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Apr.
2017
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/ 14 Apr. 2017 (Fri.) 「志ん好の『居残り』がよかった」

おもちゃで遊ぶロビン。2009年5月。

夜、神保町のらくごカフェで、第二回廓噺研究会/志ん好・馬治二人会。

天狗裁き 金原亭馬治
居残り佐平次 古今亭志ん好
〈仲入り〉
文違い 金原亭馬治

廓噺研究会の志ん好はアタリが多い。と言ったってまだ二回しかやってない会だけど、某日、会ったときに「 4月の廓噺研究会は行きますよ」と言ったら、「ああ、ぜひ。あれは(自身のなかの基準で)ちゃんとやる会ですから」と笑っていた。どの程度シャレで、どのくらい本気かは知れないが、このひとはわりあいこういうことを言うのであり、そしてわたしは、このひとのこういう言い様がべつにきらいではない。噺家らしいとも思う。まあ無理に引き合いに出すこともないのだが、大師匠のさらに師匠にあたる志ん生の、「芸と商売とはおのずから別っこのもん」(結城昌治『志ん生一代』)という言葉が想起されもする。こっちはこっちで、半ば本音、半ば言い訳というようなものだったと思うけども。でまあ、もちろん、「ちゃんとやる会」「やらない会」ともに、まだまだもっと底上げを願うところではある。
何の話だっけ。
そう、志ん好の「居残り佐平次」がよかったのだ。ほんとうに。いくつか無くてさみしいクスグリもあったけど、でも、高座の上にはたしかに佐平次がいた。そのことの僥倖は大きい。いよいよ佐平次が〈生まれる〉その瞬間はとても嬉しくなる。今日の場合その瞬間は、勝五郎(かっつぁん)が気を許した直後に佐平次が言う、「じゃあちょいと上がらせていただいて」ってところだった。クスグリというわけではない何の変哲もない言葉だが、むしろそこに、演者がもはや意識せず佐平次〈である〉という瞬間が訪れたように思える。
無くてさみしかったクスグリというのは、「歯が丈夫なんですな!」というあれ。あとまあ、「うなじですよ、うなじ、うなぎじゃあないよ」のシーンもなかった。それと、これはクスグリじゃないが、「今夜、ゆんべの三人がまた来る手筈になってる」と嘘をつく場面の、「ゆんべ無地を着ていた者は今夜は縞、縞を着ていた者は絣」っていうのも無くてさみしい。まあ、あるいはそれらは尺を意識してのカットだったのかもしれないし、すっきり刈り込み、骨格だけでもって成立させようという意気だったのかもしれない。はたまた単純に、直接噺を教わった師匠(志ん五ではない誰か)の型がこうだったということかもしれないが、なのだとすればそこはそれ、悔しがる花魁が妻楊枝をばりばり噛むところ(で、「歯が丈夫なんですな!」につながる)などは志ん朝ゆずりの志ん五もそっくりそのままやっていたので、できればそっちの話型をこそ受け継いでもらいたいところではある。
「あばよ」と言い捨て、終幕前に去っていく佐平次がしっかり〈アンチヒーロー=悪漢〉であったことも特筆しておきたい。白浪五人男から拝借したセリフで気持ちよく悪党ぶっている可笑しみと、その可笑しみの枠から逸脱してしまう悪漢の横顔という、なんとも得体の知れない魅力を湛えた佐平次が、図らずも(?)そこに現れていた。
そういえばマクラで「おこわ」の仕込みをしてないな1]、ということには途中で気づいたのだったが、案の定、サゲはオリジナルのもの(かどうかは知らないが、はじめて聞くもの)だった。

1:「おこわ」の仕込みをしてないな

元来のサゲに出てくる「おこわにかける」(だます、の意)が完全に死語であるため、マクラでそれとなく言葉の説明をしておくのが一般的で(志ん朝がこれ)、また、サゲを独自に改変する演者も多い(談志、小三治らはこっち)。

 そのサゲは、やはり旦那と若い衆の会話で、「で、あいつはどうした」「へえ、駕籠に乗せられて行っちまいました」「なに駕籠に乗せられて。ああ、アタシは口車に乗せられた」というもの。なるほどね。悪くはないと思うし、土台、もとのサゲがたいしたサゲではない(耳慣れているという以上のアドバンテージがあるとは思えない)ので、マクラを短縮できるという利点も思えば、改変すること自体に異をとなえたいわけではない2]

2:改変すること自体に異をとなえたいわけではない

と書いた直後になんだが、いっぽうでいま、「ちきしょう、おこわにかけやがって」「旦那の頭がごま塩ですから」のほうの、あるべき演出というものにも気がついた。というのはつまり、物語全体に奉仕するサゲとして演るのではなく(そう演ってしまうと、どうしてもこのサゲは弱い)、アンチヒーローのすでに去ってしまった〈物語以降〉を現出させるものとして、あくまで旦那と若い衆の日常として演るのが正しいのではないかということ。その意味では、サゲだからと一調子張り上げるのでも畳み掛けるのでもなく、ふとシャレを思いついてちょっと吹き出すというようなわずかな間ののち、「えへへ、旦那の頭がごま塩ですから」といったふうに演るのがいいのではないか。

 とはいうものの、シャレとしての結構が整っているだけに(それゆえ物語全体と響き合ってしまうために)、ちょっとした難癖を付けたくもなる。というのは「口車」の「クルマ」が、駕籠との対比のなかで「俥」にも掛かっていると当然受け取れるわけだが、しかし、連れの割り前を「二分ずつ」、ゆんべの三人が坂の上から乗ってやってくるのを「駕籠」とする志ん好の演出ではどうしても時代設定を「江戸」と受け取りやすくなっており、そこに「俥」に掛けたシャレが出てくることの違和感が──すいませんね、難癖で──あるのである(なお、志ん朝の場合はそれぞれ「一円ずつ」と「俥」で、明治の設定になっているとわかる)
 いやまあ、さらに読もうと思えば、時代設定を「明治3年ごろ」(通貨が「円」と定められたのが明治4年、明治3年には人力車の製造・販売が開始されている)と考えることで矛盾を解消することができ、さらには〈駕籠/俥〉という対比(もしくはその「二重性」?)に物語全体に寄与するようなメタファーを見出すこともできそうな気がしてくるのだったが、そこまでの含みをもたせるには、それはそれでまたべつの「仕込み」が要るような気もする。
何の話だっけ。
そうそう、以上のようなこまかなひっかかりは(むろん発展途上にある高座として)いろいろあった3]わけだが、それでも、今夜の「居残り」はとても、とてもよかった。なかば思いがけず、幸せなひとときを過ごした。

3:こまかなひっかかりはいろいろあった

なかでも最大にダメを出したかったのは冒頭、連れを遊びに誘い出すシーンで、「あれ? 連れは一人だけ?」と勘違いしてしまいそうな演り方になっていた。あそこはもうちょっとだけ丁寧に、複数人いることを示すべきだとこれだけは直接本人に伝える。やな客である。

