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Jan.
2014
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/ 22 Jan. 2014 (Wed.) 「みんなが十六歳まで学校に行くだろう──もう少し後になれば」

レイモンド・ウィリアムズ『完訳 キーワード辞典』(平凡社ライブラリー)。

全豪では男子シングルス準々決勝のナダル v. ディミトロフ戦と、マレー v. フェデラー戦。いずれもライブスコアで観(?)戦。ライブスコアも、これはこれで見入ってしまうということはあって、もっといえば刻々の結果として切り替わるスコア表示ばかりでなく、気づけばその結果と結果のあいだの、切り替わらないでいるスコアにも──セカンドサーブだろうかと想像したり、長いラリーを思ったりしつつ──見入ってしまっている。いつしか「横目で確認」どころの騒ぎではなくなっていて、だったらもう映像で見たらいいじゃないかという話だ。で、そのライブスコアで観た範囲の印象だけれども、やけにフェデラーの調子がいいのだった。サービスゲームをさくさくキープする。すごく強い。
『共通文化にむけて──文化研究 Ⅰ 』の読書はあまり進んでいない。というかほとんど進んでいない。のだけれど、収められたエッセイのうちの一本、「このアクチュアルな成長」にはちょっと興奮/放心してしまった。こりゃすげえ。

 いま、異なった経験をした少年にとって、その集落は記憶となった。それは成長のためには断ち切られねばならなかった。事実の問題へ、この権威、あの学問に頭を垂れる世界へ。価値判断、絶え間ない公開討論、さまざまな党派や思潮への分派、すばやい言葉の応酬と繰り返される決め手の一言。そして揺れる列車に腰かけ、掻き消えてしまったが一握りの者たちが覚えている声、すぐにごみ屑になってしまう多くの印刷物、そして列車が速度を増すとともに暗くなっていく都市、がらんとしたプラットフォームに立つ見知らぬ人びと、ネオン広告とライトアップされた大聖堂のドーム、ディーゼルの騒音と街灯の列。そこに突然新たな種類の沈黙が生じ、答えは消え去って、決め手の言葉は忘れられ、さまざまな範疇は崩壊する。これは、真実が姿をあらわすといわれる深夜の沈黙である。わたしたちが活発に活動する真昼の真実もおなじくらいに有効であるのだが。疑問はおなじなのだ。わたしたちが住んでいるのは、いったいいかなる国なのか?
レイモンド・ウィリアムズ「このアクチュアルな成長」『共通文化にむけて──文化研究 Ⅰ 』(みすず書房)p.37-38

 冒頭ほどなくのこの問いへの導入がまずかっこいい。身を切るようなイメージのラッシュ──賑やかな孤独(© SMB)とでも呼べそうな感傷のなかに、しかし「少年」が身を投じたその冒険世界のワクワクもゾクゾクも消え去ってしまってはいない──、そして沈黙、夜の問い。ああ! と身悶えするほどのかっこよさで、ついついこの部分を何度も読んでしまう。
巻末の編者解題によれば、このエッセイはウィリアムズの主著のひとつである『長い革命』( 1961年刊行)の「結論」として書かれ、しかしけっきょく使われずに終わったものだという。のちに偶然から手稿が発見され、没後から 20年、ウェールズの歴史家ダイ・スミスの手になる伝記『レイモンド・ウィリアムズ──戦士の物語』に補遺として収められた。冒頭で発せられた問いにつづいては、「のちの読者にとってはおなじみとなる個人的な調子で、彼の知る複数の世代を通した経験と成長の交差について述懐」(ダイ・スミス)がなされるのだが、以下はその最後のところ。要はいちばん最後の段落をその興奮とともに引きたかったのだが、最低限文脈のとおるようにと考えるうちにまたぞろ引用が長くなってしまって申し訳ない。

