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Jul.
2008
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/ 16 Jul. 2008 (Wed.) 「妻は五行飛ばしで読んでいる」

日々〈素振り〉[※1]をくりかえすことはやっぱり大事なのだとあらためて思う。『125日間彷徨』や、『その夏、13月』の感想をあんなにいっしょうけんめい書いていなかったら、きっと『五人姉妹』の観劇体験は言葉にできていなかったろう。その意味で(内容の妥当性や程度の高い低いはおくとして)、まあ、よく書いたんじゃないかとわれながら好調さを思わなくもないけれど、そう思っているのは私だけかもしれず、というかきっと私だけだが、そもそも、ああした調子でがんがん書くことによりかえって読者を減らしてるんじゃないのかと危惧するのは、だって、ブログっぽくないと思うんだよ、どう考えてもあの量と文体は。
読まれているとは思えないのだ。たとえばここにひとり、一般的(かつ、どちらかといって良心的)な読者サンプルとしてみなすことができそうな者としての妻がいるわけだが、その妻は、「『あ、またむずかしい話だな』と思ったら、五行ぐらいずつ飛ばして読んでいる」ときっぱり言い放つ。
もっとこう、語彙をなんとかしないとしないとだめだろうか。あと、一文はもっと短くなければだめか。この調子でいけばおそらく、そのうち何食わぬ顔で「シニフィアン」だの「シニフィエ」だの言い出すにきまっているよ私は。いきなりそんな言葉を使って、みんなにつうじると思ったら大間違いである。
シニフィアンとシニフィエは言語学の用語で、「記号表現」と訳されるのがシニフィアンだ。「犬」を例にとれば、「犬」という文字や、発話したときの「いぬ」という音などがシニフィアンにあたる。で、シニフィアンの複数形がシニフィエ(「記号表現たち」)[※2]

※1:「〈素振り〉」

無償で公開される自身のウェブ日記を〈素振り〉にたとえたのは宮沢章夫さんで、そこでいう〈素振り〉は、つまり〈試合での打席〉(=お金をとって書く原稿)との関係でもってそう呼ばれるわけだから、基本的にここしか書く場所のない私が、これを〈素振り〉と呼ぶのはおかしいのだけれど。

※2:「シニフィアンの複数形がシニフィエ」

嘘。

いや、註で「嘘」というのもどうかと思うけれど、「記号表現」のシニフィアンに対し、シニフィエは「記号内容」と訳されるものだ。「犬」という文字や「いぬ」という音によって表されるところの意味内容、そのイメージや概念のことを指す。ただし、シニフィエは指示対象そのものとは異なり、そばにいるじっさいの犬を指差して「犬だ」と言うときでも、そこにいる「犬そのもの」がシニフィエなのではない。これは、「勇気」や「友情」といった、具体的な指示対象をもたない言葉がじゅうぶん成立することを考えればわかりやすいだろう。で、この「記号表現(シニフィアン)」と「記号内容(シニフィエ)」のセットとして、「記号(シーニュ)」は存在している(と、ソシュール以降の言語学は考えるのであり、私はただ <ruby> タグが使ってみたかった)
シニフィアンとシニフィエの関係において重要なことは、その結びつきが本来恣意的なものであること(つきつめて考えれば、犬が「犬」と呼ばれることに必然性はない)、にもかかわらず、言語体系のなかでは両者の結びつきが必然化されていて、いわば両者は「一挙に与えられる」ということである(シニフィアンとシニフィエは「紙の両面」のようなもので、両者を切り離すことはできないとソシュールは強調する)。さらに言えば言語体系そのものが「一挙に与えられる」(つきつめていくとそう考えるよりほかにない)ものであるわけだが、いやー、だんだんむずかしくなってきたねえ。というか今回、なぜシニフィアンとシニフィエの説明をしているのかそれがわからないわけだが、まあ、過ぎたことはしかたがないさ。ここまできたら勢いにまかせ、「浮遊するシニフィアン」(つまり対応するシニフィエをもたないシニフィアンのことで、ここまで述べた言語学的な理解から行くとたんなる語義矛盾となり、存在しないはずのものである)の話にまで一気にもっていきたいところだが、さすがにその時間はないし、だから、何の話だよ今日はいったい。

(2008年7月18日 14:57)

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