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Jul.
2008
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/ 9 Jul. 2008 (Wed.) 「ブリコラージュとしての『あきすとぜねこ』──チェリーブロッサムハイスクールによせて」

『アキストゼネコ』とはここにおいてまず、チェリーブロッサムハイスクールが予定する次回公演(2008.12.04 - 12.09@ウェストエンドスタジオ)の、その作品タイトルのことである。このタイトルがじっさいのところ作品内容とどのように切り結ぶことになるのか、それは主宰で演出の柴田(雄平)君自身が言うように現段階で(少なくとも作の小栗剛君以外には?)誰にもわからないのだけれど、ひとまずそれは、1960年代(あるいはそれ以前)から子供たちのあいだに連綿と受け継がれてきたひとつの恋占い遊びと同じ名前をもっていることになる。

「アキストゼネコ」とは、約25〜35年前の子供達(特に女の子)の中でブームを巻き起こした恋占いだそう。

ア 愛してる
キ 嫌い
ス 好き
ト 友達
ゼ 絶交
ネ 熱中
コ 恋人

占い方はまだ知らない。これから勉強しなくては。なんか「友達」ってのが一番切ないな…。
宇宙 日本 柴田: あの夏から、アキストゼネコへ。

 柴田君のこのブログの記述を読み、すっかり忘れていたその遊びのことを思い出して、ついつい占い方を調べてしまったことはこちらの記事[「あきすとぜねこ」と子どもの自由さ]に書いた。かなり丁寧に書いたので、遊びとしての「あきすとぜねこ」そのものについてはそちらを先に参照していただきたいが、ふと、この「あきすとぜねこ」という遊びのあり方を考えることによって、比喩的にであれ、チェリーブロッサムハイスクールのことを語れるのではないかと考えたのだった。
それはあまりにアクロバティックで、じっさい「とんちんかんなことを言う」結果に終わる可能性は大きいものの、その危険ももとより覚悟のうえで、まずは遊びとしての「あきすとぜねこ」の魅力に付き添ってみよう。
「あきすとぜねこ」が──というよりも、それを含む〈子供の遊び〉が──魅力的であるのは、なによりもまずそれがつぎはぎだらけであることに因るだろう。さまざまに証言のあるそのルールを見ればあきらかなように、「あきすとぜねこ」は他の多くの遊びとの連関のなかにあって、ヴァリアントのヴァリアントを辿っていけばいつしか別の遊びに姿を変えているといったように、無数にひろがる〈遊び〉の網の目のなかに浮かぶひとつの結節点として「あきすとぜねこ」はある。そもそもの発生を想像するに、おそらくその系譜のもとに位置しているのは花占いの、「好き、きらい、好き」という単純な二分法だったと思われ、そこに子供たちは「好き/きらい」以外のさまざまな要素を付け足し、いわば借り物の語彙でもって自由に「恋愛」を微分していったのではないかと思われる。
そこに動員される要素はあくまでいびつであり、また〈間に合わせ〉であって、いわば「何でもよかった」というその意味で、その子供たちの手つきは〈ブリコラージュ〉になっている。「恋愛」を微分するといっても、それはけっして「とても好き/好き/ふつう/きらい/とてもきらい」というような要素に、合理的・計画的に等分されることはない。「あきすとぜねこ」が〈ブリコラージュ〉であるとするならば、「とても好き/好き/」のほうは(これもレヴィ=ストロースの言葉にすれば)〈エンジニアの仕事〉になるだろう。前者で用いられる要素が「断片」であり「記号」だとすれば、後者が使うのは「部品」であり「概念」である。

