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Jul.
2008
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/ 25 Jul. 2008 (Fri.) 「B作と由吉」

三十二年生きてきて──いや、多少差し引いたとして、たとえば「欽ちゃんの週刊欽曜日」は一九八二年(~八五年)だから、じつに二十六年ものあいだ──、「佐藤B作」というその名前に一度も怪しんだことがなかったということだろうか。少し立ち止まってみればすぐにそれと知れる程度のもじりだというのに、今日、普段よりも早い帰りの中央線に乗り込んでほどなく、ふと、二十六年の時を跨いでやっとのこと、そうだと気づいたのだった。小悟は大悟に通ずとばかりに、何もかも得心がいくような晴れ晴れとした顔のようになり、誇らしげな気分も手伝って妻に、「佐藤B作ってそういうことだったんだ」とメールすれば、受けた妻は何のことだかわからないとそのまま押し戻すから、「佐藤栄作のもじりだってこと。いま気づいたよ」と訳を割ると、「私は数年前に気づいていたよ。誰にも言わなかったけど」と返ってきた。なんだよ、言ってくれたらいいのにと私は携帯を閉じ、途中下車の新宿の街を歩いた。
といった話題は、もっとブログにふさわしい、軽やかな(?)文体で書けばいいのではないかと思うものの、致し方ないよ、「新潮」八月号掲載の古井由吉「朝の虹」(連作短篇・三)を読んでしまったあとではついついこうなる。「朝の虹」、ものすごく面白い。途中まで、こんなに面白いとは気づかず読んでいた。読み終わってまた冒頭に戻ればなおすごい。で、連作一回目の「やすみしほどを」(「新潮」四月号)を読み返すとやっぱり面白い。「やすみしほどを」は、ちょっと、この人いよいよ死ぬのではないかという感慨がときおり差して、しかし、いよいよはじまるのだという晴れ晴れとした白さが期待感のみを残す。「まもなく窓が白みはじめる」という連作一回目の結びには、ちょっと泣かされるほどのうれしさがあるよ。

(2008年7月26日 17:21)

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/ 24 Jul. 2008 (Thu.) 「カルテルテ」

20日は、田中夢の家へ。私のMacBookを持っていき、USBモデムでネットにつないだそれから、Yahoo! BB(ADSL 8Mと電話加入権のセット)を申し込んだ。開通するのは八月下旬の見込み。マシンは当分、私のPowerBook G4を貸すのだが、それもこの日持っていって渡し、ざっとした使い方の説明をする。八月中は実家に帰っているという田中夢だが、実家は実家でネット環境も整っているだろうから、持っていって一ヶ月もいじっていれば、おおまかなところは慣れもするだろう。
入院中の宮沢(章夫)さんを二度目に見舞ったのはその翌日のことだ。田中夢や、『ニュータウン入口』に出ていた時田(光洋)さん、鎮西(猛)さんなど大勢で見舞う。きのう今日、その宮沢さんがたてつづけに「富士日記 2.1」を更新し、それは待ちこがれていた事態ではあるものの、いざ更新されたらされたで、「安静にしていたらどうなんだ」とこちらは勝手なことを思う。

カーテーテルの検査次第だな。深刻な病気でないことを祈る。とにかく退院したい。カーテテルの検査が怖い。なにしろ心臓までカテーテルが来るって、それ考ええられないような状況だ。いやだいやだ。
「富士日記 2.1」 2008年6月24日付

 ところで、この短いブロックのなかで三度も登場する「カテーテル」という言葉が、三度とも異なって書かれていることは非常に興味深い(カーテーテル、カーテテル、カテーテル)。ひょっとしたらたんなる打ち間違いかもしれず、こんなところに書いてないでメールで指摘すべきだろうかとも思うものの、その一方で、「わざと」なのではないかという強い疑いを消すことができないのは、これが宮沢さんによるカテテールへの抵抗/対抗であるようにも読めるからだ。
いずれカルーテルは「心臓まで来る」のだから詮ない抵抗ではあるものの、それがモノとしてのはっきりした像を結ぶ手前で、そのつどカテッテルは巧妙に名前をずらされ、その言葉の振幅のなかで次第に輪郭がうすれて、やがてなんだかわからないものになる。まじめにカテルテルのことを考えるのがばかばかしくなるほどに、カルテルテはことごとく名前を誤記されるのであり、そこにこそ、おそらく宮沢さんの「戦略」はあるにちがいないが、とはいえ、この言葉による日々の抵抗がいつしか現実の側をまきこみはじめたときのことを夢想すれば、それはちょっとした悪夢であるかもしれない。やがて訪れた検査の日、気づけば担当医が手にしているのは思い描いていたのとまったく異なる何かであり、そして、担当医は少し思い出すような仕種をしてから言うのだった。「では、いまからこのカテルエールを」。

(2008年7月24日 23:05)