廓噺研究会、次回は 8月2日らしい。そういえば「五人廻し」「居残り佐平次」と、廓噺とは言いつつほぼ男しか出てこない二題がつづいた志ん好だ。つぎは何だろうな。三枚起請? 品川心中? 明烏?
夢だけを言えばね、いつか「たちきれ線香」にも挑んでみてもらいたいのだけど、それはまあ、さすがにまだまだ果敢に過ぎるだろうか。

Walking: 4.5km • 5,617 steps • 1hr 6secs • 213 calories
Cycling: 3.5km • 19mins • 77 calories
Transport: 74.7km • 1hr 32mins 42secs
本日の参照画像
(2017年4月18日 13:03)

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/ 12 Apr. 2017 (Wed.) 「中学のときに何を読んでいたか問題(長いが成果はなし)」

ソファの背に、だらんとするロビン。2009年4月。

こちらが現最新巻、『浮浪雲』の第109巻。読んでないので内容は知らない。もういい加減明治になってるのかな。

7日付の日記(「とりあえずの引用たち」)を更新。その最後でちょろっと南波(典子)さんに登場いただいて、そのことのメンションを送るとすぐさまリプライがある。

@otocin_t: @soma1104 あはは、恥ずかしいわあ。ところで相馬くんは中学生の時なに読んでましたか?
2017年4月12日 12:33

 なぜそんな質問? ということについては南波さんの日記( 4月7日付「新生活」)をお読みいただくとなんとなく把握いただけるかと思う(わたしも詳しいことは知らない)が、ともあれ、わたしの返信はこんな感じ。

@soma1104: @otocin_t 中学の時ですかあ。おもには、すでに上京済みの兄二人が子供部屋に残していった本棚からつまんでいたのかなあ。すぐ思い出せるのは糸井重里『私は嘘が嫌いだ』村松友視『私、プロレスの味方です』マンガで鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』コンタロウ『ルーズ! ルーズ!!』。
2017年4月12日 13:19

@soma1104: @otocin_t ほか、長兄の本棚には筒井康隆が、次兄の本棚には片岡義男が揃ってました。自分発の趣味はというと、どれもマンガですが水木しげる、ルパン三世、浮浪雲あたりかなあ。あ、「萬流コピー塾」の単行本は自分で買って読んでましたね。
2017年4月12日 13:21

これでもいっしょうけんめい思い出してみたのだが、「中学生の時」という指定がネックで、とりわけ中学/高校のところの境が茫としている。「浮浪雲」(ジョージ秋山)はさすがに高校だったんじゃないかと思いたくなるものの、でも、TBSでやっていたビートたけし版のテレビドラマは放映が 1990年10月〜 1991年3月で、計算すると中3のときだ。親は裏番組の「ニューヨーク恋物語Ⅱ」(田村正和、篠ひろ子)を見ていたので、二階のテレビでひとりで見ていた。で、このドラマで知ったのではなく、ドラマ開始時にはすでに原作ファンだったはずだから、やっぱり読みはじめたのは中学のときということになる(あ、そういえば、いま全然読んでませんね「浮浪雲」)
むしろ「こういう読書だった」という記憶の輪郭がはっきりしているのは小学生時代のそれで、当時はルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズと、そして「偉人伝」だった。とにかく「偉人伝」シリーズは読破したことを誇っていた。いや、偉人伝なんか何をもって「読破」なんだって話だけれど、たぶん学校の図書館にあった何かのシリーズのそれ(いま、ざっと画像検索してみたけど判然としない。ポプラ社の「子どもの伝記全集」あたりかなあ)を片端から読み、とりあえず所蔵分は読みきったんだと思う。で、それについてよく覚えているのは、奥付からノンブル(ページ番号!)まで、本に印字されている文字のいっさいを読まないと「読んだことにしない」という強迫的な読書ルールを自己に課していたことで、その理屈はいまやよくわからない。だから、いま思うとそれはいわゆる「読書」なのではなく、またべつの、当時のわたしが考案して楽しんだ「そういう競技」だったような気もしてくる。
あ、さらにいえば、それら偉人伝の数々をとおして学んだ「善い行い(とは何か)」にたいする、最終的なひっくり返し的教科書として、中学のときの「浮浪雲」はあったんじゃなかったかな。
「これは中学だな」とわりあいはっきりしているのは「萬流コピー塾」(糸井重里)あたり。と思っていたが、よくよく年を調べるとこれも怪しくなってきた。萬流コピー塾はまず『週刊文春』誌上の連載を読んでいたはずで(一度か二度投稿した覚えがある)、ウィキペディアによるとその連載が 1988年( 3月に小学卒業、4月に中学入学という年)に終わっている。微妙だが、すると出会ったのは小学校高学年だったことになるか。ともあれ、中学のときに将来の夢として「コピーライター」を(ほかにとくに思いつかなかったこともあるが)挙げていたのはたしか。
でまあ、そもそもなんで文春なんか読んでるのかってことだが、これはほぼ毎号、父が買っていて家にあったのだった。ツイートで言及した兄の蔵書のほかに、子ども時代を通じて身近な娯楽としてあったのがこの父の定期購読誌たち──『オール讀物』、『小説新潮』、『小説現代』、それと『週刊文春』と『週刊新潮』──だ。いま大人になってみると、〈なんて通俗的な講読ラインナップだったんだ〉ということにむしろ驚かされるが、ともあれ父が買ってくるそれらから、おもにはマンガを拾い読みしていた。もちろん、いちばん好きだったのはいしいひさいち(『オール讀物』の「忍者無芸帖」)と、谷岡ヤスジ(『小説現代』の「ヤスジのドナンセンチュ」)。あと、このために、砂川しげひさ(『小説新潮』の「しのび姫」)にもわりあい親しみがある。
ところで、ツイートに書いた「兄が子供部屋に残していった文化のなかで育った話」は前にも何度か書いたことがあるのだが、

〔略〕まあ、長兄と次兄が高校までを過ごした子供部屋をそののちあてがわれ、両者が残していった蔵書やレコードに囲まれつつ育った者として、そこにあった「趣味の残り香」について記憶を書かせてもらうならば、次兄の場合たとえばそれは「薬師丸ひろ子」や「片岡義男」だったわけだ。薬師丸ひろ子関係はビデオ(多くはテレビ録画)もレコードも写真集も揃っていて、だから、逆に言えばそれほど世代でもないのにブームを追体験してしまっている私のほうがちょっとまずいことになっているとも言えるのだった。
と書いているうちに後年の兄がファンだった当時をふりかえって説明していた言葉を思い出した。くだらないので紹介しよう。『セーラー服と機関銃』と『時をかける少女』が代表的であるように、当時、薬師丸ひろ子主演映画は二大看板であるところの原田知世主演映画との二本立て上映というのが基本だったわけで、さらにはおそらく映画館が「入れ替えなし」だったりもして、日に何度も『セーラー服と機関銃』を観るというようなことを兄はしていたらしいのだが、そんな兄がはじめて『時をかける少女』を観たのはそのあと何年も経ってからだった。兄は言う。「硬派のひろ子ファンは原田知世を認めず、同時上映作品のあいだロビーに出ていた」。
2006年11月7日付「兄の薬師丸ひろ子への愛を語ることで自身の薬師丸ひろ子への愛を語る」

