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Sep.
2016
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/ 10 Sep. 2016 (Sat.) 「地球は見える姿のとおりに」

午後出かけて、こまばアゴラ劇場へ。昼と夜の回のあいだに楽屋に顔を出す。こないだの日記の記述について、藤松(祥子)さんに叱られる。
そののち渋谷へ。ハチ公像前で待ち合わせて実家から出てきた母と合流し、Bunkamuraオーチャードホール、『 NHKスペシャル 映像の世紀コンサート』。わたし自身は「映像の世紀」シリーズの熱心な視聴者というわけでもないのであれだが、有名な(んでしょうきっと。「パリ燃え」と、ご通家には詰めて呼ばれもするらしいところの)テーマ曲「パリは燃えているか?」をはじめとする番組内の音楽が、作曲者の加古隆自身によるピアノと、フルオーケストラ(日本フィルハーモニー交響楽団、岩村力指揮)によって演奏されるなか、その背後に設置された大型スクリーンには「映像の世紀」と「新・映像の世紀」の両シリーズから再編集された記録映像たちが流れる。映像内の説明テロップは最小限にとどめられ、その時代背景や、映像に物語を与える全体の語りは、舞台上で進藤晶子アナウンサーが各パートごと、冒頭にナレーションを読み上げる、という内容の約二時間。つまりは生伴奏で、しかもでかい画面で NHKスペシャルを見るといったような案配で、そりゃあね、面白いよね。
テーマ曲の「パリは燃えているか?」(母はこれが大好きらしい)はやっぱり強力で、

私たち制作者も、加古さんのどの曲を、どの場面で流すかということに心を砕きました。特にオープニングとエンディングに流れる「パリは燃えているか」。あの曲のイントロが聞こえ始めるタイミングをどこに置くか、前後のナレーションをどういう文章にするのか、曲の聴かせどころを大切にしながら、どう隙間にナレーションを配置していくのか。「パリ燃え」は、番組の生命線でした。
寺園慎一「今も流れ続ける『パリ燃え』」(当日パンフレットより)

と「新・映像の世紀」シリーズのプロデューサーがコメントするとおり、本来ばらばらな記録映像たちを一気に編み上げ、諦念と希望とが混じり合うある超越的な視座にまで視聴者を急浮上させる/させてしまう力をもっている。あとまあ、終幕ちかくに出てくる映像で、2015年の、同時多発テロ直後のパリ・レピュブリック広場におけるムスリム男性のパフォーマンス──目隠しをし、両手を広げて立つ彼の足もとには「わたしはイスラム教徒。信じてくれるなら、抱きしめて」と書かれた紙がある──と、それに応答する(涙を浮かべつつ、思いのたけ彼をハグする)パリ市民たちの映像には、どうしたって泣かされてしまうのだった。
さていま、これは何か言及しておかないといけないんじゃないかという気にさせられるところは例の「(二重)国籍問題」だけれども、まず気分的なことを言うならば、

@videobird: 国籍問題は本当に馬鹿馬鹿しいと思っています……小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句「蓮舫議員は別に好きじゃないが 」
2016年9月9日 17:11

@videobird: いまこそ世界に率先してすべての日本人から国籍がなくなればいいのに
2016年9月9日 17:13

という、とり(・みき)さんのツイートがまるまる代弁してくれているとおりである──もちろん後者のつぶやきについて、それが〈国籍を意識しなくていい〉強者から〈国籍を意識しなければならない〉弱者への抑圧として機能してしまう恐れは充分に配慮しなくてはならないものの、とはいえ、とりさんがここで唾棄している(と思われる)蓮舫議員をめぐる言説は、そういった配慮以前の、まったくストレートにくだらない言説たちである。
とりさんのそのつぶやきにも呼応して、『映像の世紀コンサート』のナレーションにおいては、月面着陸をはたしたアポロ 11号の乗組員のひとり、マイケル・コリンズのつぎのような言葉が紹介されていた。

地球を見ながらこんなことを考えていた。世界の指導者がはるか上空から自分たちの星を見たら、彼らの態度も根本から変わるはずだ。何よりも重視している国境は見えないし、言い争いもぱったり聞こえなくなる。地球は見える姿の通りにならなければならない。資本主義者も共産主義者もいない、青と白の姿に。金持ちも貧乏人もいない、青と白の姿に。

 月面という、文字どおり超越的な視座に立つこの言葉(あ、コリンズ自身は 3人の乗組員中でただひとり月面に足を下ろすことのなかった/ずっと船内で作業してたひとだけど)もまた、それをいま、たんに強者の言葉として発したときには、国や民族といったものに強くアイデンティティをもとめる(/もとめざるを得ない)被抑圧者・弱者の声とすれちがうだけになる可能性はあるけれども、ただ──映像というメディアが属するところの〈システム〉=〈非真正な想像のネットワークによる社会〉の側が表明すべき理想としてはやはり、この「青と白の地球」こそが、歴史的なあるひとつの到達点であることはまちがいないだろう。
またいっぽうで、蓮舫議員の出自を問題にしているひとたちが行っているのは、「自分たちのアイデンティティのために他者を他者化する」という意味での「オリエンタリズム」であり、そうやって日本人を〈純化〉させていく作業は、つまるところ玉ねぎの皮剥きに似て、剥けば剥くほど、ただ本体がなくなっていくだけのことである。

 「他者の他者化」としてのオリエンタリズムは、自己を、自分の周囲の環境や関係から切り離し(「脱-埋め込み」)、自己の環境のすべてを眺望できる「超越的位置」におかれた主体とするためのものです。それは、歴史的には、西欧の白人ブルジョワ成人男性が、自己の一部に含まれながらも否定的なものとされているもの──依存性、怠惰や感情の表出、受動性、ヒステリー、性的放恣、同性愛、呪術的思考、暴力的行為など──を、植民地のネイティヴや下層階級、女性、子どもなど、絶対的な差異をもつとされる「他者」へ投影し、それを他者の本質とすることで創りあげた他者像を「鏡」として、自分をそれとは正反対の自律的な自己像=アイデンティティを確立するという形で始まりました。

 ですから、その他者は別にオリエントでなくてもいいのです。自分が自己の中で抑圧しなければ自律的主体が保持できないものを、「他者」に投影するということ、それによって自己を周囲の環境や関係からは自律した主体とみなせるようにすること、そうやって得られた超越的立場から全体を眺望することで獲得しうるとされる「真理」ないし「知」が「他者」に対する支配を正当化すること、それが「他者の他者化としてのオリエンタリズム」のポイントというわけです(最後のポイントがサイードのいうオリエンタリズムと重なります)。

 それが私にとって問題となるのは、「政治的に正しく」ないからではなくて、周囲の関係からなる対話的自己・状況的主体を排除してしまい、そのような対話的関係からしか生まれない「自己のかけがえのなさ」、「自己の代替不可能性」を否定してしまうからです(つまり、対話的自己を「しがらみ」に拘束された依存的な自己とすることによって)。
小田亮「オリエンタリズムと対話的自己について」(小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」)

本日( 10日)の電力自給率:48.3%(発電量:10.4kWh/消費量:21.5kWh)

Walking: 5.2km • 7,273 steps • 1hr 28mins 42secs • 249 calories
Cycling: 1.9km • 8mins 52secs • 40 calories
Transport: 59.3km • 1hr 28mins 32secs
(2016年9月12日 18:43)

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