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Jun.
2008
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/ 12 Jun. 2008 (Thu.) 「アデュー第二回公演『125日間彷徨』」

アデュー第二回公演『125日間彷徨』。二度目の観劇。「感想はまたあとで」とだけ書いて済ませた前回の日記を読み、作・演出の笠木(泉)さんは「書けよ」と思ったといい、「こりゃ結局書かないな、ぜったい書かないよあんたは」と舞台のあと、打ち上げの席で言われたわけだが、むろん私は胸をはってこう答えた。「年内には書く」。
しかし「年内に」というのはちょっとあれなのではないか、もう少し早く書いたほうが、私も舞台のことをよく覚えているしいいのではないかと、いま、そのように思い直してこうしてキーボードを打っている。
ところで、野球選手の松井秀喜を取材した本に、『松井秀喜のリハビリ125日“戦争”』というものがある。今回のアデュー作品のタイトルにある「125日」という数字が、そもそもの着想時に直接この本からとられたものなのかはわからないが、2006年5月11日の試合中に骨折した松井秀喜選手が、同年9月12日に復帰するまでの日数が「125日」であり、その数字はたとえば、(松井選手の自著で、前掲書よりもポピュラーだと思われる)『不動心』についての感想を述べたブログ記事などにも登場するから、(多くの読者がわざわざ数えるとは考えにくいとすれば)おそらく『不動心』のなかにもその数字は登場するにちがいなく、つまり「松井」界隈(どこだよ)において「125日」というのは有名な数字だと考えられるのだった。
早い話が劇中、そのラストに登場するのがこの『松井秀喜のリハビリ125日“戦争”』という本であり、だから「125日」という数字をめぐってあらためてその関係性を云々する以前に、明白に両者は関係しているわけだが、不思議なことに一度目の観劇後、なぜだろう、私の頭からはこの書名がすっぽり抜け落ちていたのだった。
ラストちかくに置かれることで、ある種の種明かしというか、なにがしかの答え(?)のようにさえ機能するはずのこの書名がほとんど印象づけられなかったことについて、それがいいことなのか悪いことなのか(成功なのか失敗なのか)、はたまた私がただぼんやりしていただけなのではないかということはひとまず置くとして、ともかく私はその書名を一度忘れ、そして、ふたたびネットでこの書名に出会うのだった。というのはつまり「125日」という語で検索してすぐに出てくるのがこの本なのであり、じつに間抜けなことに、それが劇中に登場していたことを忘れている私は、「あ、『125日』というのはこれのことだったか」と何かを発見したような気分になったのだった──ま、ほどなくして「ちょっと待てよ、ラストのあの本がこれだっけか」と思い出すことになるのだけど。
さて、劇中における「125日」とはまず、自殺願望を抱いた女・小西晶が、自殺サイトを介して知り合った男・早川真純と結婚し、そして離婚するまでの「125日間」、「四ヶ月と三日間」のことである(ちなみにこの「四ヶ月と三日間」は舞台上の物語時間の外部にあって、その日々が演じられるわけではない)。その125日間、晶は早川と「死ぬことについてほんとうにたくさんのことを話」し、ついに早川を「生かしたい」と思うに至って一方的な別れを告げた(という事情は、物語の終盤になって判明する)
晶の姉・小西晴子が同棲する玉田治の部屋で、玉田と早川、そして隣人の成瀬が顔を合わせる場面で、玉田が野球好きであること、わけても松井のファンであることが再確認される(「再」確認であるのは、物語の冒頭、スポーツ番組らしきテレビを見ていた玉田が「やっぱ松井すげえな」とつぶやくからだ)。プロ野球も大リーグも大好きだと語る玉田に、早川は趣味が合いますねとばかりに顔を輝かせ、バックのなかにしのばせていたイチローの本を取り出して示すが、玉田の反応はすげなく、それどころかかえって、まったく趣味が合わないといった調子で「ぼくは断然松井です」と返す。そのことがあったゆえに、ラストの場面、小西晴子のもとに届いた早川からの郵便物には晴子へ宛てた長い手紙とともに、玉田への贈り物として『松井秀喜のリハビリ125日“戦争”』が同梱されているというわけだ。その意味で──冒頭の「松井すげえな」からはじまって──この物語はその「はじめ」と「終わり」を「松井」によって縁取られているとも言える(ボリス・ウスペンスキーによれば、芸術において作品を作品たらしめている要因とはすなわちそれを他と分かつ〈枠〉であり、絵画において「額縁」が果たすのと同じ役割を、たとえば文学テクストではその「はじめと終わり」が担うことになる)
ではいったい、松井秀喜の「125日」は、小西晶と早川真純の「125日」と、どういった関係を結ぶのだろうか。むろん、両者はただたんにその数字の合致のみで隣り合わせているだけであり、それぞれがまったく異なる「125日」なのであって、両者が共同して統一的な意味を担うことはない。そしておそらくは逆に、両者はまったく異なる「125日」としてこそ、そこに登場させられているのであって、そのことは端的に、玉田のセリフによって示されている。贈り物のその本を受け取った玉田は薄暗い部屋のソファに寝そべり、それをぱらぱらとめくりながら、最後にぽつりと思いも寄らぬひとりごとを漏らすのだった。