その、この日記にたいして、更新当時に長兄がコメント欄に書き込んでくれたのが以下の文章だ。これ(このコメントもすでに 10年前のものだが)、個人的にすごく面白いので、このうえさらに長くなるが丸々引かせてもらいたい。

私は最近「早春物語」を見ました。おもしれーぞ。時代や自分のある年齢へのノスタルジーでは済まされない、浮き足だったドス暗さに釘付けになったのだった。知世ちゃん、あなたはどこへ行くのか?「角川」とは何であったのか?
「原田知世コンサート/今までの私、これからの私」を神奈川県民ホール最前列で見たのは19歳だったし、「早春物語」を封切りで見たのは20歳だった。「時かけ」にはしゃぐ兄をみて、弟は「セーラー服」へ向かったのか、いやそうではあるまい。「セーラー服」にはしゃぐ高校生の弟をみて、大学生の兄が「時かけ」に向かうといった、まずいことになっていたのではなかったか。いずれにせよ一方の私(たち)はだいぶ後になって「セーラー服」を見ている。私(たち)はよく言ったものだ。「森田、大森は認める。だが、相米は認めない。」と。恥ずかしかったからだと思う。そしてなぜか「大林」は話題にならない。恥ずかしかったからだ。
現在、末弟の趣味の残り香に長兄が住むという円環のなかで、ちかごろなにげに手を伸ばしたのが「八つ墓村」だったのがまずかった。気が付けば、黒い不吉な背表紙を全て読み尽くし、「角川映画」の新作の封切りを心待ちにしているのであった。
同上のコメント欄

 なお、最後に出てくる「末弟の趣味の残り香」のひとつ=「黒い不吉な背表紙」=横溝正史は、しかしこれは高校に入ってからの読書だと思う。
というわけで、いろいろつぶさに思い出そうとするも非常に漠としており(思い出そうとするそばからどんどん記憶がほどけていき)、総じて碌なものを読んでなかったんじゃないのかというのが中学時代である。だから、

@otocin_t: @soma1104 ありがとうー。参考にさせていただきます。
2017年4月12日 13:44

と南波さんは言うものの、まったくもって参考にならないと思う。それでもいちおう、万が一ほんとうに南波さんが参考にしないともかぎらないことを思って付け足しておくならば、「浮浪雲」は、むしろ 1巻から読みはじめないほうがいいと思います。連載初期( 10巻ぐらいまでだったかなあ)はまだ絵も登場人物像も固まっておらず中期以降とちょっと印象が異なるので、無理に 1巻から読もうとせず、手に入る巻から読むのがいいんじゃないかと(ただ、現在も連載がつづく「浮浪雲」の最新巻はなんと第109巻であるらしく、たしか 50巻前後までは買い揃えていたはずですが、そっからこっちは読んでないので知りません)

Walking: 5.1km • 7,028 steps • 1hr 14mins • 240 calories
Cycling: 2.7km • 13mins 34secs • 59 calories
Transport: 85.7km • 2hrs 4mins 53secs
本日の参照画像
(2017年4月16日 00:34)

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/ 10 Apr. 2017 (Mon.) 「ぐががががが」

テーブルの上のロビン。サムネイルではトリミングのため見えないが、ピーとポシュテもいる(クリックで拡大表示させてください)。2009年4月。

テニスの内藤祐希選手、勝てば本戦入りの予選三回戦はランキング 532位、20歳の Shanshan GUO (CHN)と。予選における第4シードの選手だ。
あー。
むー。
がー。ぐががががが。6-4 6-4で Shanshan GUOのストレート勝ち。くやしいなあ。「 0-2」ながらも、ライブスコアで観るかぎりにおいてはかなり拮抗していた。第1セットではブレイクチャンスを得たゲームが両者とも 2ゲームずつあり、うち、GUOのほうが 1ゲームだけ成功して 6-4。一転、第2セットはブレイク合戦に突入して、第3〜第6ゲームで互いが 2ブレイクずつ奪いあったあと、第7・第8ゲームでも互いにブレイクポイントを握られるが、第7ゲーム(内藤サービス)がデュース 4回、第8ゲーム( GUOサービス)がデュース 3回の末、それぞれキープしあう。ここまでは完全に拮抗していた──どっちにどう転ぶかわからない流れだったし、もし「 1-1」になったなら、第3セットはなおのことわからないぞという雰囲気だった──のだが、最後、第9・第10ゲームをわりあいあっさりと GUOに連取され、試合を締め括られてしまった。ぐががががが。(このあと、本戦入りして結果二回戦= R16まで進むことになる)GUO相手に、たしかに「たたかえていた」のだがなあ、まあ、「それを言うなら、勝たないと」ってことでもあるかあ。ぐががががが。
この日は本戦のほうの試合もスタートし、内藤はシングルスの敗戦のあと、ダブルスの本戦一回戦もあった。同じ 16歳の Xiyu WANG (CHN)と組み、Ai GAO, Hanyu GUO (CHN)ペアと対戦。3-6 7-6(5) [4-10]。詳述はしないがこちらも──フルセット、スーパータイブレイクの末の──くやしい負けだった。

Walking: 3.4km • 4,903 steps • 52mins 5secs • 161 calories
Cycling: 2.5km • 13mins 16secs • 55 calories
Transport: 70.2km • 1hr 17mins 29secs
本日の参照画像
(2017年4月14日 23:35)

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/ 9 Apr. 2017 (Sun.) 「とっておきの嘘。ちがうけど。」

ポシュテにからまれるロビン。2008年12月。

きのうにひきつづき、内藤祐希選手の予選二回戦をライブスコア観戦。相手は 20歳、900位の Kwan Yau NG (HKG)。直近の試合歴など見るにきのうよりもさらに手強い相手だったと思われるが、6-3 6-4で内藤が勝った。今日も今日とてライブスコアの内容は濃い。
第1セット前半はブレイク合戦の様相だったが、途中から両者ともにリズムをつかみ、前半で確保した 1ブレイクアップ分をキープしての 6-3。そして第2セット。ふたたびブレイク合戦で幕があけ、またも先に 1ブレイクアップ分を確保したのは内藤だったが、それでもなおけっして安心はできない展開がつづく。第5ゲームでのブレイクポイント 3本をものにできず、しぶとくキープされたあとの第6ゲームがもつれて、今度は相手にブレイクバックのチャンスが訪れる。ここをしのいでキープできたのが最大の山場だった。そして第7ゲームでもうひとつブレイク。4回のデュースを含んで最長にもつれた第8ゲームでブレイクをひとつ返されるも、最後はリズムよくキープしての 6-4。
いいねー、いいよー。これで本戦まであとひとつだ。
言及されているニュース(?)や施設等についてはまったく何も知らないなかで、届いたツイートがこちら。

@aNmiNreNtaN: 500万円の安土城ホテルには大名行列体験がつくそうですが、せっかく大富豪が大名に扮してお供を引き連れて行進しても沿道でひれ伏す民百姓がいないと興醒めでしょう。安土城ホテルに宿泊者がいる日は安土桃山文化村の入場料を無料にするなどの措置が必要では?
2017年4月9日 10:11

