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Dec.
2009
Yellow

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/ 13 Dec. 2009 (Sun.) 「みんな、ええようにいったらええなあ」

ビールグラス(東洋佐々木ガラス)と丸盆(山田平安堂)。

丸盆の中央にはかわいい雷神の螺鈿(貝細工)。

13日は妻の誕生日だった。満で五十六歳。間近に暮らしているがとてもそんなふうには見えない。これもひとえに、毎週欠かさず「ビューティーヴィー・ヴォーチェ」を見ているからだろう。でも、見ているのはわたしだ。なんだこのいい加減な日記は。てなわけで、押し入れに隠してあったプレゼント、ビールグラスと丸盆をあらためて出す。
じつを言ってわたしが食べたくなったのだが、ケーキを買おうと、日が暮れてからふたりで外へ。ケーキと、ほかいくつかの買い物。写真と同じ丸盆をもうふたつ買ったのは、またべつの「贈り物」にこれがちょうどいいんじゃないかと思ったからだ。
さかのぼって12日の夜は、遊園地再生事業団の制作ミーティングを参宮橋のカフェで。おもには、来年二月にある「ラボ公演」のチラシについて。年内完成を目標にわたしが作るわけで、そのデザインの試案をもっていく。家を出る直前まであーでもないこーでもないやって、ひと案だけかたちにした。大きなダメは出ず、安堵。
クラブキングのイベント「CLUB DICTIONARY#8」を観に行ったのは10日の夜だ。お目当てはしりあがり寿さんと宮沢(章夫)さんによる〈営業ネタ〉。「何でも知っている」「知らないものはない」と豪語するしりあがりさんが、知らないことばかりの宮沢さんが挙げるさまざまな言葉(新語、流行語のたぐい)をその場でどんどんと絵に描き、説明してくれるという、そういうあれ。すごかった。会場で、宮沢さんの日記にもよく出てくる早稲田のイシハラ君といっしょになり、帰りには中央線の長丁場をともにした。やけにたくさん話したのだ。もっぱら発言していたのはわたしで、自分の大学時代のことなど話題にして脈絡もなくぱーぱーしゃべっていたのだが、というのも、目の前にいるこの若者が「なにしろ人の話を聞いてない」ことで知られるイシハラ君だってことを、まったくすこーんと忘れていたのである。
11日付の「富士日記 2.1」のタイトルは、「なにもかもうまくいく」。わたしが思い起こすのは、それとよく似たまたべつの言葉だ。市川崑監督の『細雪』で、終盤に岸惠子が発するセリフである。それについては以前に、こうした妻とのエピソードを書いた。

私がはじめて『細雪』を見たのも妻に勧められてのことだった。付き合ってまもないころのこと、「私、『細雪』っていう映画が大好きなの」という表明からつづいて、「その映画のなかで、岸惠子の台詞なんだけど、大好きな台詞があって」という話になった。「その台詞を聞きたくなっては何度借りて見たことかっていうね……なんでもないひと言なんだけど、それが大っ好きで……まあ、当ててみて、ってことなんだけど……いや、ほんとべつに劇的な台詞ってわけじゃなくてふつうの言葉だからなあ……」。その帰りにTSUTAYAで借りて、まあ有無を言わさずに当てましたね、私は。
5 Jul. 2007 (Thu.) 「わっ、血だ!」

 で、ほんとにわたしは有無を言わさず、一発で当ててみせたのだけど、その、妻の大好きなセリフというのが、「みんな、ええようにいったらええなあ」なのだった。

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(2009年12月16日 04:14)

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/ 9 Dec. 2009 (Wed.) 「たぶんわたしの好きなパターン」

