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Oct.
2009
Yellow

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/ 18 Oct. 2009 (Sun.) 「西荻窪へ」

えのきどいちろう『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』(Vジャンプブックス)

西荻窪はかつて住んだ町のひとつだ。夕方、約一年ぶりに西荻窪へとやって来たのは、ネットサーフィンをしていて知った「西荻ブックマーク」という催しのためである。月イチペースで開かれているらしい本をめぐるイベントの、きょうは第36回だそうで、「コラムニスト、なのである」というタイトルのもと、ゲスト・えのきどいちろうさん、進行役・北尾トロさんによるトークショーがある。町の本屋が所有しているちょっとしたイベントスペース(定員25名)が会場だった。
トークはあいだに休憩をはさんで三時間弱にわたる。「エッセイとコラムのちがいは?」という北尾さんからの問いを起点に、『中大パンチ』以前の高校時代の思い出から現在にいたる「コラムニスト人生」のあれこれについて語ったあと、休憩後の第二部は、ごく最近「雑誌をつくる」と決意したらしい北尾さんのその構想をえのきどさんが聞き出しつつ、「どうっすかこれ、この雑誌、みなさん」と企画会議ふうな場と時間になる。
「エッセイとコラムのちがい」についてのえのきどさんの答えはかなり明快なものだった。一般的なイメージがそうであるように「コラムは短い」ということがまずあるのだけれど、その物理的な条件に要請されるかたちで派生したより本質的なコラムの特性として、えのきどさんは「読者のちからも借りて書く」ということを言う。あるトピックをイチから説明して書くだけの長さが(えてして)ないコラムにおいては、そのトピックについて読者があらかじめもっている(だろう)情報やイメージ、その喚起力にたよらざるを得ず、そこから、「読者のちからも借りて書く」という〈コラム的〉な技法が生まれるのだという。「ぼく自身はかなり〈エッセイ的〉なワザ──つまり、ワタシ語り──を使って書くほうのコラムニストだけれど」とことわったうえで、えのきどさんはコラムをそのように説明するのだった。
それにしてもうれしい驚きだったのは第一部のラストだ。あらかじめ予定されていたわけではなく、その場のサービス精神でもってえのきどさんが勝手にはじめたふうだったが、たまさか最前列の客が手にしていたえのきどさんの近著『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』を「貸して」と受け取ると、ぱらぱらめくったのち、「じゃあ読みます」と、自作のコラムの朗読をはじめたのである。それが、「月」というコラムだったからわたしはうれしくなってしまった。なにせその本のなかで、わたしがもっとも好きなコラムがそれだからだ。
去年の暮れに初単行本化された『我輩はゲームである。』は、しりあがり寿さん(イラスト)とのコンビで子供向けのゲーム雑誌『Vジャンプ』に約15年間(現在も)連載されているコラムである(なにせ15年にわたる連載なので、単行本はベスト版的な編集になっている)。朗読されたその「月」というコラムは、2008年7月の「Vジャンプ15周年記念号」に書かれたもので、創刊時(「我輩はゲームである。」も創刊まもなくに連載開始)の15年前というと、1993年のことだ。雑誌の購買層は小学生(中・高学年?)で、コラムのなかでえのきどさんが「若い読者」と呼んでいるのは、つまりその小学生たちのことだと思っていただきたい。

 我輩はこの15年というものを回想する。度々思い出してみるのは、門前仲町・深川不動に隣り合った公園のベンチなのである。当時、ようやく人並みに所帯を持った我輩は、公園の裏手の貸家に住んだ。猫の多い町だった。
 若い読者に話して聞かせたいのは、月明かりのことなのである、我輩はこの15年、何も大したことはしていない。15年は過ぎてしまった。読者には想像がつかぬだろう。それは本当に風のように過ぎてしまった。あるいは何かとりかえしがつかない物事のようにどうしようもなく過ぎてしまった。
 あの当時、スーパーファミコンで夜を明かし、妻と家族の真似事を始めた頃のことだ。くたびれ果てると必ず公園へ行った。夜の公園だ。いつも同じベンチに座った。傍らに妻がいるときも、ひとりきりのときもあった。

 (略/いや、ここすごく大事なんだけど、全文引用するわけにもいかないから略)

 と、突然、自分が盛大な月明かりに照らされているのに気づく。見上げるとぽっかり月が出ている。月は欠けているときも、まんまるのときもある。そのとき、胸がいっぱいになる。ああ、そうか、そうだなぁと思う。月だなぁと思う。少しも悲しくないのにほんの少し悲しい。何もないのにほんの少し幸福だ。自分はいつも月の下にいた。それと気づかなくても月の下にいた。
 15年の間には忙しく立ち働いたときも、ヒマを持て余したときもある。友を得たし、友を失った。思うように生きてきたけれど、それほど思うようにはならなかった。

 (略/同様)

 我輩の見る月と、若い読者の見る月と、同じかどうかは知らない。我輩は神様じゃないからなぁ。我輩は我輩で、こっちで生きてるんだから。若い読者とそっくり同じ痛み、そっくり同じ興奮、そっくり同じ一切合切を感じとれるとはあんまり思えない。
 けれど、月は出ているんだよ。それは呆れるくらいぽっかり出ている。そして、誰にでも門前仲町のベンチはある。15年たって、我輩が言ってやれるのはこのくらいの話だなぁ。これは本当の話だ。15年間、月は出ていたんだから。
えのきどいちろう「月」『我輩はゲームである。〈其ノ壱〉』(集英社)

全文は、ぜひ買って読んでいただければなによりです。

本日の参照画像
(2009年10月24日 14:40)

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