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Mar.
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/ 8 Mar. 2017 (Wed.) 「教育勅語をめぐる言葉と欲望、そして 24条」

ロビン。2007年5月。

国際女性デー。
だからほんとはそっちの話題も扱いたいのだけれど、うーん、やっぱり何か書いたほうがいいですかね、「教育勅語」について。
というわけで、検討材料としてのテクスト──参議院・予算委員会での質疑──をまず。ニュース記事に載っているものだとどうしても〈要旨〉として編集された発言になってしまうので(もちろん、そりゃ要約しないと記事に載っからないよね、というやりとり具合であって、それ自体はしょうがない)、YouTube動画から自分で書き起こしたのが以下。

福島
〔引用者註:教育勅語の〕最後の一行まで全部、正しいと〔『 WiLL』 2006年10月号の新人議員座談会において〕おっしゃってますが、これでよろしいんですね?
稲田
私は、教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして、親孝行ですとか、友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこはいまも大切なものとして維持をしているところでございます。
福島
ここ〔座談会のなか〕で、「〔最後の〕一行も含めて、教育勅語の精神は取り戻すべきなの……」とおっしゃっています。これも〔この考え方をいまも〕維持されるということですね?
稲田
いま答弁いたしましたように、教育勅語に流れているところの、核の部分、そこは取り戻すべきだというふうに考えております。

森友学園3/8稲田「教育勅語を取り戻す」福島みずほ質疑:参院・予算委員会 - YouTube、17′ 29″ ごろからの書き起こし、太字強調は引用者。

 ひょっとして何も考えていないのではないか、という感想もいっぽうにおいては抱くものの、しかし書き起こしのために何度も繰り返し聞いているうち、これ、よくできた発言だなあということにも気づかされて、ちょっと驚く。「よくできた」というのは、たぶん稲田大臣にとっては無意識のうちにだが、右派のレトリックがここに見事に凝縮され、マッピングされているということである。
最初に指摘しておきたいのは「道義国家」なる語で、書き起こした箇所以外でも稲田大臣は繰り返しこの言葉を用いるのだが、じつはこの「道義国家」ないし「道義」という言葉そのものは教育勅語に出てこない。それが出てくる(おそらく稲田大臣が読み、参照している)のは「国民道徳協会訳(佐々木盛雄の個人訳)」とされる教育勅語の現代語訳においてなのだが、その訳は全体をとおして相当な意訳──皮肉を込めて言えば〈戦後〉訳?──になっていて、冒頭の「道義国家」の箇所などはそれに対応する語が原文にないほどのものである。

〈原文〉
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
〈国民道徳協会訳〉
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
〈現代語訳/拙訳〉
思うに、わが天皇家の始祖がはるかな昔に国をはじめられ、そこに代々の天皇が築かれてきた徳は、深く厚いものである。

 とはいえ、同時に、文脈を戦中・戦前の帝国主義的言説全体にまで広げるならば、「道義国家」というこの国民道徳協会訳の言葉は何ら唐突に出てきたものではなく、早川タダノリさんの指摘にあるように、それは敗戦以前の日本が行ってきた帝国主義的な振る舞いと深く結びついた言葉なのである。

@hayakawa2600: 「道義国家」アピールが出てくるのは、例えば「世界史の転換は旧秩序世界の崩壊を必然の帰趨たらしむるに至つた。ここに我が国は道義による世界新秩序の建設の端を開いたのである」(文部省教学局『臣民の道』昭和16年)とかなわけですね。東亜新秩序を道義を以て形成する、というときに使う。
2017年3月9日 2:05

@hayakawa2600: @hayakawa2600 大串兎代夫『大東亜戦争の意義』(教学叢書、昭和17年3月)のテキスト(一部)をリンク先に挙げましたが、公式イデオロギーでの「道義」の一般的な使われ方がこちらになります。これモロに帝国主義の論理なんすよ。 http://kyokounokoukoku.tumblr.com/post/158155198...
2017年3月9日 2:13

 むろん稲田大臣としてみれば、自身の使う「道義国家」にそのような意味合いはなく、ただたんに「道徳的な国家」という意味で言っているのだと説明するのだろうが、それは歴史を(都合よく)無視した態度なのであって、たとえば「八紘一宇」という言葉を使い、要は「国際協調」を言いたいのだと説明する態度と、さほど変わらないものである。
ということを見ておいたうえで、まずは「核の部分」──いったい教育勅語のどこを「核」とするのか──について。稲田発言では「親孝行ですとか、友達を大切にするとか、そういう核の部分」というふうに並べられ、つまり教育勅語の中ほどで列挙される道徳項目たちが核なのであるとしているように(も)読める。しかしながら、もちろん本来的な核はそこにはなく、その道徳項目をあいだに挟んで前後に述べられている天皇と臣民との関係、および道徳項目の最後に位置する「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」こそが核であるのは言うまでもない(だいたい、それ以外の道徳項目はフツーのことしか言ってないわけだし)。質疑のなかで福島議員が「最後の一文まで全部(含めて正しいとおっしゃるんですね?)」と繰り返し念を押しているのもそのためであり、たいする稲田大臣が終始その問いには直接答えていないことからもあきらかなように、稲田大臣はここで、けっしてそれを否定しないのである。さて、では、そこの国民道徳協会訳はどうなっているか。