さて、犯人はいったいこのうちの誰なのか。

その量から考えるに、あるいは『オリエント急行殺人事件』的な推理も可能だろうか。

さあ日記だ日記だ。
夜、家に帰ると郵便受けに『We Never Sleep』カトリン・レグラ『私たちは眠らない』の小説版の英訳)が届いていた。「Better World Books」というサイトで9月14日に注文し、同月24日に「Your order has been shipped!」のメールをもらっていたものだ。なかばもう来ないかと思ってたのだが、来たね。手に入れてどうしようってんだよ。
@poshteの誕生日が近づいており、会社帰り、プレゼントを立川駅に併設されている「エキュート」で買う。先週末、連れだって来たさいに妻が「これほしい」と言っていたビールグラスがあって、モノはそれと決めていたから、早めに会社を出られたきょう再度その店に寄った。ビールグラスをふたつと、あと、同じ店にあった丸盆(漆器で、中央に貝細工のかわいい雷神が入っている)をあわせて購入。するとちょっとした手荷物になるので、持って帰れば当然妻に見咎められるわけだが、こうしたものはやはり誕生日当日に渡して驚かせないといけない。だから品物の入った手提げ袋を示し、わたしはきっぱり、「これが何かは内緒だ」と言ってやった。
「13日まではぜったいに内緒のものだから、ちょっと押し入れに隠しておく」と説明すると、妻も理解したようで、「では、いまは見るだけ見よう。隠すのはそれからでも遅くない」ともっともらしいことを言う。「よし、わかった」とわたし。
というやりとりをしていると、ふと、つきあい始めるさいの「予告告白」のことを思い出す。似たようなこと(?)をしたのだ。休日にふたりで会うという約束をとりつけ、その日は会って何をしようという話を数日前にするなかで、「で、その日に、『好きです』って言うんで」と予告したんである。これが世に言う予告告白だ。
のちに聞いたところによると、それを受け、当然どう返答するかを事前に考えた妻は、はじめ断るつもりでそのデートにやってきたらしい。それがその場になり、ひょんなふうに転んでいまに至るのだが、それ、断るのだったらなにもデートに来る必要はないわけで、思えば、このときも妻はわたしの「予告」に付き合ってくれたのだった。
それはそうと猫が布団におしっこをした。せっかくの甘酸っぱい思い出話も台無しだ。なにせ、たっぷりのおしっこなのだ。三匹のうちの誰がしたのかははっきりしない。もろもろ総合するにポシュテではないかという目下の想像ではあるが。

本日の参照画像
(2009年12月11日 02:11)

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/ 5 Dec. 2009 (Sat.) 「口ロロのライブに行った話、なのだろうかこれは」

Ustreamの画面に映るわたし。

三つの窓としての「口ロロ」。

そこにノイズが走って。

というわけで夜、代官山の「UNIT」で口ロロ(クチロロ)のライブを観た。ライブの模様は動画共有サービスの「Ustream」を使い、リアルタイムに配信されたわけだが、そのカメラに映るわたしが左欄一枚目の写真だ録画版動画の 02:32:19 あたり)。最後の客出しのところ。ライブを Ustream で見ていた白水社のWさんがこれを見つけ、

Bokutou_House というか、相馬くん発見なう。 #kuchiroro
9:02 PM Dec 5th from Power Twitter

と Twitter につぶやいたのを、わたしがこの数分後にケータイで読む。それはいったいどんな「鏡像段階」なのだ、といったような事態。この動画からは知りうべくもないが、わたしは法事帰りで、半分喪服な恰好をしている。靴は革靴だ。
このライブから発せられた熱、輝き、響きと震えについては、たとえばまず米倉さんのブログ記事「この瞬間の到来に」を参照していただければと思う。

……)80年代に東京という一都市で起こっていたクラブカルチャーの中心にいた人たちが今、いっせいに主体的につぶやきはじめているこの異様な前夜感は、年代的にも地理的にも「その瞬間」に追いつくことができなかった私にとっては、この瞬間の到来に興奮せざるを得ない。(……)今回は、間に合った。
ここではありませんのノート - この瞬間の到来に

