7
Jul.
2009
Yellow

最近のコメント

リンク

広告

/ 30 Jul. 2009 (Thu.) 「Twitterの夏、その他の朝」

妻が最近つくっているもの。
これはその途中。

ここのところはわりとまたTwitterでつぶやいている。あらためて知るのは、Twitterには──それを面白がるためには──やはり「つぶやき」をこそ載せるべきだということだ。つまり、〈拡張された身体〉であるところのそのメディアについて自己言及的になることなく、あくまでその〈身体〉を生きることがもとめられている。だから、当然のこと、つぶやくにあたっては「つぶやきやすさ」=ツールの使いやすさが決定的に重要である。管見ゆえ、いまさら紹介するまでもないような名前しか挙げられないけれど、携帯(iPhone以外)なら「モバツイッター」、MacおよびiPhoneならば「Tweetie」といったところが、いま、ツール(クライアントソフト)としてはいいのではないだろうか。
Twitterの魅力を「雑踏」に喩えたのはいとうせいこうさんだが(2009年7月23日「MUSIC BAR 道プレゼンツ『音談科』第3弾」での発言)、つまりそれは雑踏のなかで、ふと背後から「いてててて」とか、「おっ、すげえ」とかいった声があがる面白さ、それでつい振り向いてしまう面白さのことである。とはいえ、もちろん、いかにツールが使いやすく、〈拡張された身体〉がかぎりなく〈身体〉に近づこうとも、思わず口をついて出る「いてててて」と、それをTwitter上でつぶやくこととのあいだには絶対的な距離があるのであって、その距離の存在がとりもなおさず、「つぶやくこと」をひとつの「戦略的な態度」たらしめている。
だからたとえば、「いまプレーヤーで再生している音楽の曲名を〈自動的に〉Twitterにポストするツール」などはまったく面白くないのだ。それは饒舌につぶやいているかのように見えてじつのところ無言なのであり、先の喩えにつなげれば、あたかも雑踏のなかでイヤホンをし、ミュージックプレーヤーを聴いているようなものである。むろん、雑踏のなかでミュージックプレーヤーを聴いていたっていっこうにかまわないのだが、われわれの耳に届くのは、その曲を聴いているときにふと口から漏れる、「いえー」といったつぶやきのほうなのだ。
さてこれは、22日の、皆既日蝕のときのとある方のつぶやきである。

NHKもエライがツイッタもエラかった!ちゃんと繋がってたもんね

 ここに書かれる「ツイッタ」は、「Twitterをする人/Twitterユーザーたち」をまず言い表すはずだが、と同時に、メディアの総体としての「Twitter」も、そこでは名指されているだろう。命名にさいしてどれだけ意識されたのか(あるいはされていないのか)わからないものの、そのサービス名に、奇しくも「-er(〜をする人)」が含まれていることはあらためて驚きとともに指摘しておかなければならない[※1]

※1:「-er(〜をする人)」が含まれている

ただし、英単語の「twitter」は「twit+(t)er」というなりたちをしているわけでなく、一単語として以下を意味する。

twitter1 /twítər/  n (鳥の)さえずり;おしゃべり;クスクス笑い,笑いさざめき. 興奮による身震い,《口》わくわくする興奮状態. ━━ vi さえずる;さえずるようにしゃべる;クスクス[キャッキャッと]笑う. 興奮で小刻みに震える. ━━ vt さえずり歌う;さえずるようにしゃべる[発する]. 小刻みに前後に振る[動揺させる].
『リーダーズ英和辞典』第2版

いっぽう「twitする人」としての「twitter」も辞書にあるが、その場合の「twit」は「なじる,責める;からかう,あざける」という意味である。

 「twitterをする人」を呼ぶ場合ただしくは「twitterer」であるわけだが、その言い方がどこか「もどかしく」感じられるのは、かならずしも「言いにくさ」からだけではないように思える。いっそこのさい、日本語における特殊な事情(語呂重視、略称好き、そして「-er」の日本的?受容)さえも援用しつつ言わせてもらうが、おそらく、Twitterにおいてはメディア(サービス)もその送り手(ユーザー)もなく、両者が同時に「ツイッタ」なのである。原義はともかくとして、「Twitter」というサービス名に「-er」が含まれることにはきっと象徴的な意味があるのであり、同様の指摘を「Tumblr」や「flickr」といった一連の命名法にあてはめることができるのと同時に、あるいはそこに、「blog ( - blogger)」とのメディア的差異を読むことも可能かもしれない。
といったように、人はついTwitter論のようなものを口にしがちだが、だからといって、「TwitterについてのTwitter」というものを不用意に想像することはできない。いったい、「TwitterについてのTwitter」とはどんな姿をしたものなのか。それは、たんに「Twitterを話題にしたつぶやき」のことなのだろうか。片側に、じつに魅力的な「小説についての小説」を置いてみたとき、「TwitterについてのTwitter」もまたそんな単純なものではないはずだという考えが頭をかすめ、その意味においても、安易に自己言及的になることを回避し、ひとまず、真摯につぶやきつづけることが重要なのではないかと思えてくる。真摯につぶやきつづけたそのさきに、ひょっとして、「Twitter的後藤明生」が出現しないともかぎらないじゃないかと、わたしは妄想する者である。

