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Mar.
2017
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/ 10 Mar. 2017 (Fri.) 「その夜高架下で、『ささやきの彼方』を観た」

戸のガラス越しのロビン。2008年6月。

夜、東小金井。中央線の高架下に位置するヒガコプレイスで、女の子には内緒『ささやきの彼方』を観る。ヒガコプレイスのなかにある、ふだんは「 ONLY FREE PAPER ヒガコプレイス店」──全国のフリーペーパー・フリーマガジンを専門に扱う、モノを売らないお店──であるところの小さなスペースが会場。舞台装置として使われていた大きな木のテーブルとはべつに、通常営業時にはもうひとつテーブルがあって、その上に(も)フリーペーパーが平積みになっている。それをどこかに片付けて、観客用のイスが置かれていた。舞台装置になっていたテーブルはもとからあの位置にあって、そっちは座って読むために設置されているものだ(バックナンバーなどの稀少なフリーペーパーは「店内閲覧のみ」になっている)。「ここでどうやって上演する/観るんだろう?」とも思っていたのだが、そんな感じ。
と、事前に一度会場を訪れていたのは、この『ささやきの彼方』の戯曲が全編掲載されているフリーペーパー『往復曲線』を入手するためだ。戯曲を先行発表することで観客とのコミュニケーション機会を増やし、あらかじめ戯曲の形態で読む体験と、舞台化された上演を観る行為(、そしてまた戯曲に戻る行為)というその複数回の出会いのなかに、いわば往復書簡のように時間的幅をもって生起する、受け手・送り手相互の物語への働きかけの〈往還〉を生むことができたら、という試みであるらしい(解釈ちがってたらすいません)
終演後、たんにハケる場所がないってことなのだろうが、ひとり芝居を演じ終えた高山(玲子)さんもそのまま客といっしょにいて、着替えたり、しゃべったり、金柑(だっけ?)配ったりしていた。高山さんについては先日「つぎのレイコはきみだ」( 6日付)を書き、それに本人から「いいね」はもらったものの、特段それ以上のリアクションがないなあと思っていたところだったが、高山さんとしては「日記には日記で(ブログにはブログで)応答しよう」と思っていて、でもけっきょく書けず、ということだったらしい。そうだったのか。
「いやー、ヤだなー、あたしバカみたいだよねえ」と笑い、やけに恥ずかしがる高山さんでもある。件のわたしの日記を読み、あらためて文章化されたかたちで自身の行動や言葉を目にすると、そういうふうに──バカみたいに──見えるということのようだ。いや、そんなふうに描いたつもりはまったくないんだけどね、「いやー」と高山さんは勝手に恥ずかしがっている。あと、「相馬さん、なんかいいよね」とも褒められた。例によってぐにゃっとした物言いで、自分で勝手に了解して口にするからいったい何が「いい」のかさほど把握しきれてはいないのだが──たぶん、文体というか、日記やツイッターでの振る舞い具合のことを指して言ってるんだと思うのだが──、ともあれ褒められたので報告しておきたい。「いい」らしいよ、おれ。
物語の核となるのは、駅のホームから電車に飛び込んで自殺するひとりの女性だ。その女性をひとつの基点にして、向かいのホームの女性、事故に見舞われることになるその電車に乗っていた女性、事故のために開かなくなってしまった踏切で足止めをくらう女性、踏切でうずくまるその女性を見かける帰宅途上の女性、……というふうに、あるかないかの一瞬の関係──相互的だったり一方的だったりする束の間の視線──の上に結ばれた女性たちが、高山玲子という俳優の身体に幾重にも折り畳まれていく。

女 E
その時やっと彼女が誰か気付いた。なんだ。私か。

 ひとりの人間の無数のバリエーションであるかのような彼女たちは、〈私〉という存在の普遍性と単独性を同時に示すものだ。〈私は彼女だったかもしれない〉という、個の根源的な交換可能性=普遍性にこそ根差して、〈にもかかわらず私である〉ことの奇跡として、個の単独性=交換不可能性=かけがえのなさ1]はある。

1:個の単独性=交換不可能性=かけがえのなさ

高山さんはかけがえのない存在だが、それは高山さんがかわいいからでも、いい俳優だからでもない。そうではなく、仮に高山さんがまったくの無個性であったとしても、われわれにとって、そもそも高山さんはかけがえがないのであり、それが個の「単独性」である。「かわいい」や、「いい俳優である」といった属性/個性は、そのひとの「単独性」ではなく「特殊性」にあたり、それは〈普遍性 - 単独性〉という軸とはべつの、〈一般性 - 特殊性〉という軸の上にある。世間が放つ「個性的であれ」という要求・命令ほど凡庸なものはない、でしょ?

モノローグによるポリフォニー。ポリフォニックなモノローグ。あるいはそれは、基本的に〈座〉のものとして作られる演劇が不可避に抱え込む多声性なのかもしれないものの、しかしそれにしても、今夜の高山さんは見事に──そう、@HRAK_GMさんの言葉を借りるならば──「無限で固有な〈私〉」だった。

@HRAK_GM: 女の子には内緒『ささやきの彼方』戯曲では有限で匿名だった〈私〉たちが高山玲子の身体を通って無限で固有な〈私〉に。誰に対してどのように話される言葉か、戯曲の要請に応じて話法は繊細に(演じ)分けられており、脚色も入った(てたよね?)ことで説得力が増。高山さんとても良い。
2017年3月12日 19:32

舞台上の高山さんを見つめることで自身も〈視線のつらなり〉に組み込まれることになる観客は、あるいはその脳内の往復書簡のなかでそれぞれに、またべつの彼女/彼たちを──〈街〉からも、ついには〈沿線〉からも離れて──書き加えることができるかもしれない。無限の眼差しに貫かれて〈世界〉の結節点となる高山さんはそのとき、まさしく等身大の祈りとしてそこに立つだろう。

あの時、あの場所にいた私たちは、これから一体どこに行くのだろう? もっと、他に道はあったんだろうか。行き先は決まっていても、そこから、また違う電車に乗れたんじゃないだろうか。もう一度、誰かに会えたのではないだろうか。たくさんの私が埋まっている街で、まだ歩き続けている人々へ、私は祈りを乗せる。

最後に言っておくが高山さんはかわいい。そのことについてはちょっと、あらためて念を押しておかなければならないと思わされた夜だ。でね、終演後にしゃべっていて、しばしば見せる表情が誰かに似てるなあと思っていたのだったけれど、わかったよ──いいですかー? 褒めすぎますよー、たぶん褒めすぎますからねー?──、相武紗季だ。
またね。つぎは体操教室かどこかでお会いしましょう。

Walking: 5km • 6,927 steps • 1hr 10mins 21secs • 235 calories
Cycling: 2.4km • 13mins 47secs • 53 calories
Transport: 114.9km • 2hrs 28mins 45secs
本日の参照画像
(2017年3月15日 00:55)

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