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Apr.
2017
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/ 17 Apr. 2017 (Mon.) 「語り芸パースペクティブ第一回 / そのあと吉祥寺へ」

「ヒロイさん、めしはまだかね」のロビン。2009年6月。

語り芸パースペクティブ第二回「節談説教を聞く会」のチラシ。

篠田正浩『河原者ノススメ──死穢と修羅の記憶』(幻戯書房)

篠田正浩『路上の義経』(幻戯書房)

終わらない仕事をなかば放り投げて、向かった先は亀戸文化センター。「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ〜この国の物語曼荼羅〜」。これから来年 2月までの全11回、だいたい月イチのペースで開催される企画の本日が第一回。第二回以降は、節談説教、説経祭文+ごぜ唄、義太夫節、講談、女流義太夫、能楽、上方落語、浪曲、江戸落語といった具合にさまざまな語り芸の実演家を招いていく。各回ごとの予約も予定されていたものの、それに先立って発売された通年パスポートが即日完売、すでに残り枠はキャンセル待ちしかない状態らしい。ためらわず予約しといてよかったよ。しかも、届いた通年パスポートの名前欄のアタマには、通し番号らしき「 058」の数字がある。会場である亀戸文化センターの和室は定員が 60なので、ことによると、すごくぎりぎりだったのやもしれない。
ちなみに、次回の第二回のみ会場がカメリアホールなため、この回だけはまだ予約が可能。節談説教(節談説教は浄土真宗用語とのこと。フシを付けて法話を語るもの。本邦のすべての語り芸の母胎となったとされる)を扱うその回は、実演ゲストが説教師の廣陵兼純さん(浄土真宗大谷派満覚寺住職)。なにせふだんは各地の寺に依頼されて説教を行っている方なので、スケジュールが公開されているわけでもなく、自力で聞く機会を得ようというのはかなりむずかしい。これ、すげー楽しみ。

超アコガレの、廣陵兼純先生をお呼びできる!
その喜びに、奈々福はこの回のみ、カメリアホール(キャパ400人)を押さえちゃいました(無謀)。
奈々福が過去聞いた中で最高の声節、そして、語り芸としての愛嬌、あたたかみ、懐の深さ……素敵な素敵な廣陵先生を、一人でも多くの方に聞いていただきたいです。
今年の渾身企画発表。奈々福の語り芸パースペクティブ!: ななふく日記

通年企画のスタートを言祝ぐ第一回の今日は「日本芸能総論」。『河原者ノススメ』や『路上の義経』の著作でも知られる映画監督の篠田正浩さんがゲストで、そのお話を伺う。間際になってやっと『河原者ノススメ』を図書館で借りはしたものの、けっきょくほとんど予習できないまま今日を迎えた。以下、メモ程度に。
田舎芝居の「さしたる用もなかりせば……」にも象徴される、この、われわれのなかに抜きがたくある「判官贔屓」とはいったい何なのか、という大きな問いをまず投げたうえで篠田監督は、安宅(勧進帳)、橋弁慶、さんせう太夫(山椒大夫)といった物語の種々(くさぐさ)をみずから「語る」ように案内していく。

  • 能の「安宅」においては、義経の役は子方(子役)がつとめる。能における子方は、一般には神や天皇の役を担うもの。
  • 弁慶がより Greatであればあるほど、義経はより Nobleになっていく。
  • 判官贔屓とはつまり、〈勝者が悪である〉とする考えであり、〈敗者の正義〉に寄り添う思想。
  • 「京の五条の橋の上」と小学唱歌にも歌われた義経と弁慶の出会いの物語において、広く一般に流布されているのは「弁慶が千人斬りを行っていた(そしてその千人目が牛若)」という『義経記』由来の語りだが、能の「橋弁慶」はそれと異なり、五条大橋で夜な夜な辻斬りをはたらいているのは牛若のほうである(弁慶はその人斬りを退治しようとやってくる)。千人斬りのことを知った母・常磐御前は牛若を呼び、悲しんで、弘法大師伝来の笛を渡して諭す。その場は母の仰せに従った牛若だが、抑制できない殺意を抱え、また五条大橋へとやってくる(観世流「笛の巻」)。幼少の義経が経験した悲惨を思えば、こちらの物語のほうが真に迫っているだろう。
  • 森鴎外が「山椒大夫」として小説化した安寿と厨子王の物語の原話、説教節の「さんせう太夫」についてひとしきりそのストーリーを語ったうえで監督は言う。説教節「さんせう太夫」においては、主人公・厨子王が手にすることになる〈パブリックな権力〉こそが最大の悪である、と。「ひと引きひいては千僧供養、ふた引きひいては万僧供養、えいさらえいと引くほどに、百に余りて六つの時、首は前にぞ引き落とす」。
  • 権力のふるう暴力への恐れこそが、物語ることのつよい動機となる。そして語りはつねに、それら無名の民の恐怖・喜び・快楽を語ることをやめない。
  • 日本最大の怨霊、菅原道真の物語についても。道真や将門など、日本史は数多の怨霊を生み出してきたが、しかしなぜか、義経だけは怨霊にならない。もしかすると、義経は圧倒的な量を語られることによって成仏できたのかもしれない。

