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Nov.
2012
Yellow

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/ 17 Nov. 2012 (Sat.) 「こたつより愛をこめて」

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』(白水社)

こたつが届いた。リビングにそれを据える。いま、これもこたつで書いている。
いままでリビングにあったソファは、このあいだ粗大ごみに出した。座面のスプリングがすっかり壊れて、もう何ヶ月ものあいだ、まったくくつろげないものになっていた。ソファがだめになったとなれば、おのずとリビングには人が寄りつかなくなる。あれだけ賑わっていたリビングが、夜歩くには寂しいほどになった。猫用のトイレがリビングの隅に置かれてあるから、猫どもはしばらくその道を通っていたけれど、やがてそれもまばらになり、以降はただ草の生えるにまかせた。
いつしか、リビングはリビング跡と呼ばれるようになった。ちょうどその頃だ。ゆうべ、リビング跡でこたつを見たという噂が聞かれるようになったのは。数人の男が協力して、捕まえてみればこたつだった。「もうしません」と、まだ若いそのこたつは泣いてあやまっていたと人からは聞いた。
こたつで書いているのがいけないのか、よくわからない話になってしまったので──これが世に言う「こたつに化かされる」というやつだろうか──話をもとに戻したい。

メンタルトレーニング中のポシュテ

ソファを捨てて以降きょうまでのあいだ、リビングには、またこたつが届いたさいにも使うだろうということで掃除機──ダイソン──が出されたままになっていた。猫のポシュテが大のダイソン嫌いであることは以前ここに書き、動画を添えたとおりだ。これまでなら、猛威をふるったそのあとにはすぐに家から立ち去っていたダイソンが、なぜか立ち去らずに、うずくまったままそこにいつまでもいるのでポシュテの動揺は大きい。たいへんなことになったものだといったんは背を丸める。とはいえポシュテが恐れているのは要は吸引時の音なので、相手が動かないでいるぶんには多少の冒険心も出、わざわざダイソンのちかくに──きっちり距離は保って──腰を据え、身体には緊張を漲らせたまま背筋を伸ばしてもいる。わが家では、これを「メンタルトレーニング中」と呼んだ。どうも克服しようとしているらしいのだ。
メンタルトレーニングは順調に成果を上げているかに見え、ぴくりともしないダイソンにポシュテは次第に自信をつけて、ときおりホース部分やら、はずれてちかくに転がっている吸い口の部分などにチョイチョイと手を出すまでになっていた。あるいは「ダイソンは死んだ」と、ポシュテはそう結論をくだすに至ったのかもしれない。「嫌な奴だったが、死にゃあ仏だからよ」と、そういった心持ちにさえなっていた可能性がある。しかし、きょう、そうしてポシュテが築き上げてきたものは脆くも砕け散り、一週間ぶりに猛威をふるったダイソンはふたたび押し入れへとしまわれた。

午後、池袋。地点『光のない。』を観る。すごかった。とにかく元気が出た。
 セリフでいうと、

成功した即興は極めて長続きすることがある

という箇所で何かを掴まれた感じがし、その少しあとに出てくる、

技術はなにを反復するか気にしない

でぐっと持っていかれた。と書いても何のことだかわからないだろうし、前後も含めた(戯曲上の)文脈をここに紹介しようと思うものの、じゃあどっからどこまでを引用したらいいかとなると、ずるずるとどこまでもつづいていく独特の戯曲の言葉に絡めとられて、なんだかよくわからないことになるのだった。

ここには他に誰もいない、なぜならそれがいかに非論理的で(ほかならぬわたしたちのサインを欲しがるほど非論理的なことはない!)複雑でそれ自体奇妙に非統一的でわたしたちへの理解がなくても、なんらかのシステムがなければわたしたちは即興しなければならない、わたしたちしか扱えないなにかを作り出さねばならない、他には誰も、音のカオス、どんな音でもかまわない、わたしたちには聞こえない、わたしたちはつくらない、カオスと無意味さが混ざり合い限界なき技術的複製可能性と結びつく、どんな無も思いどおりに反復できる、反復しつつ取り出せる、残るのは無、だが無は技術で何度も反復できる、反復可能なカオス、もはやわからない、同じカオスが続いているのかすでに別のカオスなのか、成功した即興は極めて長続きすることがある、そう、だからわたしたちはとにかく即興を続けねばならない、技術はそれもまた複製するに違いない、わたしたちはまた新たに生産しなければならない、技術はすでに待っている、わたしたちの手からひったくる、すべてを奪う、事前に見ているわけではない、技術はかまわない、技術は反復する、わたしたちが投げつけるものを、わたしたちが差し出すものを、技術はまた別のなにかを反復する、だがそれはさっきと同じもの、技術はなにを反復するか気にしない、そしてすべてが同じになる、まったく同じになる、一つになる、同一になる。

エルフリーデ・イェリネク『光のない。』(白水社) p.51 - 52

 途中でコーネル・ウェストのこともちょっと思ったのは、つまり〈演説〉としての力を感じたからで、〈オーラルなもの〉の放つ、抗いがたい、あやうい魅力のことをやはり思った。
 あとそう、受付で、わたしに気づいた制作のTさんに「明日、誕生日ですよね」と声をかけられた。あんまり仕事してないのに招待してもらっちゃったりして、まったくありがたいかぎりです。
アフタートークを聞かずに池袋芸術劇場をあとにし、西巣鴨へ。マレビトの会『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』。牛尾(千聖)さんが出ている。7時間ぶっとおしで上演されているそれ(途中入退場自由)の最後の一時間半ほどをぼんやり観た。ニュアンスを伝えるのはむずかしいが、場内の照明量(明るさ)がゆっくり、ごくわずかずつ変化するようになっていて、わたしはちょうどそのいちばん暗い(照明のほぼ完全に落ちた)状態のときに会場内へ足を踏み入れた。あとから振り返り、ああ、いいときに入ったなあと、ただ何となくそう思うのだった。

ところでどうでもいい話だが、「こたつ」というとやはり、思い出すのは(古今亭)志ん生のこの小咄だ。というわけで本日のオマケ。ぜひ、志ん生の声でお読みいただきたい。夏、いまちょうど夕立があがったところ。

「ずい分とひどい雨だったなぁ」
「暑くってたまらねェところにザァアーッ と降るてェのは、天の助けだなぁ」
「いいもんだなァ、雨ってやつァ。庭の芝生を見ねェな光ってるじゃねェか」
「おや? 何だい、何だか見たことのねェもんだな。何だいおめえは?」
「あたしは竜(タツ)でございますよ」
「へェー、竜てェのはこういうのかい。で、どうしたんだい」
「今、雨を降らせてたのはあたしですよ」
「へェ、お前が雨を降らしてくれたのかい、ありがとうよ、おかげで涼しくなったよ。で、どうしたんだい?」
「足を踏み外して雲からおっこちちゃったんですよ。今、雲が迎えに来ますからそれまでここにおいといてくださいな」
「ああ、いいよ、おいとくよ。ゆっくりいな」
「有難うございます。私は動物園にでももっていかれんじゃと思っていました。このご恩は決して忘れません。ご恩返しに、暑いときはいつでもそう言ってください。雨を降らせますから」
「暑いときには雨を降らして恩を返してくれる。ありがてぇなー……
でも、寒いときには恩はかえせねーだろー」
「イイエ、寒い時だって恩はかえせますよ」
「寒いときにはどうするぃ」
「せがれのコタツをよこします」

本日(17日)の電力自給率:9.6%(発電量:2.3kWh/消費量:23.9kWh)

本日の参照画像
(2012年11月26日 15:34)

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