 これ、ことによって「安土城ホテル」も「安土桃山文化村」も実在せず、そっくり全部がウソだったらすごく面白いなあと思い、関連キーワードは何も調べずにいる。
 そういえば前に、

@obami23: 来年こそは誰も損しなくてクスっと笑ってもらえるようなとっておきの嘘をつきたいって毎年思うんだけど、また今年も気づいたらやってきたエイプリルフール #とっておきの嘘おしえて
2017年4月1日 1:24

と大場(みなみ)さんがツイートしていたけれども、「とっておきの嘘」というものがあるとすれば、それはこうしたかたちをしているのじゃないかとも思う。
いやだから、たぶん「安土城ホテル」も「安土桃山文化村」もあるんだと思いますけどね、どっかにほんとに。

Walking: 10 meters • 21 steps • 13secs • 0 calories
本日の参照画像
(2017年4月13日 14:06)

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/ 8 Apr. 2017 (Sat.) 「ライブスコアリーダーとしての有意義な午後」

ポシュテを舐めるロビンとピー。2008年12月。

Instagramに上げた、撮り下ろしピーがこちら。加工処理(モノクロ化とトリミング)前のオリジナル。

同じく撮り下ろしポシュテがこちら。

9:18起床。
ポシュテ、食べたばかりの朝の缶詰を吐く。二日連続。そして甘える。
まったく使い慣れていない Instagramにピーとポシュテの写真をそれぞれ投稿。写真のたわいのなさはどちらも同程度だが、ポシュテのほうにより多く「いいね」がついた。「なぜ?」と年嵩のピーは思い詰める。
テニスの内藤祐希選手が Instagramの投稿でまた「バイバイ日本」と言っていたのでどこの大会に出るのだろうと思っていると、中国・南寧、ITFの $25,000の大会だった。予選からの出場。3回勝つと本戦入り。で、今日が予選の一回戦である。ひとつ前は千葉の柏で開催された同じく $25,000の大会の、これも予選に出ていた(予選一回戦敗退だった)が、柏の大会では、予選にかんしてはライブスコアの提供がなかった。だから同じ肚づもりでいたのだったが、さすが南寧、予選もライブスコアありの高ホスピタリティだ。
1月の全豪オープンジュニアをまあまあの成績(ベスト 16)で終えたあと、どうやらシングルスにおいて不意のスランプに見舞われていたらしく、先日のジュニアフェドカップこそどうにか地力を見せたものの、そのほかのジュニアの大会では初戦敗退のシードダウンを繰り返していた内藤だ。柏も、勝敗はともかくもやはり内容があまりよくなかったようで、直後の SNSには自身を奮い立たせようともがく書き込みがされていた。そろそろなあ、何か吹っ切ってくれればなあと立川在住の一ファンがはるか外野席から心配し期待もする今大会、予選一回戦の相手はランキング 1032位、23歳の Yujia WANG (CHN)。ランキングのことだけ言えば内藤は 828位なのでいちおう格下相手ということになるが、むろん低迷状態のままでどうにかなる試合とは到底思われない。
いやー、白熱した。繰り返すようにライブスコアしか見てないわけだが、南寧から刻一刻と届く数字におおいに一喜一憂させられた。6-2 7-6(6)で内藤の勝ち。セット数で掬い上げれば「 2-0」のストレート勝ちだが、ライブスコアによって届けられたのははるかに接戦の激闘だった。なればこそ、最終的にきっちりストレート勝ちできたことの意義も大きい。
とりわけ先にブレイクを許した第2セット、4-5で迎えた相手のサービング・フォー・ザ・セットをブレイクバックして振り出しに戻し、突入したタイブレイクでも相手にセットポイントが 2本訪れたのをしのいで勝ちを決めたのは、これはもう「戻ってきたのではないか」と感じさせるに充分な強さだった。ライブスコアリーダー(ライブスコア読書家)として有意義な午後を過ごした。
やったよ。やったね。

Walking: 122 meters • 184 steps • 3mins 43secs • 6 calories
Cycling: 320 meters • 2mins 6secs • 7 calories
本日の参照画像
(2017年4月13日 11:06)

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/ 7 Apr. 2017 (Fri.) 「とりあえずの引用たち」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

池田純一『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ウェブにハックされた大統領選』(青土社)

『すばる』2017年5月号

「連帯」について考えるため、小田亮さんの「戦略的本質主義を乗り越えるには(3)」「創発的連帯と構築された外部」を再読。くー。面白い。が、むずかしい。が、面白い。
後者の論考から興味のままにかいつまめば、まず、あらかじめ「連帯」のための理想的なかたちや目標を提示しようとすることは「排除」を孕んでしまうがゆえに避けるべきだというジュディス・バトラーの批判が参考になる。そうした批判のうえでバトラーが言うのが「創発的連帯(取りあえずの連帯)」だが、そこにおいてはいっさいの予測なしにさまざまな立ち位置の人間が集合するのであり、アイデンティティは前提とされず、連帯した集合体がもつ意味やかたちは連帯が実現する以前には知りえない。それでいけば、「いかにして連帯は可能か」といった特権的な問いはそもそも発するべきではない──少なくとも、その問いを安易に実体化すべきではない──ということになるだろう。
しかしなんといっても、ハナシはそっから先なのだ。が、時間なら無いのでそっから先のハナシはまた今度あらためてしたい。「創発的連帯と構築された外部」のほうは口頭発表( 2002年)の原稿で、そののちあらためて論文として書かれたのが「『模倣』という戦術について」( 2005年)らしいが、とにかくこのふたつ(あとまあ、同じ議論は当然「日常的抵抗論 Web版」のなかでも繰り返されているが)がすこぶる面白い。あー!!

 たしかに、アイデンティティが構築されたものであり不安定であることは隠蔽されており、その隠蔽によってアイデンティティは自然化されている。しかし、そこで隠蔽された不安定性や無根拠性は、近代のアイデンティティのシステムにとって、いわば折込済みのものであり、むしろ安定したアイデンティティを求める人びとの密かな動機となっている。したがって、それを暴露したところで、その不安定性は、アイデンティティの危機として意識され、人々をより強迫的にアイデンティティのパフォーマンスへと向かわせるだけなのである。
小田亮「『模倣』という戦術について──あるいはシステムの外部の語りかた──、『日本常民文化紀要』25輯、2005年3月、p.131

 したがって、自分の生活の場を植民地化するシステムに抗して「生き抜く=息抜く」うえで重要なことは、近代のアイデンティティの隠された不安定性や深層の差異をたんに暴露することではない。重要なのは、その不安定性を単一の方向へむかう「欲望」を駆り立てるものとするのではなく、多方向への変容の「快楽」を用意してくれるものとしてとらえなおすことなのである。それには、近代のアイデンティティの不安定性を種的同一性という枠組みによって安定させるのではなく、日常的な〈顔〉のある関係における非同一的な共同体において安定させる道をさぐることが必要となるだろう。
小田亮「日常的抵抗論 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ」