「俺、あんまり好きじゃねえんだよな、松井」

 よかれと思って本を贈った早川の期待と、そして物語中盤のやりとりを聞いていた観客とを裏切って玉田はそう口にするが、しかしそのじつ、それがけっして「思いも寄らぬ言葉」ではないことを、舞台を観ている者であれば知っている(もちろん私のこの文章による説明だけでは「思いも寄らぬ言葉」ということになるだろうが、それがそうではないのが結局この舞台なのであり、また柳沢茂樹という人の魅力である)
玉田が「あんまり好きじゃない」という「松井」とは何か。それはこのセリフと円環をなして響く冒頭のセリフ──「やっぱ松井すげえな」──から明らかであり、つまり、「やっぱすげえ」松井であるだろう。骨折という危機を乗り越えてふたたびグラウンドへと戻ってきた松井の「125日」にはいわゆる「克己」といったイメージが漂い、ぶれることのない目的へとむかってその日々を律していく強靱なる精神を思わせるに充分だが、それはむろん小西晶と早川との「125日」とはほど遠いものであって、また、他のどの登場人物とも異なる〈強さ〉のあり方である。だから「松井」は、物語を〈枠〉として縁取りつつも、あくまで「外部」として排除されることによって物語を成立させているのである。
とそこまで書いたところで、「はたしてそうだろうか」という疑念があらためて沸くのは、その本の贈り主、早川真純を想像してのことだ。セリフにあるとおり、自身の結婚生活の日数を「125日」と数えていた早川がその本を手にとったのは、むろん「125日」という数字の符合がそこにあったからにほかならないはずで、そこに自身のものとはまったく異なる「125日」があることを知った早川であってみれば、逆に、自身の「125日」を新たに意味づけ直す枠組みとして、その本の存在を受け入れたのではないかとも想像される。玉田が「松井ファン」であることをおそらく疑いもなく信じていただろう早川にしてみれば、玉田がすでにその本をもっている可能性が高いことにも当然思い至っていておかしくはないが、それでもなお、彼はそれを玉田に贈ったのであり、とすれば、本の内容そのものとは別のレベルにおいて込められた早川のメッセージをそこに読むことも可能だろう。そのメッセージとはいったい何なのか。「私たちの125日間もまた、結局のところ〈リハビリ〉だった──そう呼べるだけの、平坦ではないながらに幸福な、時間のなかにいまはいる」──あるいはそうしたメッセージでもあるのだろうか。たしかに、小西晶を取り戻すために外部からやってきて、そしてついにそれを果たして去っていく早川は、その愚鈍な〈強靱さ〉において「松井」を想起させなくもない。
けれど、前述のとおりで、その早川のメッセージが玉田(と小西晴子)に届くことはない。本とともに届いた早川からの長い手紙が、あまりにも長いために(晴子にも玉田にも)途中までしか読まれなかったのと同様、本に込められたメッセージもまた、(少なくとも劇の時間のなかでは)届かなかった。そう、これはそうした物語である。だからこそその物語を受け取った私は、かの書名が何であったのかを忘れ、劇場をあとにしたのだ。

