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Apr.
2009
Yellow

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/ 24 Apr. 2009 (Fri.) 「シャーリー三回目、上映最終日」

なぜこの少女は小首をかしげているのか。詳細は拡大写真(クリック)で。

『シャーリーの好色人生と転落人生』三回目は池袋シネマ・ロサでの上映最終日。20人ほどの立ち見が出る盛況。最後列のいちばん端で(でも座って)観る。
まあその『シャーリー』読解とか言ってなんだかんだ書いてましたけど、ぜんぜんですねわたし。ぜんぜん読み解けてない。というかやっぱり、観れば作品は圧倒的なわけです。たまさかわたしの書いたものを「前知識」として仕込んで劇場に行かれた方が万が一にもあったとしたら、いやあちょっとそれ申し訳ないなあとか思いつつ観てましたよ。わたしだってたとえば今野(裕一郎)君のように、

出ている役者さんの方言がむちゃくちゃだけど、映画はそんなことでは揺るぎもしない。
バストリオ、書く! シネマロサ

といった潔い、すぱっとした感想が書けたらなあと思いますけどね、思うんですけど、そういった何を書いても「揺るぎない」作品を前にしては、そこんところに安心しつついろいろ書いてみたくなるわけですよ、いわば。
最終日のアフタートークはゲストに菊地成孔さんを迎え、「中内」役の杉山彦々さん、佐藤監督、冨永監督が登壇。公式ブログ等でも何度か語っていたとおり、冨永監督の思惑としては今夜、いわゆる「痴漢/痴女問題」[※1]に一定の決着を付けるつもりだったわけだが、予期せず、その問題が菊地さんによってまんまと反転させられることになる。

※1:「痴漢/痴女問題」

映画の登場人物はすべからく痴漢/痴女であるべきではないか、という冨永監督の提言をめぐる問題。上映期間中のトークイベント内で何度か話題にされた。ここでやや極端に「痴漢/痴女」と呼ばれているのは、「欲望を行動に直結させる、スピード感をともなった人物」のことで、そうした人物を多く配した映画はおのずとスピード感を生み、90分という黄金の時間枠に物語を収められるのだと冨永監督は述べる。

そういう欲望のスピード感をかつての撮影所時代の映画は持っていたわけで(2本立てを前提にジャンル映画が量産されていた時代)、撮影所の崩壊以降の現代映画はスピード感を喪失し、欲望それ自体よりも、むしろそれらを取り巻く状況と風景をとらえることに拘泥しすぎなのではないかと。『シャーリーの好色人生と転落人生』 Official Blog : 248!

 冨永監督が述べるところの問題意識それ自体にはおおむね賛意を示しつつ菊地さんは、「でも、単純な感想として、主人公=シャーリーに〈欲望のスピード感〉を感じるのはそれこそプログラムピクチャー然とした『好色人生』のほうであって、『転落人生』のシャーリーにはそれを感じないけど?」と応答して冨永監督の出鼻をくじく。また、「冨永映画において、もっとも欲望に忠実なのは主人公じゃなくて監督自身だよね」や、「冨永君はとにかく女優を撮るのがうまくて、〈出てくる女優さん全員、俺のこと好きなんじゃないか〉と観客に思わせる不思議な才能をもってると思うんだけど、それ、自分で気づいてないでしょ?」といった指摘も矢継ぎ早に繰り出して司会・冨永にペースを掴ませない。
はたで聞いていればわかるとおり、菊地さんはそうして『転落人生』を評価してるわけだが、その評価軸が冨永監督の思惑とは異なったものであるという図式で、「じゃ、その、オレの言ってることは正しいけど、まずオレがそれ(言ってること)できてなかったということで」と最後には哀しそうにまとめた冨永監督だったけれど、それを聞いていて、あ、やっぱりなんだかんだ〈読解〉的なことをわたしが書くのも甲斐のないことではないのかなと思うのだった。わりかし自作に無自覚だよ、やっぱりこの人(たとえば冨永監督の「言ってること」の上に、さらに菊地さんの指摘を肯定的に重ねることもおそらく可能だろう)。そこが、さすが表現者ということなんだけどさ。

本日の参照画像
(2009年4月26日 05:18)

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