〈原文〉
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
〈国民道徳協会訳〉
非常事態の発生の場合は、身命を捧げて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。
〈現代語訳/拙訳〉
ひとたび危急の事態となったときにはその正義心と勇気を天皇に捧げ、永遠につづく皇室の運命を助けなければならない。

 はい。国民道徳協会訳においては、ほぼ、後半の「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」が訳されていない(消されている)と言ってもいい内容になっている。また前半部、拙訳でははっきり「天皇」と訳したように、原文にある「(おおやけ)」はここにおいて天皇の意だが、それを戦後的な「公共」と読み替えることによって、「国の平和と、安全」という原文のどこにもない言葉が呼び出されてもいる。
教育勅語を擁護する向きにはまた、戦後、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」となったのだから、教育勅語のなかの天皇/皇国の部分をそうした戦後的な意味で置き換えるなら(前述のように「おおやけ」を「公共」と読み替えるなら)、何ら問題のない教育方針として読めるではないかとする声があるようなのだが、その言い分にはちょっと、ほんとうに腹が立ってしまった。戦後処理における占領国の思惑も絡んだ──ふだんなら、同じ話者が「おしつけ憲法」と呼んでいるだろうところの憲法の──象徴天皇制を、そのように援用するのであれば、だったらこっちは天皇の戦争責任をこそ問いたくなるというものだ。
つづいて「取り戻す」。ここで引き合いに出したいのは教育基本法の第二条だが、この現在の教育基本法は第1次安倍内閣のもと、2006年に全面的な改正がなされたもので、その第二条を旧法のそれとともに並べるならばこのとおりだ。

〈旧法〉
第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
〈現行法〉
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 この、やけに長ったらしくなった第二条に掲げられている「教育の目標」たちのなかに、教育勅語にある徳目の大半は含意されているように思われ、またそれはじっさい、第1次安倍内閣が「教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとし」(『 WiLL』 2006年10月号の座談会における稲田氏の発言)た結果の条文でもあるはずだ。であれば、何も教育勅語を持ち出すまでもなく、教育基本法で充分ではないかとも指摘できそうだが、しかしここでちょっと立ち止まって右派の気持ちになり、教育勅語の徳目にあって教育基本法第二条に欠けている(と右派が考えるであろう)最大のものは何かと考えたとき、それはたしかに、「親孝行」なのかもしれないと気づかされる。
教育基本法において、教育勅語の「親孝行」に対応するのはおそらく、「親」や「子」といった属性を離れてより根源的な理念に立ち返った、「個人の価値を尊重して」「自他の敬愛と協力を重んずる」という部分であろう。そこには、何よりも〈個人〉という考えを尊重する──それが親孝行という一局面における徳よりも先立ってあり、第一義的であるとする──日本国憲法的な価値観がいまだ保持されている。そう、そしてそれは、日本国憲法第24条と、その改正案(自民党草案)の関係──戦前の家父長制を否定するため、家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた 24条と、それを書き換え、〈個人の尊重〉から〈家族の尊重〉へと条文をシフトさせようとする改正案の関係──とも重なるものだ。
その意味で、やはり「核」となるのは「親孝行」なのかもしれないと気づかされるのは、つまり、「いったい親とは誰か」ということがあるからで、言うまでもなくそこには、〈天皇=国民の父、国民=天皇の赤子〉という明治期に成立した家族国家観が容易に接続可能だ。そこのところはいっそ、右派自身に説明いただいたほうがはやいかもしれない。

@takenoma: 「臣民」とは、臣たる民のこと。総理大臣とは、臣の代表。憲法は「大臣」の文字を条文に用いている。臣民という発想は、現行憲法の理念に反しない。そもそも臣民は、天皇の所有物という意味ではない。天皇と臣民の関係は、親子のような絆で結ばれている関係。いわゆる国民は、現行憲法でも臣民である。
2014年2月21日 20:04

 ああ、やはり、レトリックはうまくつながっているのだった。
そしてこうして話はけっきょく、〈国際女性デー〉的な問題意識とも──哀しくも──つながってしまったという次第。
たしかにいま〈父〉は不在だ。象徴天皇制によって〈空位〉となったその位置に、巧妙に〈国家〉を滑り込ませようとする欲望が、これらのレトリックを動かしている。
まっぴら、ごめんなのである。(わたしはそのように言いたい。もし可能なら女性たちとともに。)

Walking: 3.1km • 4,016 steps • 43mins 22secs • 145 calories
Cycling: 1.2km • 5mins 19secs • 25 calories
Transport: 34.6km • 29mins 48secs
本日の参照画像
(2017年3月11日 22:28)

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