てな話は、いまは、ほんとうはどうでもいいのだ。夜、松倉(如子)さんの『パンパラハラッパ』発売記念ワンマンライブを聴きに、吉祥寺の「スターパインズカフェ」へ。まったくもって、紙幅を割くべきはこっちなのである。
紙幅を割くべきはこっちなのだけれど、うっかり、もうだいぶ書いてしまったということがあり、どうしようかと悩むわたしだが、思うのは、きょうのところはまず、笠木(泉)さんがすでにアップした感動的な記事、「松倉如子」をお読みいただければそれでいいのではないだろうか。わたしから付け足すことはあまりない。なによりもそのブログ記事のタイトルが、たとえば「松倉如子のライブへ」や、「松倉如子を聴きに」といったものではなく、さらには「松倉如子ワンマンライブ」でさえなくて、「松倉如子」であるということが、ほとんど一切のことを物語っているだろう。笠木さんをしてそのすぱっとしたタイトルを選ばせたものは、けっして「イギリス帰りの物憂さ」だけではないはずだ。
わたしのほうからは、今後のライブスケジュールだけいま一度おさらいしておこう。別府(8/7)福岡(8/8)小倉(8/9)札幌(8/29)である。そして、9月5日には吉祥寺・武蔵野公会堂での、「渡辺勝レコード発売記念と渡辺勝音楽生活40周年記念のライブ!目指せ来客300人!」が控えている。
いささかも誇張ではなく、今夜のスターパインズカフェは盛況だった。特別で幸福な夜であった。彼女のこれまでのライブがみな特別で幸福であったのと同じように、特別で幸福な夜であった。

最近の電力自給率:(7月28日)47.0%、(29日)61.5%、(30日)75.5%

本日の参照画像
(2009年7月31日 21:20)

関連記事

/ 27 Jul. 2009 (Mon.) 「本から/ミイのいた場所/タスポと暮らす/本へ」

佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書)

白石嘉治+矢部史郎・責任編集『VOL lexicon』(以文社)

クロード・レヴィ=ストロース・著、中沢新一・訳『パロール・ドネ』(講談社選書メチエ)

ひとはときとしてアマゾンの「お急ぎ便」さえもどかしく、本屋に駆け込むものである。会社帰り、新宿ルミネに入っているブックファーストへ。

 『VOL lexicon』は、『VOL』の執筆陣によるキーワード集。『VOL』だからと大判サイズを思い浮かべながら探すとそれはわりとハンディなサイズで棚にあるから、そこのところは注意を促したい。『パロール・ドネ』は予定外。出ているのを知らなかった。
それでまあ、まずは『ニッポンの思想』からぱらぱらと。読んでいるとどうしたって、『構造と力』とか、『雪片曲線論』とか、いろいろ読みたくなってしまうから厄介だよ。『構造と力』は大学のときに──高円寺のアパートで布団に寝ころびながら読んでいる自分が像を結び、それがたしかな記憶だとすれば入学してまもなくに読んでいることになる──、いっぽう『雪片曲線論』は高校のときに──昼下がりのJR水戸線、ボックス席に座っているから土曜日の帰りということになるが、こちらはやけにはっきりとした記憶だ──読んでいるが、中身についてはほとんど記憶のはるか彼方にしかない。「クリナメン」ぐらいしか覚えていない。
先日の「ゴダールシンポジウム」でなされた発言でもそうだったが、小田亮さん経由でレヴィ=ストロースを学んだわれら「構造主義者」にとって、どうしてもひっかかるのは「二項対立」と「二元論」の混同である。いや、語用論的な問題にすぎないといえばそうだし、その混同はむしろ世間一般的なものだから、その「言わんとするところ」を汲み取るのはじゅうぶん可能なのだし、「言わんとするところ」でいえばまったく同意するのだけれど、それでもやはり、「二項対立」と「二元論」は異なるものである。──ということをきちんと説明するのにはまずわたし自身、小田亮『構造主義のパラドクス』(勁草書房)をもういちど読み直すところからはじめないといけない。何度でも何度でも、わたしはそこ──〈構造主義革命〉──からやり直そうと思う。

