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Mar.
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/ 12 Mar. 2017 (Sun.) 「『 2020』と『いつ高』を観る」

ロビン。仕事用の椅子の上に寝る。2008年11月。

もう当分演劇はいいんじゃないか──アスレチックとか、もっとほかのこともすべきじゃないか──ってくらいのペースでここのところ観ているが、今日はまず下北沢「劇」小劇場。西尾佳織ソロ企画『 2020』。西尾さん作・演出のひとり芝居で、稲毛礼子、野津あおい、葉丸あすかという三人がそれぞれのバージョンを編む、そのうちの稲毛さんの回。すごーく面白かった。詳細は後段で。
観終わって駒場東大前へ。「いつ高」の vol.2を当日券で観ようと思っていたのだが、井の頭線の車中で「本日の vol.1、vol.2公演中止」の報を知る。おやまあ。で、選択肢としては下北沢に戻り、『 2020』の野津あおいバージョンを観るというのと、ぽっかり空いてしまった時間をただぼんやり過ごすというのがあり、悩んだ末に後者をとった。ぼんやりした。東大の構内を抜け、日本近代文学館のあたりまであてもなく散歩。ラーメンを食べ、カフェで一服。
そうして無為に過ごしたのち、これは予約してあった「いつ高」の vol.3『すれちがう、渡り廊下の距離って』をこまばアゴラ劇場で。大場(みなみ)さんと大村(わたる)君が出てる。これについてはまあ、「いったい白子は何を考えているのか──その傾向と対策」とでも題されるだろうところの文章をぜひ長々とものしたいところだけれども、えーとですね、その前に『 2020』の感想がねえ、長くなっちゃったんだなあ、これが。なので「いったい白子は〜」についてはまた今度、稿をあらためて書きたいと思う。
大場さんから、貸した本は返ってこず。2文字くらいしか読んでないらしい。
で、『 2020』に話はもどる。

2020……マレーシアが、「この年までに先進国入りする」と宣言した年。マレー語で「ドゥアプルドゥアプル」。
西尾佳織ソロ企画「2020」下北沢公演 | kaorinishio | note

 タイトルの「 2020」という数字に直接(?)含意されているのは上のとおりで、「ビジョン 2020」と呼ばれるこのマレーシアの国家戦略は 1991年、当時のマハティール首相が掲げたもの。つまり 30年計画。1985年生まれで「 5歳から11歳まで、マレーシアのクアラルンプールに住んでいた」という西尾さんは、まさにこの「ビジョン 2020」が掲げられてまもないマレーシアに暮らしたことになる。
「先進国」って何さ? という疑問はまず思うところだが、「ビジョン 2020」の実現を託されるかたちで 2010年に策定された現ナジブ政権の長期経済政策=「新経済モデル」( NEM、2011~ 2020年までの計画)では、「先進国=高所得国」ときっぱり定義し、具体的目標を「 1人あたり GNI(国民総所得)15,000米ドル」に置いている。と同時に、「経済面だけで発展すべきではない」ともしていたマハティールの「ビジョン 2020」は、複合多人種社会であるマレーシアの宿願(?)として、「バンサ・マレーシア(マレーシア国民)の形成」を構想するものでもあった。
というわけで、いきおい「マレーシアの労働政策中長期経済政策と労働市場の実態なる 2013年の報告書を読んでみてもいるわたしだが、そこにはこのような記述がある。

 2010年策定の NEMでは、「外国人労働者に頼らない経済」への転換を実現しない限り「先進国=高所得国」の実現はおぼつかないと強調。10MP(第 10 次マレーシア計画)では 2010年にマレーシアで就業する 310万人の外国人労働者を 2015年までに 150万人に半減するとの 数値目標を掲げている。NEMはマレーシアが「中所得国の罠」に陥り、ここから抜け出せないのは多過ぎる低賃金外国人労働者の存在が産業の高度化、高生産性経済への転換を目指すイノベーションを阻害しているからだと繰り返し論じている。
 だが、これまでは労働市場が逼迫し、製造業を中心とする企業が外国人労働者の増加を強く求めるようになると、政府はその都度、妥協を図り、結果として外国人労働者が増加してきた。この点は後ほど第6章の外国人労働者の項で検討するが、NEMが経済成長の牽引策として推進している 12の基幹経済分野( National Key Economic Areas: NKEAs)には鉄道建設などの大規模公共事業が数多く含まれている。建設労働者の多くが外国人であることを考えると、外国人労働者半減政策の実現は不透明といわざるを得ない。
独立行政法人労働政策研究・研修機構編「マレーシアの労働政策中長期経済政策と労働市場の実態、p.10