 レヴィ=ストロースは、具体の科学としての神話的思考を「ブリコラージュ」にたとえている。ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されているが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。それらの材料や道具は、設計図にしたがって計画的に作られたものではなく、たいていは以前の仕事の残りものとか、そのうち何かの役に立つかもしれないと思って取って置いたものや、偶然に与えられたものなど、本来の目的や用途とは無関係に集められたものであるため、ブリコルール(ブリコラージュする人)は、それらの形や素材などのさまざまなレヴェルでの細かい差異を利用して、本来の目的や用途とは別の目的や用途のために流用することになる。
 (略)
 つまり、エンジニアが、全体的な計画としての設計図に即して考案された、機能や用途が一義的に決められている「部品」を用いるのに対して、ブリコルールは、もとの計画から引き剥がされて一義的に決められた機能を失い、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められた「断片」を、そのときどきの状況的な目的に応じて用いる。
 「断片」も「部品」も、全体のなかの部分であることに変わりがないが、部品は、たとえたまたま全体から離れていても、つねに帰属すべき場所をもち、その本来的な場所に組み込まれると、ジグソー・パズルのピースのように、それを囲む境界は消えてほとんど透明になってしまう。(略)
 ブリコラージュにおいては、ある材料を特定の用途に使用しても、その独自の感性的性質や来歴を隠さないため、その材料は、全体のなかでちぐはぐな異物として、その独自性や異質性を保持しつづける。たとえば、もとは樽の一部だったオーク材の木片は、長さの足りない板の埋め木にも使えるし、そうでなければ「まだなにかに使えるもの」として雑多なストックに付け加えられるだろう。それらの可能性は、「材料それぞれ独自の歴史によって、またそのもとの用途の名残りないしはその後の転用からくる変換によって限定されている」が、転用された木片は、もとは樽だったという独自の歴史を主張すると同時に、まだ別の用途にも使えることを主張しつづけるのである。
小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)、p.135-139

話ここにいたってようやく、この多少乱暴な「あきすとぜねこ」論がどこへ向かおうとしているのか理解された向きもあるかもしれず、そう、つまり私が舞台に期待するものもまた、究極的にはそうした〈ブリコラージュ〉であるわけだが、その話の前にもう少しだけ、「あきすとぜねこ」につき合うことにしよう。
「とても好き/好き/」のほうから要素のひとつが抜け、たとえば「とても好き/??/ふつう/きらい/とてもきらい」という体系があったとき、そこに収まるものは基本的に「好き」以外にはない。それに対し、「あきすとぜねこ」の場合、要素の代替となるのはおそらく「う=運命」でも「は=ハート」でもかまわなかったはずだし、ことによったら「げ=ゲロ」でもよかったのかもしれないと思わせるほどに、それは「何でもよかった」。そして、そうして用いられる要素/断片/記号は、「何(誰)でもよかった」というまさにそのことによって、逆説的ながら、「個の代替不可能性」を帯びることになる。

個のかけがえのなさ=代替不可能性は、個の役割や個性や能力といった比較可能で代替可能な属性(たとえナンバーワンでも、例えば「世界一のパティシエ」という役割や能力ももちろん代替可能なものです)とは無関係に(かつそれらの属性をもすべて含めて)、存在することそのものを肯定することです。
戦略的本質主義を乗り越えるには(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

 たとえば「芝居がうまい」という属性/役割/機能でもってその舞台に起用されている役者があるとすれば、しかしその役者はけっして、その「うまさ」でもって他の役者と代替不可能なのではなく、その意味では他の「うまい役者」でも代替が可能な存在ということになる。そして、まさにその「根源的な代替可能性」(=誰でもよかった/私が彼であったかもしれなかった)という事実のうえにこそ、「にもかかわらず彼(/私)だった」という「個の代替不可能性」は生じるのである。
むろん、チェリーブロッサムハイスクールの舞台がブリコラージュのみで成り立っているというわけではない(言い添えておけば、そもそもすべてのことがらにおいて、「ブリコラージュのみで成り立つ」ことも、「エンジニアの仕事のみで成り立つ」こともきっとありえないだろう)。むしろ、エンターテイメント性の強い〈謎〉を設定し、そこへ向かうプロットの推進力で動いていく印象の強いその舞台においては、設計図がきっちりと用意された、エンジニアの仕事のほうが想起されやすいかもしれない。けれど、そうした舞台にあっても、ブリコラージュが姿をあらわす瞬間はあり、その瞬間にこそ、「個の代替不可能性」もまた顔(まさに「顔」!)をみせるにちがいないと私には思われる。

