12
Dec.
2011
Yellow

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/ 12 Dec. 2011 (Mon.) 「Diarist A Go Go, Part 2」

ダイアリスト3日付「Diarist A Go Go」参照)として、もしくはニッキストとして思索の歩みをつづけるべく、つぎにわたしは「クラウド」について考えているのだ。いったい、クラウドの思想とはどんなものだろうかとまずはそこから。ただ、思想といってもこの場合、サービスの構築やプログラミングにおける「設計思想」のことではなくて、あるいはそもそも「思想」と呼ぶほどのものでもなくて、日常においてぼんやり受け取っているところの「イメージ」、もしくは「感覚」程度のものかもしれない。なにせ急にクラウドについて考えることにしたので、そうそうたいしたことは浮かばないのである。
また、さしあたって問題とするこの「クラウド」は、iCloud とか Google Music、あるいは Amazon EC2 とかの特定のサービスを検討対象とするものではなくて、それらも含んでいま現在なんとなく流通しているところの「クラウド」という、たぶんに膨張的で境界の定まらない概念のことである。だから「クラウド・コンピューティング」等のいくぶん実体的な言葉も使わず、ただ「クラウド」とそれを呼ぶことにするし、そうすることでさらに、本来は語義に含まれないはずの「ソーシャルネットワーク」的なイメージも、たんに〈気分的に隣接している〉からという理由でそこに侵食してくるだろう。
ともあれ、いま、どうやら「クラウド」らしいのだ、世界は。
ネットに接続するためのなにがしかの端末(パソコンなり、ノートパソコンなり、タブレットなり、スマートフォンなり)が手元にあって、それ以外のすべてのもの──データや、そのデータを扱うアプリケーション、そのアプリケーションを走らせてじっさいに計算処理を行うコンピュータ等──は、ネットワークのむこうのサーバ上に存在する。そうすることで、たとえば「すべてが詰まったノートパソコン」などをいちいち持って歩かずとも、家でも職場でも、あるいは街なかの喫茶店でも旅先のホテルでも、いつでも同じ作業環境が、その場にある端末の画面のなかに用意されるというのが、まあ、よく説明されるところのクラウドであり、クラウドという謳い方がされるはるか以前から提唱されてきたところの「ユーティリティ・コンピューティング」というやつだろう(「ユーティリティ」は電気・ガス・水道などの公共サービスのこと。コンピュータもまた公共インフラのひとつとして提供され、ユーザはそれを所有するのではなく利用し、使ったぶんだけの対価を払うという考え)
ユーティリティ・コンピューティングが称揚される背景には、個々の端末にかかる導入コストおよび保守・管理コストの軽減であるとか、変化対応力であるとか、環境を用意する側のもろもろの事情があるわけだが、そのとき、それを享受するユーザの側に呼び寄せられるのは、つまり〈身ひとつ〉という思想である。かばんにしのばせた小型のノートパソコンと、片手に iPhone、あとは自分の身体がひとつあればどこへ行くにも充分だというようなスマートさ、軽やかさのイメージがそこには付いてまわり、ある種の万能感とともに、近代的な〈個〉がそこに完成するかのような錯覚さえ呼び込みかねない。
もちろん留意しておくべきは、「身ひとつ」なる語がもつ本来の意味合いはそういったものではないということだ。「身ひとつ」の語はけっして「個」を志向するものではなく、その身に不断にまとわりつく関係の複雑さのほうをこそ意識させるものであって、たとえば「身ひとつでがんばる」などと言う場合、(「鼠穴」の弟・竹次郎がそうであったように──ってなんでここで喩えが落語なのかって話だけれど)じっさいにそこでなされるのは、むしろ「個」を忘れ、「共同性のなかに身を投じる」というふるまいなのである。だから、「身ひとつ」になることがいっぽうにおいては(身軽さのイメージにも引っ張られてか)いかにも主体的な「わたし」の獲得というイメージに結びつきやすいのは事実ながらも、それはあくまで誤認であり、「身ひとつ」にこそ宿る根源的な共同性(「無為の共同体」)について考えることは、クラウドの思想を内部から攻略するひとつの契機となり得ると予感する。
さて、クラウドにおいてサーバ上に置かれるデータというのはなにもワードやエクセルのような書類ばかりではない。たとえば iPhone の電話帳(「連絡先」)を想起してほしいが、あのデータはじっさいには iCloud のサーバ上に保存され、Mac があるならば「アドレスブック」によって同じデータが引き出されるようになっているわけで、気づけば、そうした〈身のまわり〉がみな雲の上へと吸いあげられていく。いや、「吸いあげられていく」というのは一面であって、同時にわれわれはそれら身のまわりのことどもを嬉々として雲の上へ差し出してもいるだろう。Twitter、Facebook、Instagram、Foursquare、Flickr、Instapaper、Evernote、Dropbox などなど。これらは相互に絡み合っていて、どれがなにを雲の上へと運ぶのか、もはやにわかには示すことができないほどだが(たとえば Instagram が運ぶのは、はたして「写真」だけだろうか)、それらを利用するわれわれは、あたかも雲のむこうに自身の分身を置こうとするかのようでもある。
「家を出たなう」から「学校なう」までのあいだには物理的な移動を経なければならず、〈身ひとつ〉になってなお関係性と共同性に身を晒しつづけるこちら側のわたしにたいして、むこう側で「家を出たなう」と「学校なう」を統合するのは、その距離を消すことのできる〈わたし〉である。その意味で、わたしは雲の上の〈わたし〉をうらやむことになるが、しかしそこで疑ってみたいのは、その〈わたし〉なるものが出現するのは、はたしてほんとうに雲の上なのだろうかということである。「身体拡張原理としてのテクノロジー」を思うとき、たしかにそこでイメージされるのはこちら側のわたしを基点として延び、クラウド上にまで到達する仮想の身体=メディアであるけれど、しかしもし〈わたし〉なる仮想の主体がクラウド上に結節されるのだとすれば、はたしてそのときどちらが基点となるのか、わたしの延長として〈わたし〉(=インターネット)があるのか、はたまた〈わたし〉(=インターネット)の最突端としてわたしがいるのか、そのどちらともつかない事態が出来することになるだろう。