 長い革命の歴史についてわたしが理解しているあらゆることから判断して、わたしは長い革命がまだ初期段階にあると信じている。あるひとつの世代のなかで新たな可能性が幻視され、伝達され、新たな人間の生のありようが認識される。闘争と奉仕によって、ある期待がかたちをなし、それはやがて実現されていく。同時に、ほかの人びとによってその期待は鼻で笑われたり、拒絶されたりする。それもときには、あの新たな生のありようが実現した際には成長するであろうまさにその男女によって。そして、にもかかわらずそれが実現したとき──たとえば貧しい人びとも書くことができる必要があると認められたとき──あれほど高く感じていた天井がすぐ上に迫ってわたしたちを圧迫し、わたしたちの頭を押さえつけてくるのである。なぜなら、わたしたちがそこまで成長したからだ。その天井を破り、新たな期待を設定することは、かつてと変わらず困難である。
 創造の努力はつねに、いまここでなされる。前の世代の創造はすでに伝達され、受け入れられた。しかし人間の精神は習慣の型にはまって鈍磨しがちである。ほとんどのラディカリズムが回顧的である(「かつては酷い不正があったが、現在はない」)のと同様に、わたしたちの成長についての思考のほとんどは、わたしたちがすでに知っていることに限られるものだ(「みんな十五歳まで学校に行くものだ」)。(略)

 わたしはこのつくりかえられた国において、なにか恒久的な平地があるとは考えない。わたしが目にするのは、いまだ未熟な成長である。(略)

 (略)この人間の可能性の感覚は、この成長への確信はあまりに高望みではないかといわれることがある。多くの人からその言葉を受けるのだが、それはどちらとも証明しがたい。経験のみが、この疑問を解決するだろう。
 そして、その答えがどちらであるかはじつのところ重要ではない。もし成長が未完成であるということが受け入れられるなら。もし、少なくとも目の前にはもう一段、昇るべき長い革命の段階がある(「みんなが十六歳まで学校に行くだろう──もう少し後になれば」)と認められるなら。この国をわたしは愛し、この国にわたしは献身する。そしてこの国にはともに仕事のできる人びとがいる。この国のありようは、ひとつの方向を見すえるわたしのまなざしに、わたしのものの見方に一致している。ここには記録があるのだ。このアクチュアルな成長の記録が。
以上、同前。p.41-43

 最後に──この引用だけを読めば余計にそう感じられるかと思うがやや唐突に──「国」への愛や献身が言われるわけだが、ここに登場する「国」という言葉の、この文章内でのこの使われ方のうつくしさに、わたしはちょっと目を開かれた思いだ。「国」にはこの用法もある、と言えばいいか。「うつくしい国」なんていうものはないが、国のうつくしさはある1]、と言えばいいか、つまりはそういったことをいまさらながらに思ったのだった。

1:国のうつくしさはある

ところで、「かたい石などない。石のかたさはある」と言えばなんだか仙人めく。もしくは名人めく。ってなんだこの註は。

副読本にと思い、高山智樹『レイモンド・ウィリアムズ──希望への手がかり』(彩流社)を買おうとこないだ新宿のブックファーストに行ったが、なくて、同じくレイモンド・ウィリアムズの『完訳 キーワード辞典』(平凡社ライブラリー)を買った。
「キーワード辞典」という書名からは、なんとなく軽めの「参考書」的なソレを思い浮かべてしまうところだが──と書きながらわたしはいま、「参考になる図書」というあらゆる本がそう呼ばれる可能性をもったよりニュートラルな意味ではなく、本についてのある種の序列をイメージしながら、「一段下がるもの」として「参考書」という言葉を使ってしまっているわけだが──、まったくそういったものではなく、アルファベット順に取り上げられた「 aesthetic 美的・美学的・審美的」から「 work 仕事・労働」までの英語 131語について、その語源から近現代における意味の変化までを──いま、「参考書」の意味についてわたしが(水準がぜんぜんちがうけど)ちょっと自省的にふりかえったように──丹念に調べて辿ってみせるというものすごい本であり、ものすごい仕事である。

「家族」「社会」や「大衆」「弁証法」などといった基本的な語彙の意味が、日常的な意味合いの形成から、政治的な変容を経てどのようにイデオロギー化されるまでが解き明かされる。決して哲学用語辞典ではなく、日常的に使用される意味が徹底的に追究されることで、その歴史性、イデオロギー性が露になっていくのだ。
Amazon.co.jp: 完訳 キーワード辞典の 野火止林太郎さんのレビュー

とあるとおりで、(本人は異議があったらしいが)カルチュラル・スタディーズの祖として紹介されることの多いレイモンド・ウィリアムズの、まさしく主著のひとつだろう。

Walked 2.5km • 3,077 steps • 35min • 118kcal.
Cycled 2.1km • 11min • 47kcal.
本日の参照画像
(2014年1月29日 19:31)

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