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Jul.
2008
Yellow

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/ 13 Jul. 2008 (Sun.) 「『五人姉妹』を観た」

ミクニヤナイハラプロジェクトvol.4『五人姉妹』(準備公演)チラシ。

報告するほどのことでもないが、探していると前回書いた漫画『セクシーボイス アンド ロボ』はその後無事見つかった。カゴに無造作に突っ込まれて、そのカゴが押し入れのなかにあった。また別のものを探していて見つけた。
さて──

12日の夜に、ミクニヤナイハラプロジェクトvol.4『五人姉妹』(準備公演)を観た。もし仮に私が五人のうちの誰かと付き合っていたとすれば、その枕元で「よかった」と囁けばいいのだけれど、そうではないから、またこうして言葉で迂回しつつその感動を語らなければならない。
すごくひさしぶりに思い出したのは、「すべての芸術は音楽に嫉妬する」という言葉で、この言葉自体はニーチェが自身の文脈のなかで(意味的にも)アレンジをほどこしつつ述べたものらしいが、そのもとは、ウォルター・ペイターによる次のような言葉である。

すべての芸術はたえず音楽の状態に憧れる。それというのも、他のすべての芸術は内容と形式を区別することが可能で、悟性はつねにこれを区別できるのだが、それをなくしてしまうことが芸術の絶えざる努力目標となっているからである。
……芸術は、つねに、単なる知性の働きから独立して、純粋に知覚の対象と化し、その主題や素材にたいして責任を追うことを逃れようとする。詩とか絵画の理想的な作品の場合、構成要素が非常に緊密に結びついていて、題材や主題が知性だけに訴えることはない。
ウォルター・ペイター『ルネサンス』。なおこの訳文は、河村錠一朗「境界の言語としての絵画:講義メモから」(PDF)にあったものを拝借した。

 ペイターがここで言わんとしていることはじつは(深遠ながらも)単純で、つまり、なぜすべての芸術が「音楽の状態に憧れる」のかといえば、それは(やや荒っぽい言い換えになるが)、音楽には意味がないから、である。
もちろん、ここでいう「意味がない」は「有用でない」とかそういうことではなく、「言語」を介することで表現に不可避的に付いて回る、「内容」としての「意味」のことを言っている──えーとだから、はじめからこう言い換えればよかったのかもしれないが、音楽という形式が他の芸術形式から嫉妬されるのは、つまりそれが言語を介さないからである。
言語という体系に依存せざるをえない文学は、どうあがいても(それがいかに高度な表現に達して、かつその体系の〈裏をかこう〉とするものであっても)、言語がもつ「意味」(たとえばわかりやすいケースを考えて、その「辞書的な意味」)から逃れることができない。また、ひとまず文学と音楽との中間に位置付けることができそうな絵画(やその他の芸術)においては、少なくともそれが具象を扱うかぎりにおいて、そこに描かれる具体的な「題材」が逃れがたく言語によって回収され、「意味」をもたされてしまうということがある。あるいは「歌詞」というものを考えてもいいが、つまりそこには原理的に、〈悲しい〉という内容に対応する言葉や、〈楽しい〉という内容に対応する言葉が存在しうる。けれども音楽には、これまた原理的に、〈悲しい〉という内容に対応する音も、〈楽しい〉という内容に対応する音も存在しえないのであって(その意味で、じつに単純な話「音楽には意味がない」のであって)、ペイター曰く、その状態にすべての芸術は憧れるのである。
ダンスが音楽と親和性が高いことは言うまでもないが、ここまでの話とからめて言えばそれは、ダンスもまた、「意味がない」という音楽的状態にかぎりなく近い表現形式だということが関係しているだろう。むろん世の中には「アテ振り」というものがあり、それは単純に「意味」を志向するダンスだと言えるだろうが、少なくとも、たとえば、

その人の持つ個性を無理矢理ダンスにしてゆくという昔やっていた方法
矢内原美邦の毎日が万歳ブログ » Blog Archive » チケット完売しましたが

(矢内原)美邦さんがいうような手法においては、(そこでは逆に「意味の残滓」のようなものから出発しつつも、それを「過剰な残滓」に仕立てることによって)意味からもっとも遠いところへ、あるいは意味を突き抜けて〈向こう〉へ、ひたすら疾駆しようとする意志を読み取ることができるだろう。
であるとすればなおさら、なぜ、美邦さんはいまここでふたたび〈意味 − 言葉〉と出会おうとするのか──目の前を、ただもう「表現」と呼ぶしかないものが駆け抜けたそのあとで、言葉の側はやっと、そのいまさらな問いを立てることができるのみだけれど、ただ、

誰でもつかえる言葉を使って表現しようとすることの難しさに直面しながらも、言葉というものを使いながら表現をさがしている役者たちに助けてもらいながら準備公演までたどりつくことができました。

と当日パンフに書かれる美邦さんの言葉はやはり、そうした文脈のなかで受け取ることが可能だろう。
むろん、それが単純な「意味への回帰」となりえないことは舞台上の成果が示すとおりだし、またそのことはあらかじめ、チラシの上に予告されてもいた。

人は生きているから習慣を習得できる。生きてゆこう、
白い記憶のなかで、赤いスリッパをはいて、
故郷がどこにあるのかもわからないけど、
確かに故郷を思って『ララララ♪』と五人姉妹で歌うよ。

 「故郷がどこにあるのかもわからない」彼女らにはもとより回帰する場所などないのであり、また、彼女らは「確かに故郷を思」い、いまやそれを見据えることができるが、だからってそこに帰るわけじゃない。うっかりでも「意味」のやつが来たら、そう、跳び蹴りでも食らわせてやればいい。
意識の空白(長女)、身体の空白(次女)、記憶の空白(三女)、内面の空白(四女)、愛の空白(五女)。「白」いはずが、「黒」い五人。窓の外にひろがるだろう意味の豊穣のこちら側で、黒い五人は息ではなく言葉と観客とを吸い尽くした。とびきりキュートなそんな五人に、むろん意味はないのだ。
ああ、言葉よ。

13日、うまいコーヒーを飲みながら、探し当てた『セクシーボイス アンド ロボ』を読み返す。

知らない人たち。

悲しかったり寂しかったり、
嬉しさをわかちあいたかったり、
言いたくて言葉にならないことを思ってたり。

いろんな誰かと言葉を交わして、
私の言葉で誰かが私を好きになったら、

本当に、
生きててよかったと思うよ。

私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような
そういうことなんだ。
黒田硫黄『セクシーボイス アンド ロボ 2』、voice10「一夜で豪遊」

本日の参照画像
(2008年7月15日 12:54)

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