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Apr.
2017
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/ 18 Apr. 2017 (Tue.) 「あてずっぽう / 南波さんという装幀 / 兵藤先生の『太平記』」

キッチンワゴンに乗るロビンとポシュテ。2009年6月。

松風(イメージ)。嘘。猪名川政之助という天保年間の力士の浮世絵。

罅はこんな感じ。

兵藤裕己校注『太平記』第1巻(岩波文庫)

「唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

帰り途、自転車を漕いでいるときにズボンのポケットから iPhoneを落とす。しっかり突っ込んでいなかっただけのうっかりと思われる。歴代を使ってきたそこそこの期間においてはじめて、画面に罅が入った。「大場(みなみ)さんは猿が好き」とあてずっぽうを書いたこと(時系列で言えば、書こうとしていたこと)への、ばちが当たったのかもしれない。

【あてずっぽうの語源・由来】
江戸時代、根拠もなく推し量ることを「当て推量(あてずいりょう)」といい、「あてずい」とも略された。
これが擬人化され「あてずい坊」となり、変化して「あてずっぽう」となった。
当てずっぽう(あてずっぽう) - 語源由来辞典

 するもんだねえ、擬人化。
 というわけで調べてみると当ては外れたが、音の連関でもってつい、相撲の稽古にある「てっぽう」を浮かべないでもない。「てっぽう」よりもさらに威力を増す「ずっぽう」(自然の理に逆らわないの意で「随法」の字が当てられることもある)。これを正面から「当て」にいく「あてずっぽう」は、怪力とともに俊敏さでも売った初代の松風(江戸中期)が得意とした。
 というのはどうか。
「どうか」じゃないよ。
猿は好きでも嫌いでもないそうです。🐵
南波(典子)さんの日記( 18日付)が更新され、こないだ書いた「中学のときに何を読んでいたか問題」についての言及がある。いやまあ、

本なんて全然読まないよー、長い文章苦手だよー、という生徒から、称少年くらい本を読む生徒まで、すべての生徒に喜んでもらえる選書をしなければならないからです。
2017.04.18 Tuesday「本に囲まれて」 | しいたけ園←ブロッコリー

とかあって、「称少年」の実像を(おぼろげにも)知る身としては、どうも「非常に買いかぶられてる」感がぬぐえず、申し訳ないような気分になっている。ちなみに称少年(だけでなく、いまにいたるまでわたし)は、いわゆる速読はできません。また、本をたくさん読んでいるというのも、おそらくは「錯覚」です。実態としては、「本が好き」というよりも「本屋が好き」というほうが近いのかもしれません。
じゃあ、「本屋が好き」という者にとって図書館、図書室はどうなのかってことですが、まず基本、そこには「装幀がない」1]ということがあります。

1:そこには「装幀がない」

オビは言わずもがな、一般に箱やカバーといったものは外されて配架されている。いや、「装幀」はそれだけじゃないってことはあるでしょうが、狭い意味では装幀がない、もしくは欠けている。

 まあ、装幀云々を言う心の根っこにはどうしたって「所有欲」があるわけで、その意味では、このブーイングを図書館がまともに受け取ろうとしたところで甲斐はないのかもしれませんが、ただ、装幀の美しさというのはたしかにあって、コミュニティスペースとしてはときに装幀を扱ってみるというのも、〈出会い〉のきっかけとして有用かもしれません。
 またいっぽうで、装幀がないそのぶん、「あそこには()が詰まってる」というイメージもあります。さらに言うなら、「本屋が好き」と「本が好き」の根源的な差異がここにあるわけですが、そもそも、買って手元に置いたところで、また読んだところで、本なんか〈所有できるもんじゃない〉という感慨があるのもたしかです。いやまあ、その感慨を中学生に持てというのは多少無理がありますが、そうした〈所有できるもんじゃない〉何かを象徴し、想起させる装置として図書館というものはあるような気がします。
 そしてここで、より広い意味での装幀(ブックデザインの意味にまで押しひろげたそれ)を考えるならば、いったいどこからが装幀で、どこまでが本文なのかというのは、にわかに線引きができないものともなります。
 だんだんと何が言いたいのかわからなくなってきましたが、一足飛びに結句を言うならつまりこういうことです。南波さんのつとめる図書室(? なのかな?)においては、南波さんこそがその「装幀」になりうるのです。そして南波さんならば、きっと素敵で、気楽な装幀になってくれるのだろうと思っております。
きのうの「語り芸パースペクティブ」を経て、あ、そういえばどうしてるだろう(何か新しい著作とかはあるのかな)と検索したのが「兵藤裕己」先生の名前だ。わたしが成城大学の学生だったときの、日本中世文学の教授。いまは学習院大学にいるらしい。もともとの研究対象は「平家物語」で、著作には『琵琶法師──〈異界〉を語る人びと』(岩波新書、2009)、『演じられた近代──〈国民〉の身体とパフォーマンス』(岩波書店、2005)、『〈声〉の国民国家・日本』( NHKブックス、2000/のち、講談社学術文庫、2009)などがある。
で、検索してはじめて知ったのだけど、あったよ、最近の仕事が。2014年から刊行がはじまった岩波文庫の『太平記』(全6巻)の、校注を兵藤さんがつとめているのだった。最終・第6巻が 2016年10月に出て、完結したばかりである。「校注」というとちょっと控えめな存在のようにも聞こえるが、どうもその熱量は半端でないらしい。そもそも、近代的な意味での「作者」が存在せず(だから「作者の死」なんて悠長なことも言っていられず)、「諸本」というかたちで伝わるテクスト群(無名で無数の作り手/語り手たち)を相手にしなくてはいけないのが中世文学なのであって、まあ、底本はあるにしても(古態を伝えるとされる「西源院本」が底本とのこと)、それに詳細な註と解説を付してあらためていまに伝えようとするこれは、いわば「兵藤本」とも言えるようなものじゃなかろうか。うん、面白そう。

Walking: 5.9km • 8,202 steps • 1hr 20mins 7secs • 280 calories
Cycling: 1.3km • 6mins 48secs • 29 calories
Transport: 80.3km • 1hr 49mins 42secs
本日の参照画像
(2017年4月20日 20:33)

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