言語の内部に「構築された外部」が隠蔽しているのは、それが構築されたものだということだけではないのです。構築主義者はその「構築」という事実を暴露することで、支配構造を解体できるとしていましたが、それはレッド・へリングなのです。そこには構築主義者が見落としているもうひとつの重大な隠蔽があります。この「構築された外部」は、実際にある「外部」をも隠蔽するものなのです。つまり、「構築されたオリエント」がオリエントを隠蔽し、「構築された身体」が「身体」を隠蔽し、「構築された他者性」が「他者」を隠蔽しているように、です。この「隠蔽」は構築という事実を暴露したところで解体されません。とは言っても、構築された虚構の外部の向こうに「真実の外部」があるというのではありません。実際にある外部とは「無垢の自然」やクリステヴァのいう「母の身体」のことではないのです。クリステヴァの誤りは、その「外部」を空間的に捉えて実体化してしまったことにあります。ここでいう、実際にある外部(そして実際にある身体や実際にある他者)とは、関係性の「過剰」のことなのです。
小田亮「創発的連帯と構築された外部」

あ、ちなみにレッド・ヘリング( red herring、燻製のニシン)というのは「人の注意をほかへそらすもの、偽の手がかり」の意。
閉店間際のオリオン書房に滑り込んで、池田純一『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生 ウェブにハックされた大統領選(青土社) と、『すばる』の 5月号 を買う。『すばる』のお目当ては奥泉光+いとうせいこうの文芸漫談で、今作は「横溝正史『犬神家の一族』を読む」なのだった。
『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』は、WIRED.jpの連載「 SUPER ELECTION ザ・大統領戦|アメリカ・メディア・テクノロジー」を加筆・修正のうえまとめたもの。2016年当時の〈現在進行形〉の大統領選を記録したドキュメントとしてそもそも面白いが、くわえてやはり、興味は「ポスト・トゥルース」という言葉のほうにもある。下の引用は著者のブログから。

それから、もう一つ、post-truthを巷で定訳化してきた──といってもまだわずか2ヶ月ほどのことでしかありませんが──「ポスト真実」という表現を使わずに「ポスト・トゥルース」とカタカナ表記で通したのは、truthには「真実」だけではなく「真理」の意味もあるからです。つまり単なる個々の事実だけでなく、数多の事実(というか現実)を生み出す法則的なもの/ルール的なものとしての「真理」、あるいはそれを悟ることすら「真理」のカテゴリーに入ります。「権力者によって覆い隠された事実」としての「真実」だけでなく、「人がまだ気づかない法則性」としての「真理」のニュアンスもtruthにはあります。

つまりpost-truthというのは、「真実なんてどうでもいいんだよ」という意味だけだけでなく、「何かを説明する真理なんてどうでもいいんだよ」という意味も含むはずで、それゆえ「信じること」のみが意味を持つような、反理性的態度のことをも指しているように思えるからです。となると、オブジェクトレベルの「事実」だけでなく、その事実を生み出すルール群という意味でメタレベルの「真理」のニュアンスを捨て去ってよいわけがなく、それゆえ「ポスト・トゥルース」という表記を採用しました。

個人的には、post-truthが「ポスト真実」となってしまった背景には、人間心理の描写を含む「真理」を扱う文芸ジャーナリズムが英米圏のように地歩を築いていないからと思っています。新聞報道の中核であるニューヨーク・タイムズにしても、いわゆる事実報道だけでなく、文化欄における批評が充実していることはつとに知られており、その意味でニューヨーク・タイムズは文芸ジャーナリズムの実践者でもあります。そして、事実報道と文芸ジャーナリズムが同居していることは、もちろん「ナラティブ=語り」が、実社会を生み出すことにまで繋がっているはずです。ありていにいえば、物語や文学、更には映画やドラマでも含む文化作品が近未来の社会の水先案内人(あるいは反面教師)として機能するということです。

ともあれ、truthの意味が「真実」だけではないことには、post-truthという言葉ば登場して日がまだ浅い現在では、気をつけておくにこしたことはないと思います。
新刊『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』、発売されました。 | JOURNAL | FERMAT

ところで南波(典子)さんの日記は笑った。

こういうことがあると「ああ、面白い経験をさせてもらった、いい人生だった」と、つい締めくくりの言葉を言ってしまいそうになります。まだまだ死ねないですけどね。
2017.04.07 Friday「新生活」 | しいたけ園←ブロッコリー

 ついさっきまで「新生活」についてあれこれ描写していたくせに、ふと目を離した隙にひとり、恍惚として〈臨死〉に至らんとするそのご尊顔を想像する。なまじ似合うからなあ、南波さん、締めくくりの言葉が。

Walking: 8.1km • 5,162 steps • 2hrs 25mins 21secs • 385 calories
Cycling: 2.5km • 11mins 37secs • 53 calories
Transport: 70.2km • 1hr 18mins 53secs
本日の参照画像
(2017年4月12日 12:07)

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/ 6 Apr. 2017 (Thu.) 「木須肉が好きだ / 偽文士のあれ」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

きのう付の日記で、やや唐突に木須肉(ムース−ロー)(きくらげと豚肉の卵炒め)など登場させたのは、そこはそれ、「日記」ってことを多少なりとも意識してのことである。何しろ、こないだ舞台を観にいって会ってしゃべったときに、ここをそこそこ読んでくれてると思われる稲毛(礼子)さんに言われたのが、「最近は何してるんですか?」なのだった。日記と自称するところのものをこんなに書いているというのに、まったくと言っていいほど「日々の暮らし」が知れないこの日記である。
だからっていきなり、木須肉の情報だけ寄こされても、全体で何ピースあるのかわからないジグソーパズルの 1ピースだけを渡されるようなものだと思うけれども、ともあれ、わたしは木須肉が好きなのだ。たいていは「この、きくらげと卵の……」とか「 2番で」とか言って頼むので、「ムースーロー」と読むらしいことも日記の記述のためについこないだ調べて知ったのだし、なんだったら「須」と「木」と「肉」の並び順だっていつまでたってもあやふやなままなのだけれども、ともあれ、わたしは木須肉が好きなのだ。
ほんとうは、わたしのなかでの木須肉のイデアは「塩味」なのであり、それはもう 20年も前、吉祥寺駅の公園口(南口)を出てすぐのところにあった中華食堂のそれが塩味だったからだが、その店(もうとっくにない)ののち、出会う木須肉はことごとく「しょうゆ味」なのだった。「いやー、(本場のことは知らないが、おれ的には)塩なんだけどなあ」と思い思い、毎度のように頼んでは「うまいうまい」と食べている。つまり、しょうゆ味もうまい。
で、折しもその木須肉の出てくるきのう付の日記──木須肉はちょい役であり、全体としては慰安婦問題を扱っている──を書いているときもとき、筒井康隆の例のツイートがリツイートされ、タイムラインに流れてきたのだった(最終的な日記の更新は翌 7日だったけれど、大半はこの日に書いていた)。最初にそれをわたしのタイムラインにもたらしたひとは、その後にリツイートしているものなどを見るにどうやら好意的に、筒井ファンとしてリツイートしたようで、その時点ではまだ二、三人ぐらいしか反応していないほどの、ごくごく早い段階でのリツイートだった。
でまあ、ぎょっとしたのち、出典であるところの「偽文士日碌」(四月四日付)に全文を読みにいく。結果がっかりするのだけれど、そこにおいて決定的に〈俗悪〉であるのは、おもに話題になっていると思われる後段のセンセーショナルな部分ではなく、むしろ前段のこっちである。