80年代はじめの工業化の推進は、同時に道路、ビル建設などインフラストラクチャー整備のための建設ブームを伴った。このため、日本でいうところの 3K職場である建設現場の労働力不足は深刻なものとなり、ここにもインドネシア人労働者が入り込むことになった。
同、p.110

 これを読み、劇中の「私(かおりちゃん)」が眺めていた建設現場の労働者たちは、はたしてマレー人だったのだろうか、はたまた彼の地における「外国人労働者」だったのだろうかということをふと思う。どっちだったらどう、という何かその先の考えがあるわけではない。また、あそこで語られる「マレー人=怠惰」というイメージは、「ビジョン 2020」へと向かうマレー人(の一部知識層?)が、そのある種オリエンタリズム的な眼差しをいったん自ら内面化したものでもあったはずだ。

経済的に取り残されたマレー人社会に変革の意識が欠けていることを問題にした後に首相になる政治家マハティール・モハマドの『マレー・ジレンマ』( 1970年)および経済的遅れを与えられた宿命として甘受しがちなマレー人メンタリティを変革すべきことを訴えた UMNO青年部編『精神革命』( 1971年)の二つは、5.13事件の直前に起きたマレー人の経済的後進性の非経済的要因(怠け者、イスラム論など)をめぐるパーキンソン×ワイルダー論争に対するマレー人側からの回答でもあり、ラザクらの NEP策定に少なからず影響を与えたといえよう。
小野沢純「ブミプトラ政策多民族国家マレーシアの開発ジレンマ」、『マレーシア研究』第1号( 2012年)、p.12

 ちなみに、マハティールの『マレー・ジレンマ』では、マレー人学生の成績が中国人(華人)学生にたいして劣っている要因を「遺伝」と「環境」の二側面に見いだし、遺伝の問題は解決困難だが、環境の問題は複雑ながらも解消が可能であるとして、マレー人のもつ遺伝的劣等性を逆差別的・保護的優遇政策によって補うという考えが述べられているらしい(「らしい」で申し訳ない。『現代アジア事典』他からの伝聞)。で、マレー人は近親結婚を繰り返してきたので遺伝的に競争に弱い、というのがマハティールの言う優生学的「遺伝」要因。
話が逸れた。(いや、べつに逸れてもいないんだけど、いきなりそんなところへ飛んで大半の読者の興味と読む気を失せさせる前に、もっと述べておくべき感想はあった。)
というわけで、「ビジョン 2020」に示された未来像に向け、直線的・進化論的に〈国のかたち〉を整え(られ)ようとするマレーシアの姿が後景にうっすら示されつつ、そこに重ねて、語り手である「私」の個人史──幼少期から現在にまで至る自己形成の刹那々々──が語られる、という舞台なのだが、そのマレーシア云々の部分についてははじめに引いた「 2020」についての註がなければほとんど気づかないほどのもので、戯曲の語りは終始、「私」の側に微視的に寄り添う。とはいうものの、西尾佳織の演出──もしくは不演出──のもとに三人の俳優が「西尾佳織」を演じるという企図それ自体のフィクション性により、当然ながらその「私」語りは「私」に収斂することなく、むしろ「私」の外延を曖昧で大胆なものにしていく。
そのことはテクストによっても補強されており、「語り手である『私』」というふうにさっきは書いたけれども、じっさいには複数の対象に焦点化されるかたちで戯曲は書かれ、テクストは複数の声をもっていて、それが「私」という枠をかろうじて保っているのはつまるところ俳優の身体によって──ひとりによって演じられているということによって──である。その意味で、「語り手である『私』」とはまず、ほかならぬ「稲毛礼子」のことでもある。その、〈ひと一人分〉よりもひと回りかふた回り外延が大きくなった「私」のなかに生起する複数の声を、あたかも身体の重心移動だけでもって往き来するように処理し、そこにある軸としての「私=稲毛礼子」を提示することで、結果、総体としての「フィクション=西尾佳織=私」を現出させえていた稲毛さんにまずは「すげえ!」と言うしかないのだったけれど、えーと、なんの話だっけ。