ところで、チェリーブロッサムハイスクールの作品には、つねに〈子供〉が抱え込まれている。〈子供〉はつねに重要なキーワードとなっていて、いわば、登場人物たちはみな〈子供〉だとも言える。もちろん本物の子供が登場するわけではなく(ためしに、その舞台に本物の子供が登場することを想像してみれば、その子らは登場人物たちと親和性をもつどころか、おそらく完全な他者としてそこに存在することになるだろう)、そこにいるのは大人なのだが、彼/彼女らはあくまで〈大人 − 子供〉という対比関係のなかにいて、失われたものとしての〈子供/記憶〉を抱え、それによって逆照射される者たちである。よく言われるように、〈子供〉が近代において「発見」されたものだとすれば(近代以前には、いわば「小さな大人」しか存在しなかった)、その意味でもチェリーブロッサムハイスクールは近代的であると言えるだろう[※1]
『その夏、13月』において、〈大人 − 子供〉といういわば擬似的な対比関係における〈大人〉を担うのは、岩崎(正寛)さん演じる「近藤」である。劇中、月に一回開かれる作品プレゼンテーションの場が「ピクニック」と称されるのは、そこにおいて近藤が擬似的な〈父〉になるためでもあるだろう[※2]。しかし、その近藤もまた、じつは「アートディレクター」にすぎず、〈子〉たる他のアーティストと同様の存在──作品を欲望する者──であることは、最後にあきらかにされるとおりである(構造は入れ子になっていて、近藤は〈子〉たるアーティストたちによって逆照射される者である)

※1:「〈子供〉が近代において「発見」された」

フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(みすず書房)。これを批判したものにはL. A. ポロク『忘れられた子どもたち1500〜1900年の親子関係』(勁草書房)など。

※2:「擬似的な〈父〉」

付言すれば、そこには〈母〉の不在も見て取れる。女性参加者には明確な「脱落」事由として妊娠が規定されているが、つまりアパート内では母になることが許されていない。

舞台上には大人も子供もおらず、ただ、〈大人 − 子供〉という仮構された関係のなかを生きる者らがいる。不幸でありながらも安定したその世界に危機をもたらす者がいるとすれば、その者は〈子供そのもの〉か、あるいは〈大人そのもの〉として現れるだろう。『その夏、13月』における〈子供そのもの〉──それがつまり、柴田君の演じたパントマイマー、「高橋」である。帰国子女で日本語をあまり話せない高橋は、「何もやっていないというパントマイム」を行うことで近藤の逆鱗に触れ、プロジェクトから「脱落」、アパートを放逐される。

高橋
近藤はアートをわかってない。
サカモト
呼び捨てはあかんて。
高橋
パントマイムは。無いものをあるように見せるのではなく、そこに無いということを忘れます。
近藤
意味が分からない。
高橋
object対象物に対する記憶を、無くす。無くします?
サカモト
ゆっくりでええよ。
高橋
僕はうごかないけど、うごかないけど
 言葉の拙さとは裏腹に、しごくまっとうなパントマイム論であるところの高橋の発言は、近藤がディレクションするこのアートプロジェクトそのものが「無いもの」(「13月」!)であるということを指摘してしまう。近藤が激怒したのは「呼び捨て」にされたからでも、高橋の「どれほど〜」発言によるのでもなく、まさにその指摘によってであり、〈大人 − 子供〉の擬似関係からなるこのプロジェクトの擬似性を、〈子供そのもの〉たる高橋が暴露してしまうからにほかならないだろう。
(2008年7月 9日 23:13)

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