ここで気にかけるべきは、いつの間にか、所有とアクセスの間の線引きが曖昧になっていることだ。Amazonのクラウド志向の発想では、FireのユーザーはあくまでもAmazonのサーバーに蓄積されたコンテントをその都度引き出して=ストリームを呼び出して、利用することになる。Silkを専用に開発したのも、おそらくは、初動のアクセス速度を上げることで、ユーザーが今接触しているコンテントのファイルがどこにあるかを意識させないようにするためだろう(これは、クラウド側のサービスであればどこの会社も気にかけていることだ)。[太字強調は引用者]
Post-Webの世界を拓くJeff Bezos | JOURNAL | FERMAT

 〈わたし〉なる主体が(錯覚であれ)像を結ぶのは、けっきょくのところ「こちら側」においてなのかもれしない。と同時に、〈わたし〉なる主体がはたしてどこまでわたしに似ているのか、それもまた疑問だ。クラウドによる世界への遍在を欲望する者は、結果、自身のなかに世界を流入させるかっこうになる。〈分散処理の場〉であったはずのクラウドは、〈わたし〉の獲得を夢見る者らの欲望を吸い上げていつしか自らが〈処理する主体〉となり、自らを実現するために数多の端末──わたし──(逆)アクセスする。そこにいるのはつまり、「世界を分散処理するわたし(たち)」だ。
あるいはここに出てくる「世界」を「Whole Earth」と読み替え、カウンターカルチャー的な何かへと接続することで、「世界を分散処理するわたし(たち)」それ自体を希望のうちに語ることは可能かもしれないが、その希望がいま、われわれの絶望にたいして有効であることを示すためにはもっと慎重な議論が必要になるだろう。
反クラウドはいかにして可能か。そして反クラウドに、ダイアリスト的態度が貢献するとすればそれはどのような作用によってか。とにかくここまでイメージの綱渡りでもって書きつないできてしまったので、ここに足場を組むというのもやや無理があるのだけれど、チャンスのひとつと見なせそうなのは、「クラウド的想像(創造)力の契機となる〈わたし〉の獲得」への抵抗という局面である。主体化の欲望を引き受け、トータルな〈わたし〉のもとに出来事を編纂するのがジャーナル的なふるまいであり、そこに頓着しないのがダイアリー的なふるまいであるとする「Part 1」での議論を引き継ぐならば、ダイアリー的態度は、クラウド上に束ねられた言葉・記憶・行為・出来事・つながり等々から、唯一の語り手を構築しないこと──あるいは、つねに複数の語り手を構築すること──をもってそれに貢献すると言えるかもしれない。
思い浮かべるのは、レヴィ=ストロースによる「構造」の定義として知られたつぎの言葉だ。