こういう「感動」を書かせると、ほんと米倉さんはうまい。勝てねえよなあと要らぬ嫉妬心さえ抱くわたしは、だから、「日々の記録だ、あくまで日々の記録を」と自らをいましめつつキーボードを打たねばならない。
会場に入る前の話だ。客はチケットに記された整理番号順に入場するのだが、開場予定時刻にはすでに相当数が詰めかけていたため、近隣店舗の迷惑にならぬよう、詰めかけた人々は駒沢通り沿いの歩道に、細い長蛇の列を作って開場を待つ。整理番号が100番までの方はこっち、100番以降の方はあそこから向こうにとだけ区切って、あとは雑多に並ばせたのち、「何番までの方、ご入場できます」と係の人が列に触れて回る。ライブ後には上がっていたが、このときはまだ雨が降っており、折り畳み傘を片手に30分ちかくは動かぬ列のなかにいたろうか。本来なら(?)ここでケータイを取り出し、Twitter 上の「すでにはじまっているライブ」をチェックするべき時間だったのだろうけど、この日朝から外出し(茨城の実家での法事だった)、出先からつぶやいていたわたしのケータイはすでに充電の残量がこころもとない状態で、この夜はまだまだ長いという予感のもとに電池を温存するとなれば、あとはただぼんやりと駒沢通りを眺めることになる──そのときにふと、音が聞こえたのだ。雨音、列の前後の話し声、話し声ではない「人がいる」というその音、信号待ちの車、バイク、冷たい空気の音までもが鳴り出すのを聴き、「やっぱりライブははじまっていたんだ」とうっかり興奮しているうちに、気づくと自分の番号よりもずっとあとの番号がもう呼ばれていた。あいたたた。
さて、ライブ直後にポストしたわたしのつぶやきのいくつかには、やはり注釈をつけておいたほうがいいだろう。

soma1104 伝わらない、ってことについてずっと考えていた。考えている。 #kuchiroro
9:19 PM Dec 5th from movatwitter

 「言葉足らず」の見本であるようなこのつぶやきは、あるいはライブの否定的な感想として受け取られたかもしれないものの、けっしてそうではないつもりだ。あまりに衝撃的なこの夜のライブはそれ自体の感動を突き抜けて、「ここ」ではない「むこうがわ」へとわたしの思考を向けさせたのであり、言わば、わたしがこのとき考えていたのは「ライブのことですらなかった」。
 むこうがわ──たとえば午後8時36分、世界各地の定点ライブカメラが映し出す同時刻の「世界」──と、はたしてわれわれはつながっているのか。あるいはわれわれは、「他者と出会えるのか」。
 結論を言えばもちろんそんな問いはナンセンスであり、つながっているもいないも、それは同じひとつのことのふたつの側面であるとしか言いようのないものだ。他者と出会える/出会えないは、前提として他者をどう定義するかに依るだろう(どこまで行っても出会えない外部を「他者」と名付けるのであれば、それに出会えないのは当然である)

soma1104 口ロロを象徴するツイッターが、根底的に表象しているものは、コミュニケーションの成立不可能性だというふうに思えるわけですよ、まず。 #kuchiroro
9:39 PM Dec 5th from Keitai Web

 「出会えない」とする考え方のひとつが文学における「受容理論」であり、そこでは、人はどこまでいっても自分自身に出会う(自分自身を読む)しかない。そのことを、Twitter におけるコミュニケーション、ことにタイムライン(TL)という装置が、わかりやすく実体化している。

soma1104 つまり人はみなそれぞれが、それぞれのTLを見るしかないのだ、と(根底におけるコミュニケーションの成立不可能性)。で、そのことをきっと口ロロは見つめ得ていて、いっそ逆手に取ろうとしているのではないか。といったようなこと。 #kuchiroro
10:09 PM Dec 5th from Keitai Web

 あるいはまた、ネット上からライブに参加する人向けに用意された「WEB特設会場」の、つぎの案内文がそこに重なり合いもする。

できれば会場に来て欲しい、だけど、どうしても来られない方々のために、「ここ」でしか体験できないもうひとつの、それぞれの「ライブ」。

 そう、これは「それぞれの」ライブなのだ。ライブスタートの第一声、暗闇のなかの「いとう通ります」録画版動画 00:45:40 ごろから)が、否が応でも「それぞれの場所での体験」というものを前景化させたように、そのことは会場にいた客にとっても同じである。演出の伊藤ガビンさん(ところでぜんぜん関係ないけど、乾杯コーナーでガビンさんが指名されたとき、「ガビン」て本名の音読みかなあ、とすると……「雅敏」とか?とぼんやり考えていた。いまウィキペディアを見るに正解のようだのライブ前のつぶやきにはこうもあった。

gabin あしたのロロロのライブは、つまり誰も全貌がわからないってことだな。メンバーが一番わからないくらいわからない。会場と中継では違う絵を見て違う音を聴く。それぞれのライブをそれぞれの場所で! #kuchiroro
9:03 PM Dec 4th from web