休憩を挟んで最後に、奈々福さんが聞き手になっての対談。「近年の語り芸においては〈泣き〉の比重が下がり、〈笑い〉に偏重していく感じがある。本来〈お涙頂戴〉と呼ばれた浪曲=浪花節においてさえその傾向は顕著だが、それはどうしてなのか」という奈々福さんの問いに、監督は即座に、それは戦争が飛行機と戦車のものになったからだよと答える。戦争の形態が変わり、目の前の敵に向かって突撃するかつての肉弾戦から、いまや敵の姿を想像することも困難なものへと変貌した、その変化にともなうものだというような趣旨の発言。ほんとの悲惨というのは、見えないものなんだよとも言い、投下から 30秒で人間が影と消えてしまうその悲惨を、いったい映画はどう描けるのかとつづけた。
また、連綿とわれわれのなかにあってアイデンティティの確保に寄与してきた「祖先崇拝」というもの──万系一世の天皇という物語を生んだのも根っこはこれだ、と監督──が近年ではほどけつつあり、葬儀も簡素化されて、火葬場のみでいいという人たちが現れていることに言及したあとに監督は、間髪おかず、「ぼく自身もそれでいいと思ってます」とカラッとした声で言う。「死後にどうこうではなく、とにかく生きてるうちにサービスを受け、こちらもサービスする。それがいちばんなんです」というその晴れやかな言葉のうちに響くのは、やや矛盾をはらんで聞こえるかもしれないが、いわば〈語りからの解放〉を願う心であるように、わたしには聞こえた(もちろん、そのような解放が可能かどうかはべつとしての「願い」だけれど)
そして話題が小津安二郎に及ぶと、けっして〈物語る〉ことができないセリフ──挨拶とその応答しかないようなセリフ──を書き、役者に言わせたのが小津なのだ、というふうに監督は指摘する。小津さんはロケのとき、フレームのなかに富士山と松の木が入ってくることを徹底的に嫌がった、と。
てな感じかな、ノートに残ってるメモだけで言うと。あるいは趣意を聞き損なってる箇所もあるかもしれず、もちろんすべてのメモ責(文責)はわたしに。
で、亀戸をあとにしてつぎは吉祥寺へ。大場(みなみ)さん──せんだってついに『悲劇喜劇』にも載ったという、わが愛しの河原者──と落ち合い、10時過ぎからしばし飲む。大場さんはゆうべからいろいろあって、それでへとへとになっているようにも、ただ酔っ払っているだけのようにも見える。エイプリルフールにおけるとっておきの嘘の話、シン・ゴジラの話、初代ゴジラの話、白子(「いつ高」)の話、黒沢清は黒澤明の息子じゃないよという話、などなど。
「白子」について書いた先日の日記は大場さんの出演作についてはじめて〈ちゃんと書いた〉日記であり、それ以外、これまで「大場さん」の名をここに呼び出すときにはたいてい〈あることないこと書いてる〉ことが多かった。それで、「書くことがないときに、箸休め的に(大場を)使ってるでしょ」と指摘されたわけだが、たしかにそういう面はあるかもしれない。「だからいーんですよ、今日は。『語り芸パースペクティブ』の話がたっぷりあるんだから無理に大場を出そうとしなくて。どうせあることないこと書くんだから」とも諭されたわたしは、だから今日のところはもろもろの会話や、大場さんがどれだけ猿が好きかなどを詳述することはやめ、後日の箸休めのためにとっておこうと考える。

Walking: 3.3km • 4,881 steps • 52mins 8secs • 157 calories
Cycling: 1.1km • 4mins 45secs • 24 calories
Transport: 82.3km • 1hr 58mins 20secs
本日の参照画像
(2017年4月19日 20:00)

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