20世紀思想史の《構造主義革命》の項に確実に含まれるただ一人の思想家レヴィ=ストロース。その構造人類学の地下には、ポスト構造主義などによっては汲み尽くせぬ刺激的な批判=思考の水脈がある。本書はその水脈にまで掘りすすむための手引きである。
レヴィ=ストロースにおける合理性は、西欧近代の合理性を逃れ、彼の言う《交換》は《共同体》から外れて《交通》としての《闘争》へと連なり、その構造分析における《二項対立》は西欧近代の一なるものに統合される《二元論》に抗し、その《二項対立》における《反復》は弁証法的《媒介》に対立する……
小田亮『構造主義のパラドクス』の帯文(ウラ)

ARABIA社 ムーミンマグカップ (2)

そうそう、しばらく前に「ミイのマグカップ」について書いたが、そこに使われているイラストの元絵を『ムーミン・コミックス(9) 彗星がふってくる日』に見つけた。表題作「彗星がふってくる日」の冒頭、彗星の衝突を予知したのだろうか大移動するニョロニョロの隊列が、ムーミンの家を通過して床を焼き焦がし、あとに溝を残していく(雷の電気をエネルギー源とするニョロニョロは身体に電気を帯びており、不用意に近づくと感電する)
 何が起ころうともつねに目の前の状況を受け入れていくムーミンママは、困惑した表情を見せつつも「ニョロニョロが焼きこがしたあとにシネラリアでも植えようか?」と提案するが、居合わせたミイがすぐさまその溝に水を流し込み、「あたしにぴったりのプールだね!」と勝手に遊びはじめてしまう。それを受けてなお、あきらめ顔ながらも「まあいいわただし水もれしないように気をつけてね」と声をかけるムーミンママに、わたしの妻などはかるい感銘さえ覚えると告白するのだったが、そう、あのマグカップのイラストでミイが遊んでいるのは、川でも池でもなく、ムーミンの家の床だったのだった。

ミーとムーミンママ

 マグカップのほうでは服の柄が描き足されていたりして若干ことなる部分もあるが、基本的に元となっているのはこのコマに描かれたミイだろう。
きょうはほんとうに取り留めがなくて申し訳ないが、いちおう「タスポ情報、検察に提供 日本たばこ協会」のニュースにも触れておこう。

 たばこ自動販売機の成人識別カード「タスポ」を発行する日本たばこ協会(東京)が、特定の個人が自販機を利用した日時や場所などの履歴情報を検察当局に任意で提供していたことが25日、関係者の話や内部資料で分かった。行方の分からなかった罰金未納者の所在地特定につながったケースもあった。

 クレジットカードや携帯電話の使用履歴はこれまでも捜査当局に使われてきたが、タスポ情報の利用が明らかになるのは初めてとみられる。

 刑事訴訟法に基づく照会に回答した形となっているが、タスポの利用者は通常、想定していない事態だけに、個人情報保護の観点から「どんな情報を第三者に提供するのか、本人に明らかにすべきではないか」と、疑問の声も出ている。

 日本たばこ協会は、共同通信の取材に事実関係を認め、「法に基づく要請には必要に応じて渡さざるを得ない。情報提供については会員規約で同意を得ていると認識している」と説明している。

 関係者の話などによると、協会は求められた個人の生年月日や住所、電話番号、カード発行日などのほか、たばこ購入の日時や利用した自販機の所在地を一覧表にして提供。免許証など顔写真付き身分証明書の写しが添付された申込書のコピーを渡した事例もあった。
(cache) タスポ情報、検察に提供 日本たばこ協会 - 47NEWS(よんななニュース)

 記事中にもあるように、捜査当局に使用履歴を「提供する」段階の話でいえば、クレジットカードでもSuicaでも同様のことはきっとあるわけで、「個人情報の保護に関する法律」においても、「刑事訴訟法に基づく照会」は本人の同意なしに第三者へ個人情報を提供してよい/しなければならない「例外」とされているところのものであるのだが、じゃあ、それ以前に、その使用履歴を「収集する」段階の話ではどうなのかということがひとつあるだろう。
 記事では、「情報提供については会員規約で同意を得ていると認識している」という日本たばこ協会側の説明を紹介しているが、じっさいにタスポの会員規約を読めばわかるとおり、そこ(第23条1項)で「収集及び利用」の同意を得ている「個人情報」は以下のものだけである(条文中の「TIOJ」は「社団法人日本たばこ協会」のこと)

(1) 氏名、生年月日、住所、電話番号、等会員本人が申込時および申込後に届け出た事項
(2) 第5条(会員申込手続き)に定める手続きにおいて、会員がTIOJに提出した本人確認書類の写しおよび公共料金領収書の写しに記載される情報のうち、システムの運営・管理に必要とされる事項
(3) 退会に伴う電子マネーの返金手続きに必要となる口座番号、口座名等の事項およびその他ピデルサービスの運営に必要なる事項

