7
Jul.
2009
Yellow

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/ 30 Jul. 2009 (Thu.) 「Twitterの夏、その他の朝」

妻が最近つくっているもの。
これはその途中。

ここのところはわりとまたTwitterでつぶやいている。あらためて知るのは、Twitterには──それを面白がるためには──やはり「つぶやき」をこそ載せるべきだということだ。つまり、〈拡張された身体〉であるところのそのメディアについて自己言及的になることなく、あくまでその〈身体〉を生きることがもとめられている。だから、当然のこと、つぶやくにあたっては「つぶやきやすさ」=ツールの使いやすさが決定的に重要である。管見ゆえ、いまさら紹介するまでもないような名前しか挙げられないけれど、携帯(iPhone以外)なら「モバツイッター」、MacおよびiPhoneならば「Tweetie」といったところが、いま、ツール(クライアントソフト)としてはいいのではないだろうか。
Twitterの魅力を「雑踏」に喩えたのはいとうせいこうさんだが(2009年7月23日「MUSIC BAR 道プレゼンツ『音談科』第3弾」での発言)、つまりそれは雑踏のなかで、ふと背後から「いてててて」とか、「おっ、すげえ」とかいった声があがる面白さ、それでつい振り向いてしまう面白さのことである。とはいえ、もちろん、いかにツールが使いやすく、〈拡張された身体〉がかぎりなく〈身体〉に近づこうとも、思わず口をついて出る「いてててて」と、それをTwitter上でつぶやくこととのあいだには絶対的な距離があるのであって、その距離の存在がとりもなおさず、「つぶやくこと」をひとつの「戦略的な態度」たらしめている。
だからたとえば、「いまプレーヤーで再生している音楽の曲名を〈自動的に〉Twitterにポストするツール」などはまったく面白くないのだ。それは饒舌につぶやいているかのように見えてじつのところ無言なのであり、先の喩えにつなげれば、あたかも雑踏のなかでイヤホンをし、ミュージックプレーヤーを聴いているようなものである。むろん、雑踏のなかでミュージックプレーヤーを聴いていたっていっこうにかまわないのだが、われわれの耳に届くのは、その曲を聴いているときにふと口から漏れる、「いえー」といったつぶやきのほうなのだ。
さてこれは、22日の、皆既日蝕のときのとある方のつぶやきである。

NHKもエライがツイッタもエラかった!ちゃんと繋がってたもんね

 ここに書かれる「ツイッタ」は、「Twitterをする人/Twitterユーザーたち」をまず言い表すはずだが、と同時に、メディアの総体としての「Twitter」も、そこでは名指されているだろう。命名にさいしてどれだけ意識されたのか(あるいはされていないのか)わからないものの、そのサービス名に、奇しくも「-er(〜をする人)」が含まれていることはあらためて驚きとともに指摘しておかなければならない[※1]

※1:「-er(〜をする人)」が含まれている

ただし、英単語の「twitter」は「twit+(t)er」というなりたちをしているわけでなく、一単語として以下を意味する。

twitter1 /twítər/  n (鳥の)さえずり;おしゃべり;クスクス笑い,笑いさざめき. 興奮による身震い,《口》わくわくする興奮状態. ━━ vi さえずる;さえずるようにしゃべる;クスクス[キャッキャッと]笑う. 興奮で小刻みに震える. ━━ vt さえずり歌う;さえずるようにしゃべる[発する]. 小刻みに前後に振る[動揺させる].
『リーダーズ英和辞典』第2版

いっぽう「twitする人」としての「twitter」も辞書にあるが、その場合の「twit」は「なじる,責める;からかう,あざける」という意味である。

 「twitterをする人」を呼ぶ場合ただしくは「twitterer」であるわけだが、その言い方がどこか「もどかしく」感じられるのは、かならずしも「言いにくさ」からだけではないように思える。いっそこのさい、日本語における特殊な事情(語呂重視、略称好き、そして「-er」の日本的?受容)さえも援用しつつ言わせてもらうが、おそらく、Twitterにおいてはメディア(サービス)もその送り手(ユーザー)もなく、両者が同時に「ツイッタ」なのである。原義はともかくとして、「Twitter」というサービス名に「-er」が含まれることにはきっと象徴的な意味があるのであり、同様の指摘を「Tumblr」や「flickr」といった一連の命名法にあてはめることができるのと同時に、あるいはそこに、「blog ( - blogger)」とのメディア的差異を読むことも可能かもしれない。
といったように、人はついTwitter論のようなものを口にしがちだが、だからといって、「TwitterについてのTwitter」というものを不用意に想像することはできない。いったい、「TwitterについてのTwitter」とはどんな姿をしたものなのか。それは、たんに「Twitterを話題にしたつぶやき」のことなのだろうか。片側に、じつに魅力的な「小説についての小説」を置いてみたとき、「TwitterについてのTwitter」もまたそんな単純なものではないはずだという考えが頭をかすめ、その意味においても、安易に自己言及的になることを回避し、ひとまず、真摯につぶやきつづけることが重要なのではないかと思えてくる。真摯につぶやきつづけたそのさきに、ひょっとして、「Twitter的後藤明生」が出現しないともかぎらないじゃないかと、わたしは妄想する者である。

てな話は、いまは、ほんとうはどうでもいいのだ。夜、松倉(如子)さんの『パンパラハラッパ』発売記念ワンマンライブを聴きに、吉祥寺の「スターパインズカフェ」へ。まったくもって、紙幅を割くべきはこっちなのである。
紙幅を割くべきはこっちなのだけれど、うっかり、もうだいぶ書いてしまったということがあり、どうしようかと悩むわたしだが、思うのは、きょうのところはまず、笠木(泉)さんがすでにアップした感動的な記事、「松倉如子」をお読みいただければそれでいいのではないだろうか。わたしから付け足すことはあまりない。なによりもそのブログ記事のタイトルが、たとえば「松倉如子のライブへ」や、「松倉如子を聴きに」といったものではなく、さらには「松倉如子ワンマンライブ」でさえなくて、「松倉如子」であるということが、ほとんど一切のことを物語っているだろう。笠木さんをしてそのすぱっとしたタイトルを選ばせたものは、けっして「イギリス帰りの物憂さ」だけではないはずだ。
わたしのほうからは、今後のライブスケジュールだけいま一度おさらいしておこう。別府(8/7)福岡(8/8)小倉(8/9)札幌(8/29)である。そして、9月5日には吉祥寺・武蔵野公会堂での、「渡辺勝レコード発売記念と渡辺勝音楽生活40周年記念のライブ!目指せ来客300人!」が控えている。
いささかも誇張ではなく、今夜のスターパインズカフェは盛況だった。特別で幸福な夜であった。彼女のこれまでのライブがみな特別で幸福であったのと同じように、特別で幸福な夜であった。

最近の電力自給率:(7月28日)47.0%、(29日)61.5%、(30日)75.5%

本日の参照画像
(2009年7月31日 21:20)

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