ここでもう一度、物語の〈枠〉へと戻ろう。松井ではない。松井のもうひとつ外側にある、またべつの〈枠〉のことである。

「腹へった。ラーメン食べたい」

そろそろ、観ていない人にもなるべくわかるように書くという姿勢をあきらめつつ書かねばならないが(なにせ長くなりすぎたので)、「俺、あんまりすきじゃねえんだよな、松井」というセリフのあとで、玉田はさらに上のふたことをつぶやき、そしてそこで劇は終わる(じっさいには、そのあとにもう一瞬だけ、セリフのないワンシーンがあって芝居が終わるが、そのシーンの美しさを言語化することは不可能だ)
「腹へった。ラーメン食べたい」というこの言葉は、言うまでもなく劇の「はじめ」に、小西晴子によって読み上げられる彼女自身の日記の、その最後にあった言葉であり、ここでも、劇は円環の構造をみせている。「はじめ」から「終わり」まで、玉田の部屋が唯一の舞台となるこの劇においては当然のこととも言えるが、結局のところ、これは玉田と晴子のふたりの物語でもある。それぞれ互いの重要な情報を相手に話さず、直接の会話もそれほどないふたりは、しかし、互いに相手の日記を盗み読むということを通じて(あるいはそのことをひとつの象徴として)、互いの言葉を互いの身体に通わせている。「いい意味で」という便利なフレーズの使用を早川に勧めるのは晴子だが、しかし劇中で先に「いい意味で」を用いていたのは玉田だった(晶に対して)。松本詩子にむかって、母親が危篤であることを口にした玉田に、晴子は初耳だというふうに驚くが、けれど、それ以前にすでに玉田がモノローグとしてつぶやいていた内容が彼の日記であるとすれば、それを晴子は読んで知っていたはずでもある。突如として手の震えが止まらなくなるという身体的発作を共有してもいる玉田と晴子は、あるいはひとりの人物なのではないかというほどに融け合って見えるのであり、その〈行為/意識〉の上での距離とはべつに、〈言葉/無意識〉のレベルで、ふたりの距離はゼロに近い。
晴子がその日記を読み上げ、聞いていた玉田が聞き終わって拍手し、日記を絶賛して晴子にサインを求める──この「はじめ」のシーンがどことなく〈無意識〉のイメージに彩られているのは、それが物語時間のどことも地続きでないような、浮遊する時間感覚のなかにあるからだが、と同時に、それは〈夢〉のようでもあった。誰の夢かと問われれば当然こうなる──花を咲かせて玉田と眠る、小西晴子の夢だ、と。

いやー長いね、長いよ。もういいかなこのへんで。長いわりにあまりたいしたことを言っていないというのはお読みいただければわかるとおりで、観ていない人にもなるべく伝わるようにと書いたが、とはいえこれは舞台のほんの一側面であり、私の〈読み〉をもとにしてある限定された視点からそれを再構成したものにすぎないし、しかもテクスト読解的なことをやっておきながら私は戯曲をもっておらず、ただ二回観ただけの者なので不正確なところもある。
二回観たのは、あらかじめそのつもりだったわけではなくて、「もう一度観たい」と思ったからだが、それは上で展開したようなテクスト読解的な愉しみからというよりも、たんに役者の魅力にアテられたからだ。〈けっして気持ちのいい話ではない〉この物語が、けれど最終的にはどこか清々しい。ごくごく狭い劇場空間においてそれはより顕著なものとなったが、「もう一度観たい」というよりか、「もう一度居たい」と思ったのだ。それが役者の魅力でなくてなんだろうか。
役者を褒めるのにその語彙は何だよという話だけれど、たとえば「田中夢がかわいい」といったことは、おそらく重要なことなのだ。これまでになく田中夢はかわいかった。あと、「細江祐子ほんとかわいい」とかね、そういう言葉だけでこれからは劇を語ろうかとさえ思うほどだ。
二回観ておいて、さらには打ち上げにも顔を見せておいて何だが、気がつくと私、誰にも「よかった」とか「面白かった」とか、なにひとつ言っていないんじゃなかったか。打ち上げの席で笠木さんとは、「これからは〈グルーヴ〉ではなく〈グローブ〉、もしくは〈グループ〉だよ」といったよくわからない話しかしていないし。まああれだよ、「しみじみよかった」という感想を私がもっていることなどは、笠木さんにはぜったい内緒だ。恥ずかしくって言えるかよ。って、それをここに書いてしまったらだめじゃないかという指摘があるかもしれないが、こんだけ長ければさ、「長えな」と言って笠木さんはきっと読まないと思うのだ。

(2008年6月14日 11:55)

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