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Jun.
2009
Yellow

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/ 29 Jun. 2009 (Mon.) 「『五人姉妹』雑感」

いまになり『五人姉妹』の当日パンフレットに目をとおす。読んでいなかった。
表紙に柱時計のイラストがある。針は10時10分から11分のあいだぐらいを指していて、針のかたちがもっとも美しいとされる「10時10分」から僅かばかりずらされることによってそこに動きが──不可逆の動きが──刻印されている。はじまりのときは〈すでに〉過ぎたのだ。もはやはじまりのときではない。そして、静止するイラストがたくまずして示すように、はじまりのときは〈つねに〉過ぎるものでもある。つねに過ぎるものがあるとすれば、それはつねに呼び返されるものでもなければならないだろう。くり返し反復される〈時間〉こそが『五人姉妹』の世界なのだと、イラストは示すものである。
先日の本公演が〈白が黒になる(までの)物語〉であった以上、それは〈黒になって以降の時間〉を描いた準備公演の手前に、象徴的に位置するものだ。ずれと反復の過剰さのなかで、目指されるのは原初の時間である。習慣が習得される以前の時間。それはあるいは中原中也の言う、

「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手

なのかもしれない(『芸術論覚え書』)。しかし、そんなものに──まったき〈はじまり〉に──生身の人間が触れうるはずもない。
芝居の稽古もまた、〈ずれと反復〉のようなものとしてある。そして目指されるのは、あたかもいまだ台本を目にする前であるかのような〈新鮮さ〉だ。
習慣とは反復のことである。だが、それが習得されうるのは、逆説的ながら、その反復にずれが含まれているからなのかもしれない。不可避にずれが含まれてしまうのはもちろん、生きているからである。
〈生/反復/ずれ/五人姉妹〉と〈死/一回性/固定/大伯母〉。そんな図式化にいったい何の意味がある?
劇中で物語の反復性を保証するもののひとつが、翌朝、前言をひるがえしてけっきょく姉妹のもとから去ることのない執事である。ラストシーンのその朝はたしかに翌朝であるにもかかわらず、執事が「去らない」ことによって、あたかもまた同じ一日のくり返しがはじまるかのような錯覚が与えられる。去るはずだった執事は、彼女らのもとを去った〈死者〉たち──母、大伯母──の列に連なるはずだった者である。姉妹を経済的に支えているところの大伯母の会社を継いだ長女は、その代償であるかのようにして異常に長い睡眠──いわば〈仮死〉──を身に抱えてしまう(じっさい妹たちは何度も「死んでいる」のではないかと疑い大騒ぎする)。しかし執事は去らず、長女はまた目を覚ます。生きているからだ。〈仮死〉を抱える長女だが、彼女を直接的な〈事故死〉から救ったのが母なのだとすれば、母という項を単純に〈死〉の側に置くことは妥当だろうか。死者もまた反復する、などと書けば、たんに論が立たなくなるだけか。死の回帰が生の反復にずれを与えるということはあるものか。
舞台を二度支配する「暗闇」をどう考えればいいか。差し挟まれる〈仮死〉。長女が目覚める直前の、まさしく原初の時間を思わせるその闇はしかし空虚ではなく、それこそ開闢のときの宇宙がそうであったろうように高密度な何かである(じっさい、何も見えないなかで役者たちは必死に、明るくなるまでに奇跡的な段取りをおこなわなければならない)
つまるところ〈黒〉が喪服なのだとすれば、なんだ、「ひとは生まれて、死ぬ」ってことか。つまらない読みだよ。けれどそれ以外に、では、何がある?
〈輪廻〉。彼女/彼らはまた、いつかことなる舞台のうえにことなる生をうけ、輪廻するだろうか。たいへんだなまったく、役者は。
記憶では、準備公演の舞台上、背後の壁にはちょうど当日パンフレットのそれのような大きな時計が存在した。そして、本公演の舞台にそれは存在しない(少なくとも、文字盤をうかがい知れない腕時計のサイズにまで小さくなって存在した)。おそらく、もはや〈時間〉を示す装置は必要なかったのだ。それこそ稽古のたまものか、彼女/彼ら自身が〈時間〉となったのである。

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(2009年7月 1日 12:34)

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