 また、これ以外に説明されているタスポの目的・機能は「成人識別」のみであり、「購入日時や利用自販機の記録」についてはまったく言及がないといってよい。
 「個人情報の保護に関する法律」では個人情報を不法に収集することを規制しているが、そのさいの「不法」には、「収集手段」が不法である場合(たとえば盗聴など)と、「収集目的」が不法である場合(本人の同意を得ず、利用目的の達成に必要な範囲を超えて収集すること)とがある。今回のケースでは後者のほうに該当するかたちでその使用履歴を「不法」な記録とみなすことができるかもしれず、もっていき方によっては、したがって「裁判の証拠資料にはできない」と主張することが可能かもしれないのだった(以上、スラッシュドット・ジャパンの記事での議論を参照)
 いやまあ、監視社会に抗する手段として個人情報保護法を盾にするというのがそもそもどうなのかということはあるけれども、しかしそれも「相手の作ったルールの裏をかくこと」のひとつではあるかもしれない。
最後に、今後出版予定の気になる本を。

  • 『ナラティヴの権利』(著:ホミ・バーバ/訳:磯前順一、ほか/みすず書房/2009年8月21日発行予定)
  • 『書くこと、ロラン・バルトについて』(著:スーザン・ソンタグ/訳:富山太佳夫/みすず書房/2009年9月10日発行予定)

本日の電力自給率(7月27日):80.7%

本日の参照画像
(2009年7月29日 22:59)

関連記事

/ 26 Jul. 2009 (Sun.) 「快晴もいいところだった」

ピーはアマゾンの段ボールが大好きでよく中で寝ている。そこへポシュテが強引に割り込み、このあと、ポシュテはこの体勢で気持ちよく寝てしまうのだった。

で、けっきょくやがて押し出されたピーは洗濯物のカゴへ。ピーはここも大好きである。

ソフトボール大会風景

朝七時に起きる。町内会対抗のソフトボール大会が競輪場ちかくの運動公園であり、出るのではないが(いざとなって頭数が足らなければ出場させられていたろうが、けっきょくそうはならず)、役回りでもって手伝いに行く。快晴もいいところである。
八時集合で、八時半試合開始(の予定で、けっきょく四五分ぐらいにはじまる)。大会本部の都合(?)で開会式の前におこなわれることになった第一試合をたたかい、負ければ、開会式に出てすぐ帰るというよくわからないことになるのだが、そうなった。0−2。
途中までゼロ行進がつづきテンポよく試合が運んだこともあり、開会式をやり、撤収がすんで十時前である。勝ち進んでいれば昼の弁当など買ってくるのがわれら「手伝い」の仕事だったが、まだそんな時間なので当然弁当はなしになり、いったん解散したのち、十一時半に中華料理屋に集合することになる。帰ってぎりぎりまで寝て、中華料理屋へ。冷やし中華など。
予定ではきょうは、その後の経過を診るためにロビンの尿をもって病院に行く日だったが、うまい時間におしっこをしてくれず、時間切れ。
夜、ふたたび町内会の「体育部」の集まり。夏祭りにかんする打ち合わせ。旧盆後半の土日が夏祭りなので、今年は迎え盆に帰省することになるだろう。
『護法少女ソワカちゃん』のDVDを見た。
本日の電力自給率(7月26日):89.8% きょうはわりと終日クーラーをつけていたが、太陽もそれに互して照ったのだった。

本日の参照画像
(2009年7月28日 19:56)

関連記事

/ 25 Jul. 2009 (Sat.) 「早稲田へ」

日記(前回分)を更新しているところへ、CのTさんからメール。それで直接電話をかけ、打ち合わせの日取りについて相談する。わたしの都合がいい八月一日に、Tさんが東京まで出て来てくれる(!)という話でいったん決まりかけるも、けっきょくTさんの都合があわず、その日、長電話でもってイメージのすりあわせをおこなうことになった。ところで、顔が似ているとなればおのずと骨格も近いのか、Tさんは声も恭子ちゃんに似て聞こえる。
それやこれやの作業をするうち午後をたっぷりまわって、早稲田大学で開かれた「ゴダールシンポジウムvol.1」へは、宮沢(章夫)さんと佐々木敦さんとによる「第二部」に間に合うように会場へ。早稲田駅の「3B」出口から外に出てふいに思い出したのは、ちょうど一年前(日記で確認すると2008年7月5日)、きょうと同じ小野梓記念講堂でのイベントに足を運んで、そこに居合わせたWさんから宮沢さんの入院を伝え聞いたのだったという、遠いような近いような記憶である。
シンポジウム終了後に、宮沢さんから早稲田の岡室(美奈子)さんを正式に紹介してもらう。で、岡室さんとのとある打ち合わせを兼ね、打ち上げの席へ。岡室さんはベケットの専門家だが、いま、「表象・メディア論系」の授業では「テレビドラマ論」もやっているという。「最近のドラマで面白かったのあります?」と訊かれ、わたしが『すいか』(2003年、日本テレビ)を挙げると、わが意を得たりという顔でよろこぶ岡室さんだ。軽く意気投合し、そこから『すいか』談義などすこし。わたしに『すいか』を教え、DVDを買わせたのは妻だが、おそらく岡室さんは、テレビドラマにかんして、妻とひじょうに話があうんじゃないかと思われるのだった。
本日の電力自給率(7月25日):64.2%

