4
Apr.
2017
Yellow

最近のコメント

リンク

/ 7 Apr. 2017 (Fri.) 「とりあえずの引用たち」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

池田純一『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ウェブにハックされた大統領選』(青土社)

『すばる』2017年5月号

「連帯」について考えるため、小田亮さんの「戦略的本質主義を乗り越えるには(3)」「創発的連帯と構築された外部」を再読。くー。面白い。が、むずかしい。が、面白い。
後者の論考から興味のままにかいつまめば、まず、あらかじめ「連帯」のための理想的なかたちや目標を提示しようとすることは「排除」を孕んでしまうがゆえに避けるべきだというジュディス・バトラーの批判が参考になる。そうした批判のうえでバトラーが言うのが「創発的連帯(取りあえずの連帯)」だが、そこにおいてはいっさいの予測なしにさまざまな立ち位置の人間が集合するのであり、アイデンティティは前提とされず、連帯した集合体がもつ意味やかたちは連帯が実現する以前には知りえない。それでいけば、「いかにして連帯は可能か」といった特権的な問いはそもそも発するべきではない──少なくとも、その問いを安易に実体化すべきではない──ということになるだろう。
しかしなんといっても、ハナシはそっから先なのだ。が、時間なら無いのでそっから先のハナシはまた今度あらためてしたい。「創発的連帯と構築された外部」のほうは口頭発表( 2002年)の原稿で、そののちあらためて論文として書かれたのが「『模倣』という戦術について」( 2005年)らしいが、とにかくこのふたつ(あとまあ、同じ議論は当然「日常的抵抗論 Web版」のなかでも繰り返されているが)がすこぶる面白い。あー!!

 たしかに、アイデンティティが構築されたものであり不安定であることは隠蔽されており、その隠蔽によってアイデンティティは自然化されている。しかし、そこで隠蔽された不安定性や無根拠性は、近代のアイデンティティのシステムにとって、いわば折込済みのものであり、むしろ安定したアイデンティティを求める人びとの密かな動機となっている。したがって、それを暴露したところで、その不安定性は、アイデンティティの危機として意識され、人々をより強迫的にアイデンティティのパフォーマンスへと向かわせるだけなのである。
小田亮「『模倣』という戦術について──あるいはシステムの外部の語りかた──、『日本常民文化紀要』25輯、2005年3月、p.131

 したがって、自分の生活の場を植民地化するシステムに抗して「生き抜く=息抜く」うえで重要なことは、近代のアイデンティティの隠された不安定性や深層の差異をたんに暴露することではない。重要なのは、その不安定性を単一の方向へむかう「欲望」を駆り立てるものとするのではなく、多方向への変容の「快楽」を用意してくれるものとしてとらえなおすことなのである。それには、近代のアイデンティティの不安定性を種的同一性という枠組みによって安定させるのではなく、日常的な〈顔〉のある関係における非同一的な共同体において安定させる道をさぐることが必要となるだろう。
小田亮「日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ」

言語の内部に「構築された外部」が隠蔽しているのは、それが構築されたものだということだけではないのです。構築主義者はその「構築」という事実を暴露することで、支配構造を解体できるとしていましたが、それはレッド・へリングなのです。そこには構築主義者が見落としているもうひとつの重大な隠蔽があります。この「構築された外部」は、実際にある「外部」をも隠蔽するものなのです。つまり、「構築されたオリエント」がオリエントを隠蔽し、「構築された身体」が「身体」を隠蔽し、「構築された他者性」が「他者」を隠蔽しているように、です。この「隠蔽」は構築という事実を暴露したところで解体されません。とは言っても、構築された虚構の外部の向こうに「真実の外部」があるというのではありません。実際にある外部とは「無垢の自然」やクリステヴァのいう「母の身体」のことではないのです。クリステヴァの誤りは、その「外部」を空間的に捉えて実体化してしまったことにあります。ここでいう、実際にある外部(そして実際にある身体や実際にある他者)とは、関係性の「過剰」のことなのです。
小田亮「創発的連帯と構築された外部」