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/ 18 Jul. 2008 (Fri.) 「なぜかセーラー服の話」

セーラー服を着た、エドワード皇太子(1846年)。「子供服としては、一八四六年夏に、当時五歳の皇太子(後のエドワード七世)が王室所有のクルーザー、ヴィクトリア・アンド・アルバート号でアイルランドを訪問した際、同号のクルーの制服を模したセーラー服を着たことが最初の着用例と言われている」(p.184)。

夏である。だからなのかわからないが、「競泳水着」で検索し、やってくる人が激増中である。むろんひっかかるのはこのページ [Red | 心霊写真 | おっぱい!!]だ。まったく申し訳ないよ。

三坂(知絵子)さんが女子高生の恰好をして、宮沢(章夫)さんの見舞いに現れたという話は笑ったなあ[aplacetodie/ツイノスミカ » お見舞い/女子高生]。笑ったというか何というか。
それでというわけではないが、坂井妙子『アリスの服が着たいヴィクトリア朝児童文学と子供服の誕生』(頸草書房)を買い、その「第五章 セーラー服」を読んで「あ、そうか」といまさら思うのは、女子高生のそれへとつづく子供服としてのセーラー服が、その誕生時においてそもそも「コスプレ」だったということである(どうでもいいことながらちなみに、いせ(ゆみこ)さんのほうのブログを見るかぎり三坂さんの着てきた制服はセーラー服ではなかったようだ)
十九世紀後半、国際情勢が変化してその優位が急激に失われるなか、イギリス国内では海事への関心が高まった。それまで伝統的に「使い捨て同然の労働力」として存在し、劣悪なその就業環境(懲罰としてのむち打ちが存在した)もあって実質浮浪者とならず者の集まりでしかなかった「水兵」(海曹以下、見習い水兵までをひとまとめに指し、海軍のなかでもっとも低い階層である)の質と量の改善は急務となり、彼らが海軍によって大切に扱われるようになるなかで水兵の制服も規定された(1857年)が、子供服としてのセーラー服の流行において、まず直接的に関係したのは「海岸でのリゾートの発達」だったと同書は説明する。

一八六〇年代までには、多くの人々が海岸へ出かけるようになった。家族連れもビーチを訪れ、子供たちは膝まで水に浸ったり、砂浜を駆け回ったのである。当然、そのような活動に適した服が必要になった。セーラー服は、この新たな需要を満たす子供服として人気を集めたのである。(略)近代的な子供の遊び着の必須条件であろう、値段が安いこと、洗濯ができるために衛生的であること、直線縫いのために家庭でも簡単に制作できることに加え、少しの手間で、最新流行の装いにすることができたために、セーラー服は夏のリゾート着として定着したのである。
坂井妙子『アリスの服が着たいヴィクトリア朝児童文学と子供服の誕生』(頸草書房)、p.186

 やがてそれは「季節を問わず、T・P・Oを選ばない」「ジェンダーさえ超えた万能子供服」として市場に投入されるが(もちろん先に男児用として用いられ、加えて女児用、幼児用が開発された)、商品としてのそれに加えられた要素が「本物らしさへのこだわり」である。

 ユニセックスな子供服というだけで、当時としては画期的だったが、一八七〇年代末以降、洋品店は英国海軍の水兵の制服を真似たセーラー服を展開し、イデオロギー戦略に打って出た。
同、p.190

 本物志向はますます顕著になった。海軍式のハンカチーフの結び方を伝授する記事や、少年用セーラー服についての細かなアドバイスがファッション誌を賑わせたのは、このことの現れである。「私は『アワー・ボーイ』社でセーラー服をあつらえ、シャツは海軍の洋品店で購入することをお勧めします。中途半端な海軍の真似ほど、まずいものはありません。しばしば間違ったスタイルであるし、生地も違っています。」などである。
同、p.192 - 193

 で、「パクス・ブリタニカ」再現の夢もむなしく衰退の一途をたどる大英帝国のなかで、しかしそれゆえにこそ過去の栄光や、「大英帝国を守る小さな水兵」というイデオロギーを扱う表象が多く生産されていったことを本書はつぶさに見ていくのだが、なかでも笑っちゃったのはこれだなあ。引用ばっかりであれだけど、これは同書に紹介される、W・M・ロウ社のセールスカタログ兼、セーラー服の歴史を書いた出版物『セーラー服物語』(1900年ごろ)の一節である。

ユニフォームには様々な色とスタイルがありますが、世界中で知られ、存在を認められ、尊敬され、賞賛されるのはただ一つです。海岸沿いのアフリカの部族はそれを知っており、日本の沿岸でも中国の海でも、太平洋の島々でも、それはよくある光景です。ヨーロッパとアメリカでは、その着用者が心から歓迎されない港は一つもありません。それは英国海軍の青いセーラー服で、着ているのはわれらの「陽気な水兵」です。