 だから、ライブ中、会場のスクリーンに何度となく映し出される「口ロロ」のロゴが、世界にむかって開かれた「三つの窓」のように見えたというのもその文脈においてである。その窓の向こうに広がる「世界」を、しかしわれわれはそれぞれの窓からしか見ることができない。その「前提」の圧倒的な提示。窓にはときにノイズが走り、枠を歪ませるが、その枠が解消されることはついにない。
 その意味においては、だから、窓の向こうの世界を世界そのものとして享受することも、それを他者と共有することもできない──というのが当然の帰結である。そして、その帰結のうえに立って、しかしなお問わねばならないつぎの問いがわれわれには残されている。

 ではなぜこのライブが、こんなに感動的だったのか。

 つまり、それは「世界そのものが見えた」からなのではない。〈窓の向こう〉はもはやどうでもよくて、ふと横を見れば〈窓のこちらがわ〉に、同じように「じぶんの窓越しに世界を見る」者がいること。おそらくはその感動だったのではないかと、まずは考えることができるだろう。「世界の共有」ではなく、「世界を見る行為の共有」が、わたしを震えさせた。なにしろわたしにとって、この日最高の興奮はこのつぶやきのなかにあったのだから。

Bokutou_House というか、相馬くん発見なう。 #kuchiroro
9:02 PM Dec 5th from Power Twitter

追記程度であれですが、この日のスクリーンのVJが、ほとんど Firefox や iPhoto、さらには Expose や Spaces でもって構成されていたことがひじょうにすばらしかったです。ああ、ブリコラージュ!

本日の参照画像
(2009年12月 8日 17:59)

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/ 2 Dec. 2009 (Wed.) 「こういう、相馬である」

Twitterに使うアイコンを変えようと、朝、妻にデジカメで撮ってもらう。工夫はない。変える前もそうだったようにわたしの顔である(左欄の写真がそれ)。これまでは前髪のあたりから鼻ぐらいまでを切り取った顔のアップだったのだが、こんどはもっと無造作な半身にした。最近のわたしを知る者が見れば、「ああたしかに相馬はこうだ」とミリにも満たず心が動く程度の、じつに実直な一枚だ。斜めを向いているのは、カメラに目線を向けた正面の顔よりかは幾分マシな写りになるという妻の配慮からであり、そこはまあ、「これが夫」であるところの妻の自尊心てやつもあることだし、斜めを向かせておいてほしいと思う。ヒゲを剃ってから、あるいは後ろに少し見えている段ボール箱をどけてから撮ったらどうなんだという声はむろんあろうかと思うが、まあその、「撮ってもらう」というそのこと自体がなんだか照れるのであり、ぱぱっと済ませたかったのだ。
しかしどうなんだろうか、こうしてほいほいとネットに顔写真を載せてみせるわたしの行為は、このご時世、セキュリティ意識を欠いた「無防備」で「考えのない」ふるまいに映ってもいるのだろうか。ま、たしかに考えはないのだけれど、とはいえ根源的に〈虚構〉である/でしかないところのネット──あるいは、言葉──のうえに立ち、その足場を信じる者としては、いくら〈本当〉を書いて載せたところで崩れるような〈虚構〉ではないというような、意志と安心とがきっとあるのだろう。
あ、無防備ってことからの連想でもって話はつながるのだけれど、わたしのよく使う「soma1104」というユーザ名、Twitterのアカウントもそれだから世間の目にそこそこ触れているかと思うその「soma1104」の「1104」はこれ、おれ、きっと「11月4日生まれ」だと思われてるんだろうなと思いつつ使っているわけだが、そうじゃなくて「ヒトシ」(下の名前)ってことです。「1101.com」みたいなもんですね、僭越な引き合いを出せば。誕生日は11月18日。

