同されて語られがちであるということの一例として、ここでは瀬尾批判の言説のあり方が取り上げられ、批判が加えられているのである(だから、じっさいには逆に「瀬尾批判の側を論理的により鍛えようとしている」とも言える)。そして、今回この記事で瀬尾批判の言説が例として引かれたのは、主題からやや脱線するかたちでひきつづき言及される、次の出来事があったためだろう。

 この騒ぎに関して起きたもっとも奇妙な出来事は、瀬尾さんの所属する青山学院大学の伊藤定良学長が「当該教員の記述は適切でなく、また関係者のみなさまに多大なご迷惑をおかけしたことはまことに遺憾であり、ここに深くお詫び申し上げます。今後このようなことが繰り返されることのないよう努めてまいります」と謝罪したことです。大学に非難の電話が殺到したからということらしいのですが、学長の見解をホームページに載せるのであれば、「当該教員の見解は大学の見解ではなく、また学長個人としてはそのような見解は不適切だと思うが、たとえそれが大学の見解と異なっていようと、教員個人が意見を表明する機会を青山学院大学は保証するものである」ぐらいのことを載せてほしいものですよね、なにせいちおう大学なんだから。もちろん、大学や学長とは異なる見解の表明でも本学は擁護するなんてことを載せたら抗議の電話を鳴り止ませることはできないかもしれないけども、よりによってそれを「多大な迷惑をかけた」(ここでも「迷惑」が理由になっています!)、「今後このようなことが繰り返されることのないよう」だとは(所属する教員に社会通念に反することを二度と述べさせないってこと? それって研究するなってことか)。

 でまあ、これらの文章(のさらに一部?)が、もとの文脈から切り離されるかたちで(瀬尾発言をその内容面から擁護するものとして)2ちゃんねるなどに貼られ、それに煽られた大量の(おそらくは記事本文さえ参照していないと思われるような)ためにする罵倒/挑発コメントが押し寄せて、騒ぎになっていたということのようだ。騒ぎを外側から(かつ事後的に)眺めるだけの身としては、この機会に、何人かでも小田さんの言説(主題のほうね)に触れ有意義な示唆を受ける人があればと悠長なことを思うのだったが、当事者とすればそれどころではない数日間だったのだろう。
小田さんの管理ポリシーにより、大半の(中身のない/議論する気のない)コメントは削除されたあとだが、残っている多少なりとも議論をもちかけようとするコメントのいくつかを見るに、それらはつまるところ、「言わんとするところもわからないではないが、でも、今回の瀬尾ばっかりは擁護できない/許せないでしょ?」という土俵に持ち込むことによって小田さんの(ひいては万人の)合意を得ようとしているように見える。たしかに、上で扱われている発言のほかにも、瀬尾さんという人は過去のブログ記事において「ちょっとどうなのか」というたぐいの発言を数多く重ねているらしく、その発言の趣味の程度においていわば「勝敗は決している」とさえ言えるのだけれど、だとすればなおのこと、その「試合結果」を連呼することにそれ以上の意味はないように思えるのだし、たとえば小田さんのように、そこで発生した言説空間に対して批判的検討を加えることのほうが、より「前へ進もうとする」行為になるだろう。そしてまた、「これこれこういう点に絞れば正しい/悪いでしょ?」というほぼ万人にとって否定しづらい一点にまで問題を微分し、その「正しさ/悪さ」を足がかりに、問題全体に対するある一定の態度/合意をこれまた万人に対して迫るという時代の「空気」が、なんともあぶなっかしいものとしてここにも発生しているのを見たのだった。

(2008年5月 5日 21:29)

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