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Apr.
2009
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/ 20 Apr. 2009 (Mon.) 「いけない女になりそうです。まる。」

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『シャーリーの好色人生と転落人生』のことはもういいよと思われるかもしれないが、まあいいじゃないかもう少しぐらい。わたしだって、たまには『セーラー服と機関銃』のことも書いてみたいけれど、しかしいまはぐっとこらえて、『シャーリーの好色人生と転落人生』である。
きのうの日記に、

ところで、今作では土地の固有名を出さないようにしたという冨永監督だが、『好色人生』のほう、パパさんと中内とが働く工場の施設にはっきりと「茨城」の文字があるのは、あれはどうなのか。

と書いたのはほかならぬわたしだが、この問いには自分で解を与えてみることにしよう。つまりこれ、考えてみれば〈程度の問題〉じゃないかと思うのだ。文字ででかでかと映る「茨城」はたしかに直接的だが、しかしそこまでいかずとも、ほぼ土地の名に等しいと言えるような何かは映画のそこかしこに刻まれていて当然なわけで、たとえばある人にとっては、『転落人生』のなかに映るフェリーの名「みしお」こそがよく知ったあの「みしお」として目に飛び込むのかもしれない。と考えるならば、そうした固有名を映像が抱え込んでしまうことはこの場合自明の前提でしかなく、より問題にすべきは、そうして抱え込まれた固有名さえも攪乱し、最終的には消し去りかねない、作品としての〈どこでもなさ〉のほうだと言えるだろう。
もちろん、その〈どこでもなさ〉を支えているひとつが「架空の方言」という手法であることはまちがいないが、肝心なのはその架空の方言が、フィクションとしてきれいに閉じられた体系を与えられていず、出来の悪い、不統一なかたちのまま話されていることである。全国各地の方言をサンプリングしたものであるという言葉そのものの出自もあるけれど、と同時に、けっきょくのところ俳優たちそれぞれが、自身のよく知る方言のイントネーションにそれを乗せてしゃべっているということがあって、だから単純な話、そこには何とも居心地がわるいほどに複数の方言が存在している。『転落人生』の後半で、自身は標準語を話す岡島リエがシャーリーの方言を真似てみせるとき、それは土地への同化としてではなく、まずもってシャーリーその人への同化として、ひどく性的で魅力的な響きを放つことになるのだが、それはこの〈方言の複数性〉と無関係ではないだろう。
〈方言の複数性〉のただなかでコミュニケートする者たちはまた、どこか〈流民〉のようでもある。〈中内の姉が嫁いだ先〉の土地を舞台にする『好色人生』ではむろんのことながら、シャーリーの故郷を舞台とし、いわゆる〈よそ者〉は岡島リエひとり(と、高見)だけであるはずの『転落人生』においてさえ、登場人物たちはみなひとしく〈流民〉であるかのようである。シャーリーの妻・波子が、東京で会った幼なじみ・小下田守に対して「帰って来ねいか」と言うとき、しかし〈流民〉のひとりである彼女の〈帰る場所〉もまた特定の土地ではないはずで、だから、「帰ろう」という彼女のその提案は直後に、〈その場〉で、成就してしまうことにもなるのである。

というわけで『シャーリー』読解はまだもう少しつづく。映画はいよいよ24日まで。わたしはおそらくその最終日に三回目を観ると思う。

(2009年4月22日 02:25)

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