長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。

しばらくさかのぼって読みもしたが、ほかに係り受けの関係にあるような記述も見当たらず、ひと段落だけ唐突に出現するかたちの件の記述においては、この前段部分が、ひとえに後段部分の読みのコードを規定している。
連載開始時の「はじめに」のところで説明されているとおり、「偽文士日碌」は「文士のパロディをやってみようと」する老作家によって書かれているわけだが、同時に、そのパロディは公私(と言ったらいいか虚実と言ったらいいか)にわたって切れ目なく演じられるパロディであることが宣言されてもいて、もはや〈メタな語りの位相〉といったものを想定することも不可能な──その意味で外部のない──テクストが、作家自身によって生きられていることになっている。だから、その試みの成否にかかわらず、土台読者は〈真に受ける〉よりほかにない構造なのであって、であれば、率直にただ「がっかりだ」と申し述べておきたい。
と書いているうちに、後段にある「あの少女は可愛いから」の意味の二重性──「可愛いことで欲望の対象になるだろうから」という意味と、「可愛い像であることが慰安婦の表象として相応しくないから」という意味──にもやっと気づいたのだけど、とはいえ、そこにおける読みのコードを決定するのがやはり前段である以上、けっきょく、その二重性にもたいした振幅はないように思われる。

Walking: 3.8km • 5,012 steps • 53mins 31secs • 178 calories
Cycling: 2.3km • 11mins 43secs • 51 calories
Transport: 70.1km • 1hr 24mins 34secs
本日の参照画像
(2017年4月 8日 04:22)

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/ 5 Apr. 2017 (Wed.) 「少女像に慰安婦しか見ない者よ。慰安婦すら見ない者よ。」

ロビンとピーとポシュテ。2008年12月。

@soma1104: ふ・ざ・け・る・な。
2017年4月4日 23:48

と、慣れない中グロの使い方までして、怒っていたらしいわたしだ。あるいはこの中グロを「カ・イ・カ・ン」とか「ト・キ・メ・キ」のようにして読んだ方もあったかもしれないけれど(それ、どう読むんだかよくわからないけれど)、ま、沸々と沸きたつような怒りがあったのだとご理解願いたい。
ツイートをしたときは家のちかくの中華料理屋で、木須肉(ムースーロー)(きくらげと豚肉の卵炒め)を食べていた。店のテレビからは消音でニュース番組が流れていて、ちょうど今村復興相の記者会見での激昂の場面を映していた。ただ、ツイートにつながった怒りの発端はそれではなく、韓国での「少女像」設置をめぐるもろもろである。脇に置いた iPhoneで、ツイッター上のそれらの話題を追っていたのだ。
慰安婦そのものを見ようとしない者は、少女像に慰安婦しか見ない者でもある。国家も介入した日本の歴史修正主義に敏感に、まっとうに、毅然と反応するかたちで、海外において、少女像は日韓のあいだの慰安婦問題──旧日本軍(および現日本政府)の暴力を問うもの──という枠組みをもはや越え出て、広く女性への性暴力そのもの、戦争そのものへのメッセージとして機能するようになっている。その、より大きな枠組みの上でなお、

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。
平成27年8月14日 内閣総理大臣談話(いわゆる「戦後70年談話」)

と述べる者らが、なぜ連帯することができないのか。
というような、出口のない苛立ちのほうへとついつい吸い寄せられてしまう夜。「その言葉じゃあ、たしかにどうにも出口がないよなあ」とは思い直しての、「ふざけるな」(止まり)だった。それでまあ、ひとつ立ち戻って、「連帯」ということについても考えているが、それについてはたぶん長くなるというか、まだ整理しきれていないのでまた今度。
閣議決定という名の歴史修正主義。はたまた「閣議決定(ポスト・トゥルース)」。その濫用はある面たしかに幼稚で滑稽だが、しかし笑ってもいられないのは、ときにその内容の空疎さゆえ、〈閣議室の上にあてどころなく漂うフキダシの、その中だけのもの〉とも映ってしまうそれが、いま、充分な〈実体〉をもつための回路をすでに手にしているからだ。それもあろうことか、教育という場において。

閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には,それらに基づいた記述がされていること。
義務教育諸学校教科用図書検定基準及び高等学校教科用図書検定基準の一部を改正する告示、2014年1月17日

 2014年の改正時に導入された、この教科書検定の新基準のひとつがそれだ。このことをわたしは去年、『海を渡る「慰安婦」問題』 を読んではじめて知ったのだけど、その〈やり口〉には「そっかー、そういう手かあ」と単純に唸ってしまった。と同時に、同書にある指摘のなかでわたしがもっとも焦燥を覚えたのもこの点であり、いわばフリーハンドのただのシロウト(=閣議室のひとたち)が、歴史家をはじめ、各事項の専門家と同等の筆をもつことになったわけである。

一五年に検定を通過した中学校の歴史教科書で唯一、日本軍「慰安婦」問題に関する記述を行ったことで注目を集めた「学び舎」の教科書は、〔中略〕新基準により、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない」と付記することを余儀なくされた。
能川元一「おわりに──浸透・拡散する歴史修正主義にどう向き合うか」、『海を渡る「慰安婦」問題』(岩波書店)、p.141

しかしですよ、〈歴史はいずれ記述者/語り手の主観を排除できず、どこまでいっても物語/レトリックでしかない〉という見識はたしかに見識としてあるとしてもです。そんなね、〈諸説あり=何でもあり〉みたいな雑な話じゃないわけですよ、それは、ぜんっぜん。少なくともいまや、ギンズブルグのこの毅然とした決意の言葉を踏まえたうえでの歴史であり、レトリックであるわけで、ね。

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するように視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。ひとつひとつの個別的な資料の個別的な歪みを分析することは、すでにそれ自体構築的な要素をふくんでいる。しかしながら、以下の諸章において明らかにしたいとおもっているが、構築とはいってもそれは立証と両立不可能であるわけではない。また、欲望の投射なしには研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもないのである。知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ。
カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』(みすず書房)、p.48、太字強調は引用者

Walking: 3.8km • 5,424 steps • 54mins 15secs • 182 calories
Cycling: 2.7km • 11mins 31secs • 58 calories
Transport: 69.7km • 1hr 9mins 19secs
本日の参照画像
(2017年4月 7日 15:17)

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/ 4 Apr. 2017 (Tue.) 「続編の可能性? / スタンド名は『たき火』」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