(2009年7月27日 21:34)

関連記事

/ 24 Jul. 2009 (Fri.) 「ほらね/茨城県知事選はどうだ/そう、いつだってわたしは『断片』を志向していた」

ほらね、ぽっかりとあいだが空いてしまった。
ちょっとスクロールして「うわ」と思われた方、後半部はわりとふつうの日記ですのでよろしくスクロール願います。

で、前回の日記はあれはいったい何だ。ま、調べるのが楽しくなってしまったのだな。そうしてわれながら思いも寄らぬところに着地した。
戦後政党の変遷を調べるうちに、すっかり忘れていたことをいくつか思い出す。たとえば「自自公連立」以前、公明党はどちらかといって「革新」勢力だったんだよなあということがひとつ。で、公明党って、新進党ができるときにいちど解散してるんですね(解散して「公明」と「公明新党」に分党、衆参の国会議員を中心とした公明新党は「新進党」結党に合流した)。うーん、いまさらながら謎は「自自公」だ。周辺事態法、住民基本台帳法、国旗・国歌法、通信傍受法などなど、気づけばどれもこれも自自公を基盤とする小渕内閣のときに成立しているし。
アレかね、その手の話はまだつづくのかねとお思いのむきもあろうかと思うが、茨城県知事選は衆院選と同日投開票になるらしい。前回の知事選にも立って現職に敗れた間宮孝子さんがふたたび無所属で立候補し、共産党がこれを推薦という17日のニュース。

 共産党県委員会や茨城労連などでつくる「明るい民主県政をつくる会」(明るい会)は16日、水戸市のホテルで記者会見し、次期知事選に女性団体役員の間宮孝子氏(57)を擁立すると発表した。間宮氏は無所属で立候補し、共産の推薦を受ける。知事選への立候補表明は4人目。
 間宮氏は大洗町出身。看護師として働いた後、88年から新日本婦人の会県本部に専従し、現在は副会長。05年の前回知事選に立候補し、現知事の橋本昌氏(63)との一騎打ちの末、40万4323票(得票率27・23%)を得た。
 間宮氏は会見で「安心して子育てや仕事、老後の暮らしができないのは政治の責任」と指摘。雇用や医療、福祉、教育問題に重点的に取り組む考えを強調した。
 さらに「橋本県政が続けてきた大型公共事業は破綻(は・たん)している」として、茨城空港の整備や霞ケ浦導水事業、常陸那珂港開発などを批判。当選すればこうした事業を中止するとして「税金の無駄遣いをやめてほしい人は私に投票して下さい」と呼びかけた。
(cache) asahi.com:間宮氏出馬へ 知事選 共産推薦-マイタウン茨城

 そのいっぽうで、民主党は独自候補の擁立を断念したという。

 衆院選と同日投開票となる可能性の高い県知事選で、民主党県連は16日、独自候補の擁立を断念する方針を固めた。14日に県連幹部が合意し、16日に連合茨城側に伝えた。地方選での民主党の連勝を受けて、独自候補擁立を模索してきたが、連合茨城など支持団体が橋本昌知事への推薦で一致していることから、政権交代に向けて衆院選を最優先せざるを得ないとの判断に踏み切った。
 (略)
 ただ、橋本知事への対応については、自主投票とするか、支持表明に踏み込むのか、まだ決めかねており、今後、方針を詰めるという。 [太字強調は引用者]
(cache) asahi.com:民主 知事選擁立を断念-マイタウン茨城

 で、更新が遅れるうち、asahi.comには「最終調整に入った」という段階の報ながら「知事選は自主投票へ/民主県連」のニュースも載った(例によってリンク先はウェブ魚拓)。独自候補を立てない(立てられなかった)いっぽうで、民主党が橋本氏支持にも消極的であることがわかる──いちばんの要因はなにしろ次が「5期目」であることらしい──が、また、推薦をきめた連合茨城のほうもけっして積極的な理由からではないように次の記事からは読める。

 会見で[引用者註:連合茨城の]児島会長は、十六日に茨城選挙区選出の同党の郡司彰参院議員と会談した際、知事選での独自候補の擁立が難しいとの報告を受けたと明かした。児島会長はその場で、「再三、民主党側に独自候補擁立を要請してきたが、時間切れ」と語り、橋本氏推薦を決めたという。
(cache) 東京新聞:橋本氏支持、民主に要請 推薦決定の連合茨城 『自主投票はやめて』:茨城(TOKYO Web)

 でまあ、それでなんだよって話だけれど、「(わが仮想の)民主党支持層」としては、ここはひとつ間宮さんなんじゃないか。間宮さんを「(わが仮想の)民主党」に「勝手に接ぎ木」するという選択のありかたである。