@reikoinage: 久方ぶりに演劇の稽古していて、なんで人前でこんなベラベラしゃべんなきゃならないんだと、嫌だよ恥ずかしいよ、俳優なんて神経がバカになっちゃってんだよ、って思って今日松村さんのモメラスを観に行ったら、神経バカになっちゃってる人がたくさんいて、楽しかった。
2017年2月23日 19:46

というちょっと前のツイートが印象的だったが、終演後にしゃべったときも稲毛さんはこの「なんで人前でこんなベラベラしゃべんなきゃならないんだ」という〈俳優の不思議〉を言っていた。その不思議のことも思う。それは素朴で、ごくまっとうな懐疑であるのと同時に、いっぽうで「なぜ俳優はそれを不思議だと思うんだろう?」という真逆の問い方がたぶん可能なところの、もうひとつの不思議とも表裏一体であるように思える。つまり、〈役を信じる/役を疑う〉という二項があったとき、両者はそれぞれ、お互いがお互いを内包するようなかたちでしか存在しえないのではないかということで、そのことを指して「脱構築」と呼んでしまうにはちょっと手続きが雑だが、〈信じる/疑う〉という二項をおのずとつなげ、媒介する回路として、〈演じる〉という行為はあるのではないかとひとまずは考えたい。
奇しくもたてつづけに観たふたつの舞台がどちらも「複数の声/話者の登場するひとり芝居」だったこともあって、おととい観た『ささやきの彼方』との差異と類似ということもつい思ってしまうところだ。たとえば両者ともに映像を用い、そのひとつは「走行する電車から車窓外の風景を撮ったもの」ということでも同じだったのだが、『ささやきの彼方』ではそれが横移動する風景だったのにたいし、『 2020』では進行方向に向かって前進していく角度からの風景だった。このちがいはいったい何だろう──何を読み込めるだろう──ということを思ったりしていた。

 自分の話をしたいわけではなく、自分なんてものがどこまで「どうでもいい、どっちでもいい」になれるのか、つまり、作品として現われるものの由来が誰にあろうと、本当だろうと嘘だろうと「どうでもいい、どっちでもいい」となるのが作品(フィクション、物語)をつくるってことなんじゃないかと思っているのだった。「当事者性」という言葉の指す範囲を引き延ばしたり、パタンと裏返したり、ウニャウニャ揺すったりするうちに、「当事者性」という言葉に感じるカクカク切り分けて分断してくる感じや、不適切を恐れて言葉や振る舞いをつい飲み込むに至らされてしまう感じ(いえ、人のせいにするわけじゃないんですが)を無効化してやりてえ、という気もある。
西尾佳織ソロ企画「2020」 | kaorinishio | note

 この、「当事者性」ということへの揺さぶり/引き延ばしということについてはなかなかに〈成功〉していたのではないかといまふと思ったわけだが、つまり、舞台を眼差す者であったわたしが影響され、こうしてマレーシアについての付け焼き刃的な知識でもってあれこれ取り留めもなく書いてしまっていることに、それは端的に現れているのかもしれない。なんてね。
いやーしかし、やっぱ観ときゃよかったかなあ、野津さんバージョン。

Walking: 7.7km • 11,821 steps • 2hrs 4mins 22secs • 365 calories
Cycling: 1.9km • 12mins 28secs • 43 calories
Transport: 62.4km • 1hr 48mins 57secs
本日の参照画像
(2017年3月25日 19:16)

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