えーと、日々の記録、日々の記録。
デフォルトブラウザを「Google Chrome」にしてみている。いまだ正式リリースに至っていない Mac版 Chrome だが、現在ダウンロードできる開発バージョンのそれは、関心を寄せていなかったあいだにどうってことなく使えるレベルになっていた。ただ、Gmail だの Google Reader だのにすげえアクセスしやすいとか、そういった優遇的インターフェイスがあるのかと想像していたらそれはちがった。Firefox や IE の機能拡張としてあった Google ツールバーに相当するものも現時点ではまだないから、かえって「冷遇されてる感」があるほどだ。検索語句も URL もなく、ただひとつの入力窓にすべてを呑み込もうとするその「平等」を、二十一世紀の未来派は「速度の善」と呼ぶのだろうか。二十二世紀の未来派、ドラえもんの活躍は『藤子・F・不二雄大全集』でどうぞ。

本日の参照画像
(2009年12月 4日 23:48)

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/ 1 Dec. 2009 (Tue.) 「淋しい長毛」

ピー(右側)。写真は以前のものだが。

口ロロ『everyday is a symphony』

コンパニオン2 II

30日の朝にひさびさ大寝坊をやらかして反省、小寝坊はしょっちゅうだってことも含め、やっぱりケータイの目覚ましアラームじゃあだめだ、iPod touch から音楽を流そうと、BOSEでいちばん安いPC用スピーカー、「Companion®2 Series II 」を買ってくる。たぶんその前身モデルってことになるのだろう「Media Mate II 」がこれまで寝室にはあって、AirTunes 用の端末にしていたのだけれど、片側からしか音が出なくなって以来すっかり使わなくなっていたのでその買い換えである。
「Companion®2 Series II 」には入力が2系統(RCAピン×2)あるので、いっぽうは AirMac Express につないでおき、もういっぽうに iPod touch をつなぐ。さて iPod touch といえば、まったく不思議なことにプレイリスト中の曲をアラーム音として割り当てることがそれ自体の機能としてはできない、ってことがあるのだが(iPhoneもそう。で、touch以外のiPodでは初代の頃からできる)、さすがにいまや「App Store」に行けばそれを可能にするアプリがいくつか用意されている。無料の「AlarmTunes」というやつを選んだ。まあ、朝ってかんじかなあというところを五、六曲、曲単位でアプリに登録し、そのなかからランダムに再生させる設定。で、やっぱり音楽だと、身体はともかくも意識はぱきっと起きるのだった──という12月のはじまり。
わが家の三匹の猫は朝に缶詰(ひと缶を三等分)、夕方に一回目のカリカリ、夜遅くに二回目のカリカリという一日三食がいま基本だが、長毛種の「ピー」がこの日、一回目のカリカリを食べなかった(呼んでも二階から降りてこなかった)という妻からの報告。ただ、妻の見立てによれば原因は体調不良ではなく、「淋しくなっちゃった」んじゃないかという。きょうは昼間、たまさか二階にひとりで寝ていた(あとの二匹と妻はみな一階にいた)のだそうで、それでまあ、気づけばふと淋しくなり、ついつい気分を落ち込ませて食欲を失ってしまったピーだ。いや、そうした物語を妻が読み込んだとしてもおかしくないような、そうした貌のある猫ではあるのだ。なにより、妻が報告するその時点ではすっかり気分を恢復させ(一階に来たらみんないた!)、二回目のカリカリを催促しているので問題ないだろうという話。あるいは朝、目覚ましとしてBOSEのスピーカーから流れた松倉如子の「いとしい人」がいけなかったんじゃないかとわたしは想像する。布団のうえに寝ていたピーにも、ぐっと響いてしまった。
口ロロ(クチロロ)の新譜『everyday is a symphony』 □□□(クチロロ) - everyday is a symphony は正式には2日の発売だが、きょうから店頭に置いているところもあるようで、「試聴した」「買った」のつぶやきがTwitter上にちらほら。会社を夜の10時35分ぐらいに退け、11時まで開いている新宿タワーレコードに滑り込む。

閉店間際の新宿タワーレコードで口ロロ新譜をゲット。CDプレーヤー目指し、かいじでゴー。 #kuchiroro
11:11 PM Dec 1st from Keitai Web

 立川駅に着いて家に電話をかけ、ピーについての報告を聞いた。

本日の参照画像
(2009年12月 3日 14:23)

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