あ、ちなみにレッド・ヘリング( red herring、燻製のニシン)というのは「人の注意をほかへそらすもの、偽の手がかり」の意。
閉店間際のオリオン書房に滑り込んで、池田純一『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ウェブにハックされた大統領選(青土社) と、『すばる』の 5月号 を買う。『すばる』のお目当ては奥泉光+いとうせいこうの文芸漫談で、今作は「横溝正史『犬神家の一族』を読む」なのだった。
『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』は、WIRED.jpの連載「 SUPER ELECTION ザ・大統領戦|アメリカ・メディア・テクノロジー」を加筆・修正のうえまとめたもの。2016年当時の〈現在進行形〉の大統領選を記録したドキュメントとしてそもそも面白いが、くわえてやはり、興味は「ポスト・トゥルース」という言葉のほうにもある。下の引用は著者のブログから。

それから、もう一つ、post-truthを巷で定訳化してきた──といってもまだわずか2ヶ月ほどのことでしかありませんが──「ポスト真実」という表現を使わずに「ポスト・トゥルース」とカタカナ表記で通したのは、truthには「真実」だけではなく「真理」の意味もあるからです。つまり単なる個々の事実だけでなく、数多の事実(というか現実)を生み出す法則的なもの/ルール的なものとしての「真理」、あるいはそれを悟ることすら「真理」のカテゴリーに入ります。「権力者によって覆い隠された事実」としての「真実」だけでなく、「人がまだ気づかない法則性」としての「真理」のニュアンスもtruthにはあります。

つまりpost-truthというのは、「真実なんてどうでもいいんだよ」という意味だけだけでなく、「何かを説明する真理なんてどうでもいいんだよ」という意味も含むはずで、それゆえ「信じること」のみが意味を持つような、反理性的態度のことをも指しているように思えるからです。となると、オブジェクトレベルの「事実」だけでなく、その事実を生み出すルール群という意味でメタレベルの「真理」のニュアンスを捨て去ってよいわけがなく、それゆえ「ポスト・トゥルース」という表記を採用しました。

個人的には、post-truthが「ポスト真実」となってしまった背景には、人間心理の描写を含む「真理」を扱う文芸ジャーナリズムが英米圏のように地歩を築いていないからと思っています。新聞報道の中核であるニューヨーク・タイムズにしても、いわゆる事実報道だけでなく、文化欄における批評が充実していることはつとに知られており、その意味でニューヨーク・タイムズは文芸ジャーナリズムの実践者でもあります。そして、事実報道と文芸ジャーナリズムが同居していることは、もちろん「ナラティブ=語り」が、実社会を生み出すことにまで繋がっているはずです。ありていにいえば、物語や文学、更には映画やドラマでも含む文化作品が近未来の社会の水先案内人(あるいは反面教師)として機能するということです。

ともあれ、truthの意味が「真実」だけではないことには、post-truthという言葉ば登場して日がまだ浅い現在では、気をつけておくにこしたことはないと思います。
新刊『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』、発売されました。 | JOURNAL | FERMAT

ところで南波(典子)さんの日記は笑った。

こういうことがあると「ああ、面白い経験をさせてもらった、いい人生だった」と、つい締めくくりの言葉を言ってしまいそうになります。まだまだ死ねないですけどね。
2017.04.07 Friday「新生活」 | しいたけ園←ブロッコリー

 ついさっきまで「新生活」についてあれこれ描写していたくせに、ふと目を離した隙にひとり、恍惚として〈臨死〉に至らんとするそのご尊顔を想像する。なまじ似合うからなあ、南波さん、締めくくりの言葉が。

Walking: 8.1km • 5,162 steps • 2hrs 25mins 21secs • 385 calories
Cycling: 2.5km • 11mins 37secs • 53 calories
Transport: 70.2km • 1hr 18mins 53secs
本日の参照画像
(2017年4月12日 12:07)

関連記事

トラックバック(0)

このエントリーのトラックバックURL:
https://web-conte.com/blue/mt-tb.cgi/1144