無沙汰のあいだには三連休があったが、あれこれやろうと思いつつ無為に、ついついゆったりと過ごしてしまったんじゃなかったか。そうした日々のメモ。(日付のとなりの数字は、ご存知電力自給率。)

17日(金) / 36.9%
 ほかの猫との競争で療法食をふたたびたべるようになったロビンだと日記で報告したのがほんの何日か前のことだが、その効果に早くもかげりがあらわれ、ロビンのわがままはまた新たな局面をむかえる。いったん普通食にもどして様子をみてかまわないと病院には言われているし、ま、べつにいいといえばいいのだが。 

富山太佳夫『方法としての断片』

18日(土) / 36.0%
 駅ビルに入っている「かまわぬ」で団扇を二本買ったきょうは、しかし今年初クーラーの日でもあった。
 ネットを介して古本屋に注文した、富山太佳夫『方法としての断片』(南雲堂)が届く。「豊富に書き込みあり」と但し書きがあって1,000円のそれもちがう店で同時に見つけ、すこしだけ悩んだが、やっぱりそれは嫌だなあと、4,000円のほうにする。美品てほどじゃないが経年に相応な保存状態。
 ついに手に入れた。大学の図書館で読んで以来、かれこれ十年ちかく──たえず探していたわけじゃないけど、思い出してはネットで検索し──ずっと探していて、ちっとも見つからなかったものだ。これに収められている「解釈学と受容の美学」には卒論のときにたいへんお世話になった。一九八五年、著者三八歳のときの論文集。なによりわたしは、この書名──方法としての断片──にやられてしまったのかもしれない。やっと手に入れた。図書館の蔵書はみなカバーが外されていたのでいまはじめて知ったが、これ、装幀は平野甲賀さんなのだった。
 そうして「念願の一冊」を手中にしたというのに、かえって浮かれたか、つい本屋に行ってしまったのは失敗だった。思わぬ量を買う。まさかと思っていた『1968』まで買ってしまった。もろもろ、連休中に読むつもりだったのだが。
 あと、妻のために何冊か。童話全集の『ムーミンパパの思い出』も。

19日(日) / 35.6%
 深夜にやっていた全英オープンゴルフの中継(最終日)をついつい最後まで見てしまったのはこの日だったか。やたら景色がすばらしく、「日本でやっていいスポーツじゃないな」とつくづく。なにしろ英文表記は「THE OPEN」である。「THE BOOK」(聖書を指す)みたいなもんでしょ、その言いっぷりは。笠木(泉)さんはいまこの国にいるんだなあといったこともすこし思う──って、更新せずにいるあいだに帰国しちゃったけど。

20日(月) / 42.7%
 昼すぎに起き出す。これで「Yellow」の更新など優先させたらほんとけっきょく何もせず連休が終わるんじゃないかと、いきおい、庭の草むしりに精をだす。庭は荒れ放題になっていた。ドクダミ天国。無計画に育たせ、すこし隣家(いま現在は無人のアパート)に侵食もしはじめたオリーブを気持ち剪定する。またべつに、やけにぐんぐんと育って勢力をのばす、身に覚えのない植物があり、妻と「何だこれ?」と言い合って首をひねり、抜いてしまうことにしてまず中途でばっさりと切ってから茂みのもとを辿ると、自分たちで植えたバラなんじゃないかということが判明した。

遊園地再生事業団・出演者オーディション開催

21日(火) / 12.2%
 遊園地再生事業団では来年秋の新作公演にむけ、九月に出演者オーディションを開催する。で、それを告知するチラシ(裏面が応募用紙を兼ねる)をつくって入稿したのが今月はじめで、それが劇場の折り込みチラシのかたちではじめて世間に出回るのがあす、22日である。ウェブ上にも告知ページを置き、そこからPDF版の応募用紙をダウンロードできるようにするのだが、チラシのほうにそのURLを載せているから、遅くともあすまでにはウェブができていないといけない。
 といったわけで夜、そのページの確認を宮沢(章夫)さんにしてもらい、一部修正などして、データを送る。折しもその夜は夏祭りにむけた町内会の会合が公会堂であり、やりとりの途中でわたしはそれに出席しつつ、MacBookを床にひろげてデータの修正やメールチェックなどしていた。深夜、「富士日記 2.1」で使ってもらうための画像バナーもつくって送付。

22日(水) / 21.1%
 なんだっけ、この日は。日蝕か。テレビ中継もネット中継も見なかった。ただ、twitterでみんなが(ってふたりぐらいか)「NHK独り勝ち」とか「NHKの底力を見た」とか言っているのを横目に見ていて、ああ、さぞかし独り勝ちなんだろう、底力を見せたんだろうと想像しては、脈絡もなく「シルクロード」のワンシーン(よくわかんないけど、とにかくでっかい水車。ヤンピーファーズの回だっけか)など思い浮かべる。
 夜、タイ古式マッサージをみっちり。