2日付という扱いの「いったい白子は何を考えているのか──その傾向と対策」を更新。タイトルを思いついた当初はもっといろいろ書けるかと思っていたが、そんなにたいして広がらなかった。何しろ語り手の動機が「白子と付き合いたい」なので、もろもろの考察がけっきょく「そんなこと考えててもしょうがねえか」ってところに行き着いてしまうのが敗因といえば敗因。あとまあ、vol.3のほうは戯曲がウェブ公開されてないからね、あんまり細部に立脚できなかったというのもある。vol.3から唯一ちゃんと引用してるセリフは大場(みなみ)さんに確認した。
ただまあ、批評の言葉でもってさんざん積み重ねた読みのいっさいがっさいを、最終的に「気にしないことにする」というただの気概がなぎ払っていくというさまは書いていてたいへんに面白いのだった。これ、そのうち vol.3の戯曲が手に入ったら、何か続編的なものも書けるんじゃないかな。まだ何かできるような気がする。でもって、続編のその時点でも、彼(「ぼく」)はまだ白子に「好きだ」と言えてないんじゃないかと思うのだった。
と、のんきなことを言っているのは大場さんから LINEでリアクションをもらっていて、とりあえず面白がってくれてるらしいとすでに知れているからだが、これでも毎度々々、長文感想のたぐいとか、ある程度〈宛先のある〉日記にかんしてはものすごーくどきどきしながら公開に踏み切っているのだ。不安はむしろ、褒める意図をもって書いたときのほうが大きいかもしれない。ちゃんと褒めることができているかという不安。そしてごく単純な話、〈届いた〉ときにはとてもうれしい。
だから、『ささやきの彼方』の感想を書いた過日の日記に、直後、高山(玲子)さんがブログで応答してくれていたのはうれしかったし、そこで語られる「相馬」像にはちょっと笑ってしまった。

それで公演に来て頂いて、終演後に会って、相馬さんの何が”いい”かと言うと、何も相馬さんは言ってないのに、目と耳がその場を切り取って日記にしているようで、言語化されていく、というんでしょうか、タイプライターの”パチパチパチパチ”という音がする。でも決して相馬さんは何も、言ってないのです。これはたぶん、スタンド名「diary」だ。こちらは相馬さんを前にすると、次々と文字起こしされていくようで、焦って勝手に余計なことを口走ったり、また口ごもったり、する。だけど実際、あの時、相馬さんが口にした言葉と言えば、「なにが?」ぐらいだったはず。
それが、やっぱり、日記化されてた、された訳で、それがわたしの挙動不審な終演後(だけ)ではなく、お芝居をしているわたしと、作品についてで、〔この文、ずっと続くけど略〕
3.15 | TAKAYAMAREIKO

 まず何に笑わされたかというと、「あの時、相馬さんが口にした言葉と言えば、『なにが?』ぐらいだったはず」という指摘。たしかにね。言いがちだよね、おれ、「なにが?」ってすぐ。よく聞いてるなあ(そりゃそうか)。ま、何かを言われて、わたしが「なにが?」って返すときはたいてい何の考えもないときだ。
で、わたし、「スタンド名」って言葉がにわかには理解できなかったんだけど、さっき調べたので(さっきかよ)いまはわかっている。なるほど、ジョジョ用語なのね。
煎じ詰めると、「とにかくけっして何も言わないが、パチパチパチパチと音はしてる」のがわたしであり、そんなやつ厄介だなあとわれながら思うけれども、パチパチパチパチがたき火の音ではなかったことが、いまはせめてもの救いだろうか。

Walking: 3.4km • 5,075 steps • 57mins 55secs • 162 calories
Cycling: 1.2km • 6mins 3secs • 27 calories
Transport: 34.8km • 34mins 59secs
本日の参照画像
(2017年4月 5日 12:54)

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/ 2 Apr. 2017 (Sun.) 「いったい白子は何を考えているのかその傾向と対策」

ロビンとポシュテ。2008年12月。

というわけで過日、アゴラ劇場で連続上演された折にはじめて「いつ高」シリーズの vol.1と vol.3を観たのだけれども、vol.1についての感想が書かれるべきだった 3月4日付の日記はけっきょく自身の高校時代の思い出話に終始してしまったし、vol.3を観た 3月12日付の日記は同じ日に観た『 2020』のほうの感想だけで手一杯になってしまい、そうしてあとまわしにされたこの日記は、ついに書かれることなく日々に埋もれていくはずのものだった。ツイートからレビューまで、「いつ高」についてはすでにいくつものすぐれた言葉が寄せられているように(読んでないけど、なんとなく)思われ、そこにいまさら何をわたしの付け足すことがあろうかという躊躇もあるものの、その躊躇を捨てて、きっと凡庸なものでしかないはずのわたしの言葉をここに紡ぐための枠組みは、ほかでもない「いつ高」という装置そのものが準備してくれている。眼差しの充溢する舞台である「いつ高」においては、それを見つめる観客もまた容易くその構図のなかに組み込まれ、いわば〈片思いの力学〉に支配されうるわけだが、ここでは喜んでそれに乗っかり、作中の彼らと〈同じ土俵に立つ〉ことでこの舞台の愉しみを享受したいと思う。
もってまわった導入はそれくらいにするとして、わたしにとっての目算は、だからこうだ──要はきっと、2年8組の「白子」のことが好きなのだと自覚してみること。どうやったら彼女のことを理解できるか、いや、べつに理解できなくたっていいが、つまるところ付き合うチャンスはあるのかと真剣に考えることで、おそらく凡庸な恋であるこの思いと言葉を舞台の感想として成立させること。「いったい白子は何を考えているのか──その傾向と対策」というタイトルが含意するのはつまりそういうことである。
さて、彼らと同じ土俵に立つという読みの規定からはちょっとした矛盾が生まれる。わたしは観客として、舞台上のほぼすべての表れを目撃する者であったわけだが、その(もちろん「全知」ではないものの、ある程度)俯瞰的な視点と、作品内に仮構する〈ぼく〉という、ひとりの同級生が持つであろう視点との不一致という矛盾だ。しかしこの問題については、戯曲冒頭のこのト書きがその言葉どおりに解決してくれるはずだと信じる。

ファンタジーでなければならない。

 たとえば vol.2に登場する「(逆)おとめ」が全校くまなく盗聴器を設置し、同級生たちの声を広く蒐集していたように、観客席にいるのと同等の視座──と、それゆえの制約?──をもつ同級生を想像することもまた、この高校においてはきっと可能であるだろう。
vol.1においてまず最初にもたらされる白子についての情報は「茉莉」による、「自殺未遂の子」というものだ。

茉莉
あのこ。自殺未遂の子だよ。
瑠璃色
なにそれ超おもしろそうじゃん。
茉莉
みたことない? いつも、窓の外さ、じーって。
瑠璃色
あ、あー、あーあー、はいはいはい。音楽室でみましたみました。
茉莉
音楽室にも? 自殺する場所探してるらしいよ。
瑠璃色
学校で? なにそれ、じけんせいー。