 このあとつづけて、

イギリスの少年少女たちがこの着心地よく、魅力的なユニフォームに身を包んで、誇らしく思うのはもっともです。このユニフォームは、我が国の栄光と誇りの典型なのですから。

とあるのを読めばかえってもう哀しくさえあるんだけど、でも、「われらの『陽気な水兵』です」はないじゃないか。そりゃ陰気にされてもこまるだろうけど、べつに陽気だとことわる必要もないのではないか。

俺、詰め襟着ていこうかなあ。

本日の参照画像
(2008年7月19日 15:53)

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/ 16 Jul. 2008 (Wed.) 「妻は五行飛ばしで読んでいる」

日々〈素振り〉[※1]をくりかえすことはやっぱり大事なのだとあらためて思う。『125日間彷徨』や、『その夏、13月』の感想をあんなにいっしょうけんめい書いていなかったら、きっと『五人姉妹』の観劇体験は言葉にできていなかったろう。その意味で(内容の妥当性や程度の高い低いはおくとして)、まあ、よく書いたんじゃないかとわれながら好調さを思わなくもないけれど、そう思っているのは私だけかもしれず、というかきっと私だけだが、そもそも、ああした調子でがんがん書くことによりかえって読者を減らしてるんじゃないのかと危惧するのは、だって、ブログっぽくないと思うんだよ、どう考えてもあの量と文体は。
読まれているとは思えないのだ。たとえばここにひとり、一般的(かつ、どちらかといって良心的)な読者サンプルとしてみなすことができそうな者としての妻がいるわけだが、その妻は、「『あ、またむずかしい話だな』と思ったら、五行ぐらいずつ飛ばして読んでいる」ときっぱり言い放つ。
もっとこう、語彙をなんとかしないとしないとだめだろうか。あと、一文はもっと短くなければだめか。この調子でいけばおそらく、そのうち何食わぬ顔で「シニフィアン」だの「シニフィエ」だの言い出すにきまっているよ私は。いきなりそんな言葉を使って、みんなにつうじると思ったら大間違いである。
シニフィアンとシニフィエは言語学の用語で、「記号表現」と訳されるのがシニフィアンだ。「犬」を例にとれば、「犬」という文字や、発話したときの「いぬ」という音などがシニフィアンにあたる。で、シニフィアンの複数形がシニフィエ(「記号表現たち」)[※2]

※1:「〈素振り〉」

無償で公開される自身のウェブ日記を〈素振り〉にたとえたのは宮沢章夫さんで、そこでいう〈素振り〉は、つまり〈試合での打席〉(=お金をとって書く原稿)との関係でもってそう呼ばれるわけだから、基本的にここしか書く場所のない私が、これを〈素振り〉と呼ぶのはおかしいのだけれど。

※2:「シニフィアンの複数形がシニフィエ」

嘘。

いや、註で「嘘」というのもどうかと思うけれど、「記号表現」のシニフィアンに対し、シニフィエは「記号内容」と訳されるものだ。「犬」という文字や「いぬ」という音によって表されるところの意味内容、そのイメージや概念のことを指す。ただし、シニフィエは指示対象そのものとは異なり、そばにいるじっさいの犬を指差して「犬だ」と言うときでも、そこにいる「犬そのもの」がシニフィエなのではない。これは、「勇気」や「友情」といった、具体的な指示対象をもたない言葉がじゅうぶん成立することを考えればわかりやすいだろう。で、この「記号表現(シニフィアン)」と「記号内容(シニフィエ)」のセットとして、「記号(シーニュ)」は存在している(と、ソシュール以降の言語学は考えるのであり、私はただ <ruby> タグが使ってみたかった)
シニフィアンとシニフィエの関係において重要なことは、その結びつきが本来恣意的なものであること(つきつめて考えれば、犬が「犬」と呼ばれることに必然性はない)、にもかかわらず、言語体系のなかでは両者の結びつきが必然化されていて、いわば両者は「一挙に与えられる」ということである(シニフィアンとシニフィエは「紙の両面」のようなもので、両者を切り離すことはできないとソシュールは強調する)。さらに言えば言語体系そのものが「一挙に与えられる」(つきつめていくとそう考えるよりほかにない)ものであるわけだが、いやー、だんだんむずかしくなってきたねえ。というか今回、なぜシニフィアンとシニフィエの説明をしているのかそれがわからないわけだが、まあ、過ぎたことはしかたがないさ。ここまできたら勢いにまかせ、「浮遊するシニフィアン」(つまり対応するシニフィエをもたないシニフィアンのことで、ここまで述べた言語学的な理解から行くとたんなる語義矛盾となり、存在しないはずのものである)の話にまで一気にもっていきたいところだが、さすがにその時間はないし、だから、何の話だよ今日はいったい。

(2008年7月18日 14:57)

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