23日(木) / 27.1%
 これも夜の話だが、湯島の「Music Bar 道」で、いとうせいこうさんと桜井圭介さんのトークを聞く。終わってすぐにいとうさんが、桜井さんと、あと聞きに来ていた編集者のWさん(最前列にいた)に、「俺がここ二、三年考えていたことを桜井君にもW君にも話してなかった(から、それを話しておこう)と思って」と言っていたのが聞こえたが、まさにそんな具合に、いとうさんがほぼひとりでしゃべっていた。
 ま、いとうさんはすごかったのだが、そこで語られる「意味」よりも、語ること自体というか、「行為遂行としての発話」といったことについて考えさせられてしまった。あと、ほか、いろいろ考えさせられる。
 で、帰り道、これもいとうさんの発言のひとつから派生した問いだが、でもほとんどもとの文脈からはなれて考えていたのは、「じゃあ、〈スポーツ〉って何だ」ということである。まあ、参考文献としてすぐ思いつくのは富山太佳夫さんの『空から女が降ってくるスポーツ文化の誕生』だが、また、たとえば「スポーツ吹き矢」といったものを考えるのでもいいかもしれない。それはどのように「吹き矢」とちがうのか。そうして「スポーツ吹き矢」から「スポーツ」を抽出してみせたとき、さらには、「スポーツゴルフ」とか、「スポーツ卓球」とか、なんだかよくわからないものも空想可能になるような気がしてくるのだった。

 といったような日々である。
そうそう、その後、CのTさんとはメールのやりとりを重ねていて、それはひょっとするとわたし、Cのサイトを作ることになるかもしれないといった方向に進んでいるのだが、ほか、またちがうあれやこれやも舞い込み、「やるよやるよ」言っていたら八月はちょっとものすごく忙しいことになりそうなのだった。
本日の電力自給率(7月24日):28.6%

(2009年7月25日 14:48)

関連記事

/ 16 Jul. 2009 (Thu.) 「民主党とは誰か」

というわけで、さしあたり何を導き出したいわけでもないが、ここから何かを考えられるだろうかと調べ、視覚化してみたのだった。現時点で民主党の常任幹事会に名を連ねる面々が、それぞれどこからやってきたのか、多少厳密でない部分もあるかと思うが、基本は国会議員としてのキャリアをスタートさせたときの居場所が表のカッコ内である。で、「竹下派」は面倒なので「竹下派」でひとまとめに。ここにはおそらく、たんに「寄り合い所帯」と呼ぶのでは足りない、何かがあるはずなのだ。(各議員の名前はウィキペディアの項目にリンクします。)

民主党常任幹事会 (2009/05/19付)
最高顧問 羽田孜(竹下派) 藤井裕久(竹下派) 渡部恒三(竹下派)  
代表 鳩山由紀夫(竹下派)  
代表代行 小沢一郎(竹下派) 菅直人(社民連) 輿石東(社会党)  
副代表 前原誠司(日本新党) 川端達夫(民社党) 石井一(竹下派) 高木義明(民社党) 北澤俊美(新生党)
円より子(日本新党)  
幹事長 岡田克也(竹下派) 代理 野田佳彦(日本新党) 平田健二(新進党)  
政策調査会長 直嶋正行(民社党) 代理 長妻昭(維新の会) 福山哲郎(旧民主党)  
国会対策委員長 山岡賢次(福田派) 代理 安住淳(旧民主党) 簗瀬進(河本派)  
常任幹事会議長 中井洽(民社党)  
総務委員長 千葉景子(社会党)  
選挙対策委員長 赤松広隆(社会党)  
財務委員長 佐藤泰介(社会党)  
組織委員長 柳田稔(民社党)  
広報委員長 奥村展三(さきがけ)  
企業団体対策委員長 前田武志(竹下派)  
国民運動委員長 小沢鋭仁(日本新党)  
代議士会長 小平忠正(民社党)  
常任幹事 北海道 松木謙公(自由連合) 東北 黄川田徹(自由党) 北関東 細川律夫(社会党)
南関東 広中和歌子(公明党) 東京 鈴木寛(民主党) 北陸信越 羽田雄一郎(民主党)
東海 藤本祐司(民主党) 近畿 土肥隆一(社会党) 中国 三谷光男(民主党)
四国 小川淳也(民主党) 九州 古賀一成(安倍派)  