「構造」とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて不変の特性を保持する。
クロード・レヴィ=ストロース「構造主義再考」『構造・神話・労働』

 レヴィ=ストロース自身が注釈を入れるように、この定義において重要なのは、「要素」と「要素間の関係」とが同一平面上に置かれ、「要素間の関係」もまた「要素」と同等に扱われるという一種アクロバティックな自在さである。そしてダイアリストはきっと、これに倣うかのようにしてその日記において、「出来事」と「わたし」とを並置し、「わたし」と「日付」とを並置し、「わたし」と「わたし」とを並置するだろう。むろんそれはほんの小手調べにすぎないけれど、いずれかれがクラウドを──ひいてはインターネットを──木っ端微塵にする、そのための契機となるにちがいない。
本日(12日)の電力自給率:32.1%(発電量:12.2kWh/消費量:37.9kWh)

5日(月)

 朝、会社へ行く前に税務署へ寄り、例の「給与所得者の住宅借入金等特別控除申請書」を再交付してもらう。内容とすれば「紛失したので何年度分から何年度分までを再交付してほしい」というようなことを記入するだけの、ごく簡素な用紙にその場でボールペンを走らせると、「15分ほどお待ちください」と思ってもみなかった案内があって、なんとあっさり手に入れてしまった。ビバ、お役所仕事。しかも税務署は家のごく近所だ。週末、発見をそうそうにあきらめて、絶望的な家捜しへと突入しなかったのは正解である。[電力自給率:54.6%(発電量:12.3kWh/消費量:22.5kWh)]

6日(火)

 「おざなり」と「なおざり」の違いを確認しようとして訪れた「知の関節技」というサイトで、それとはまたべつの「『小股ってどこか』 よりも大切なこと/『よくわからない』 まま置いておく美意識」という記事を読む。記事自体の論旨もひじょうに面白いものながら、なにより笑ったのはそこで紹介されていた、坂口安吾、太宰治、織田作之助による鼎談の模様である。揃いも揃って何を言っているのか。

坂口 僕が最初に発言することにしよう。この間、織田君がちょっと言ったんで聞いたんだけれど、小股のきれあがった女というのは何ものであるか、そのきれあがっているとは如何なることであるか、具体的なことが分らぬのだよ。いったい小股のきれあがっているというのは、そもそも何んですか。

織田 僕は、背の低い女には小股というものはない、背の高い女には小股というものを股にもっていると思うのだ。

坂口 しかし小股というものは、どこにあるのだ。

太宰 アキレス腱だ。

坂口 どうも文士が小股を知らんというのはちょっと恥ずかしいな。われわれ三人が揃っておいて……

[電力自給率:6.0%(発電量:1.8kWh/消費量:29.7kWh)]

7日(水)

 どういったあれなのか、ふいに聴きたくなってつい、iTunes Store でピンク・フロイドの『The Wall』を買う。夜、漬け丼。[電力自給率:32.6%(発電量:10.3kWh/消費量:31.5kWh)]

8日(木)

 『The Wall』を聴き、「馬生やばい」を書く。[電力自給率:0.5%(発電量:0.2kWh/消費量:35.0kWh)]

9日(金)

 のどから来た風邪を「銀のベンザ」で食い止めた。[電力自給率:9.1%(発電量:3.2kWh/消費量:35.0kWh)]

10日(土)

 妻の誕生日は三日後の13日なのだが、その日はまたわたしが反対側の親不知を抜く(予定の)日でもあって、すると当日の晩はいっしょにケーキを食べることができないからと、きょう、歯医者の帰りに買って帰る。言わずもがなだが、妻は35歳になるのだった。[電力自給率:35.2%(発電量:12.6kWh/消費量:35.7kWh)]

11日(日)

 食い止めたと思った風邪がなおくすぶるのだった。[電力自給率:40.0%(発電量:12.7kWh/消費量:31.7kWh)]

(2011年12月13日 15:03)

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