 さて、これをみて「寄り合い所帯」と評するのはもちろん簡単なのだが、でもそれ、何も言ってないようなものじゃないかというのは、ひとつに、自民党がそもそも「寄り合い所帯」であるからだ。
 そしていま、その「ふたつの大きな寄り合い所帯」による二大政党制を到来させようとしているのが「小選挙区比例代表並立制」だが、そもそもこの選挙制度の導入をもくろんだのは(一般に解説されるところによれば)、当時まだ自民党にいた小沢一郎である。湾岸戦争をきっかけにより強く打ち出されることになる小沢のいわゆる「普通の国」構想の、その二本柱が「PKO法案」と「小選挙区制」であり、小沢は当初それを自民党政権内で成立させようとするのだが、「小選挙区制」のほうは自民党内部の反発にあい、いちど廃案になっている。
 廃案となった(時流もあって内閣はそれを成立させようとするも、党内をまとめられずだめだった)のが最後の自民党単独政権である宮沢内閣のときで、その廃案を機に野党が内閣不信任案を提出、竹下派から分裂した小沢・羽田グループやその他自民党議員の一部(武村正義ら)が同調して不信任案は可決、解散。新生党や新党さきがけが生まれて迎えた総選挙で自民党は単独過半数を失った(「55年体制の終焉」と呼ばれるのがこれで、以降、どこかと連立を組むことでしか自民党が政権を維持できていないのはご存知のとおり)
 竹下派分裂 宮沢内閣不信任 細川・非自民連立政権といったその紆余曲折のなかにあって、小沢一郎の行動指針には「念願の小選挙区制導入」があったとされ、当時、ゼネコン疑惑や金丸スキャンダルとあいまって噴出した世論の「政治改革要求」は、小沢らの手によりたくみに「選挙制度改革」へと接続されていく。で、選挙制度改革法案は細川政権下、衆院で可決、参院で否決されるが、自民党の側も「非政治改革」的立場とみなされるのをきらい、両院協議会の場で双方の妥協がはかられたうえ、その修正案が両院で可決されたのだった。
 「小選挙区制の導入」について、小沢一郎のねらいのひとつはじっさい「政党本位、政策本位の政治システムをつくりあげる」ことにあったとされるが、と同時に、当時の左翼政党にたいしてこの制度が大きな打撃を与えるだろうことも小沢は強く期待していた。(で、後者の目的がさきに達成されたのはたとえば社民党のいまの議席数をみればわかるとおり。)
いや、べつにその、「小沢一郎という人」みたいな文章が書きたかったわけじゃないのだが、まあ、指差し確認するように書いていたらそうなってしまった。
もちろんわたしは次の総選挙にかんして、大勢としては民主党が勝つべき(だし、まあ勝つだろう)と思っている者だが、ここ数日の自民党のドタバタぶりから、大敗した自民党が下野することすらできずに分裂し、「選挙後の政界再編」といったものがもしまた起きるのだとすれば、それ、どうなのだろうかと思う。(というのはいま、あくまでもかりに二大政党制を是とする視点に立った場合の言い方をするのだが、)だってそれ、「結果的に国民はまたも〈選択〉をさせてもらえず、二大政党制はふたたびおあずけ」ってことになるだろうからだ。再編にあたってのタテマエとしてはまあ、「ついに政策本位で争うための、確固たる二大勢力の形成」といったことが言われるにきまっているけれど、しかし現象としてみれば逆に、「どだい二大政党制にはむかない政治風土なのだ」ということをこそ意味するのではないか。
でまあけっきょく、二大政党制ってどうなのよという話だけれど、かりに二大政党制がこのまま是とされていくのだとして、それはこの国の政治風土のなかにあってむしろ、「ふたつの大きな寄り合い所帯」による二大政党制である「べき」なのではないかとさえ思える。
なにより、まずいけないのは「二大」という言葉の「大」であって、そして「二」とは、もっとリズミカルで、豊かな数字であるはずなのだ。

 《二》は単一性でも多様性でもない。それは、《一》からの偏差・ずれを端的に表す。《一と多》の対立は、この《二》の両端に作られる幻想の対立なのである。セールが「乱流」によって語っているのは、このような偏差としての《二》に他ならない。ノイズの海に消えて《多》となるか、偏差とともに《一》に限りなく近づくか、いずれにしろその境界に位置する「乱流」は、自/他を隔てる場としての自己の比喩となる。《一》に統合している大括弧や小括弧を外して、性急にあるがままの多様性を見ようなどとしないほうがよい。そこには「あるがままの多様性」、バック・グラウンドとしてのノイズなどないのだから。おそらく、社会形式においても思考形式においても、つねに/すでに「原概念」・「原国家」(ドゥルーズ=ガタリ)としての《一》はある、ただし、つねに/すでに偏差・ずれとともに。
小田亮『構造主義のパラドクス──野生の形而上学のために』(勁草書房) p.19

 ひゃっほー。
寄り合い所帯である民主党を、もっと雑多で、もっと豊かな寄り合い所帯にしていくこと。最善手であるとは思わないし、うまくいくかもわからないが、ひとつにはそうした夢想の仕方があるのではないかと思うのだ。
本日の電力自給率(7月17日):75.6%

(2009年7月17日 16:44)

関連記事