「三度の飯より噂話が好きで、学内の噂はほぼすべて知り尽くしている」(登場人物紹介)とされる茉莉の、この情報をどう扱うべきか。噂好きというのはただ噂話へのアンテナ感度が高いだけではなく、過度な感度の良さによって自分好みの話を組み立てる/呼び込む能力のことでもある。「朝」が「将門」といっしょにグラウンドで「太郎」を追いかけているのを窓から見かけ、「恨みあったのかな」という想像を即座に組み立てる茉莉が、基本(話の受け手である瑠璃色が反応しやすいところでもある)「じけんせい」を志向しているのはあきらかだろう。少なくとも「自殺する場所探してるらしいよ」という部分は、昼休みにグラウンドを走る太郎を見るのが好きな白子が、もっともよく見えるベストポジションを探してあちこちの教室からそれを眺めてみていたという事情と合致するのであり、その行動を目にした者たちによる話から茉莉が組み立てた(もしくは選んだ)「尾ひれ」である可能性が高い。
 問題は「自殺未遂の子」という言葉のほうだが、それがたんに「自殺の場所を探してるらしい子」という話それ自体を指していて、端的かつ劇的に言い換えただけなのか、はたまた、その「場所探し」という尾ひれ部分の核となるまたべつの話が存在するのかはちょっと判断がしがたい。冒頭ちかくのこの茉莉の発言以外に「自殺未遂の子」という情報を補強する材料はけっきょくないのだが、いっぽうで冒頭のこの発言があるために、後半にある白子と「シューマイ」との〈道行き〉の場面がまさに道行き(心中)めいた色合いをもつのも事実だし、また白子が机の上に広げるミニチュアのグラウンド(と、もろもろ)がどこか箱庭療法的な世界技法(ワールド・テクニック)を思わせ、そこに治癒/治療されるべき何かがあるのではないかという予期を持たせられるのもたしかだ。

白子
わからない? 机の上に、ぎゅって、世界、敷き詰めてる。

 以上のことを勘案し、で、ぼくとしてはその情報をどう考えるべきかということだが、さしあたり「気にしない」ってことでいいんじゃないかと思う。そんなことよりも目下、白子のことが好きなぼくにとって、もっと気にすべきことはあるからだ。
vol.1、vol.3においてあきらかに、白子の眼差しは太郎へと向けられている。白子にとっての「世界」は太郎の走るグラウンドだし、太郎の走行距離に合わせ、Googleストリートビューを使っての〈旅〉をつづけていた白子は、その〈旅先〉での写真をまとめたものを手紙にして、太郎に渡そうともする。これはちょっと、気が気ではない。

白子
ずっとこの時を待っていたのだ! 二人になるこの瞬間を! 告白じゃありませんから!

というこの白子のセリフは、その言表とは裏腹に、まさしく「告白」めいた行動とシチュエーションのもとに発せられる。「告白じゃありませんから!」という白子の言葉を彼女なりの〈照れ〉と読むことも、はたまた、その行動を彼女自身も意識しえていない恋の発露だと読むことも容易かもしれない。しかし同時に、はたしてそうだろうか──彼女の言葉をそのまま字義どおりに受け取ることはできるし、そうすべきではないか──ということがいっぽうにはある。「告白じゃありませんから!」というその叫びの裏にある葛藤と苛立ちは、たとえばこういうことかもしれない。

@ninety_deg: 「その人のことが好きでね」「えっ、恋?」「違うよ、そういうんじゃなくて……なんだか気になるというか……好意を抱いているというか……」と言い淀みながら、この世では気になるも好意も恋の意味じゃないか、語彙が恋愛に侵食されていやがる!と歯痒かった。
2016年12月16日 21:10

@ninety_deg: 「違うよ、そういうんじゃなくて……」まで含めて恋愛のパターンの内だというんだから、まったく度し難い。あらかじめ言葉を奪われている。
2016年12月16日 21:22

@ninety_deg: 私が好きな人と言ったら好きな人なんだよ。わかっておくれ。
2016年12月16日 21:23

 「告白じゃありませんから!」という断りを添えてみせる白子は、自身の言動が「告白」という文脈のもとに読まれうるものだということを充分に自覚している。自覚しているからこその「そういうんじゃない」なのであり、そして、先のツイートが言うように「そういうんじゃない」まで含めて恋愛のパターンのうちであるというもどかしさが、その叫びには込められているのかもしれない。とすれば、ここにいるのは〈恋愛のレトリックから逃れる〉ことをのぞむ白子だ。
 白子がなぜ二人だけになる瞬間を待っていたのかということも、その文脈のなかである程度は説明ができるかもしれない。つまり、二人の関係を〈恋愛のレトリック〉のもとに読んでしまうかもしれない第三者の眼差しがない空間で、彼女は太郎に写真を渡したかったのである(ほかならぬ太郎が、それを〈恋愛のレトリック〉のもとに読んでしまう可能性は残るとしても)
「白子の眼差しは太郎へと向けられている」とさっきは書いたが、これにも留保が必要だろう。

白子
太郎が200メートル走るごとに、あたしも、この学校から、200メートルずつ進んでいって。太郎のつもりで旅するの。太郎の視界だとおもって、走ってるつもりで。
白子
うん、春だね、きっと。いまは、春で、ここは南アルプス。その景色をあたしとシューマイがみてる。あそこの校庭で走ってる太郎の視線を通して。

とあるように、Googleストリートビューを使っての擬似旅行において白子は太郎の眼差しを〈借りて〉いる。その意味で、じつは白子の眼差しは校庭を走る太郎へと向けられているのではなく、太郎の眼差しそのものを──そのベクトルを──自らのうちに獲得しようとしていると言える。ミニチュアのグラウンド同様、太郎の眼差しは白子のなかである種の媒介装置として機能しているらしいのであり、だから、撮り溜めた写真をすべて太郎に渡すことは、借りていたその視線を〈返却する〉という行為でもあったはずだ。そのことによって、白子はやっと自身の眼差しを取り戻すのかもしれない。

新名
いけばいいのに。
白子
え?
新名
実際にさ。
白子
ああ……。そうかも。
新名
うん。
白子
でも君に言われると腹たつね。

「君に言われると腹たつね」と言われてしまうシューマイ(新名)は、無価値化された「ごめん」という言葉の煙幕によって人との交流を咄嗟に遮断してしまう者であった。しかし、白子はそのシューマイの「ごめん」をいちいち、あくまで字義どおりに、価値のある謝罪として受け取ろうとする。あるいはそれは、言外の意味を読むこと──それは〈恋愛のレトリック〉にも通じるものだ──への拒否なのかもしれない。もちろん、「君に言われると腹たつね」と指摘してみせているように、白子は「ごめん」の言外の意味──シューマイのコミュニケーション遮断癖──にも気づいているのであり、そのうえであえて言外のメッセージを受け取ることを拒否していると言える。またそのことは、「やっぱり」というオトコ(パートナー)の物言いに敏感に反応してみせる彼女の態度とも通じているように思える。

新名
ほらあ! やっぱり間違えたんだよ道。
白子
やっぱり? シューマイってやっぱりとか言い出すタイプだったんだあ、やっぱりなあ。

ところで、白子が興味を抱いた太郎の眼差しとはいったいどんなものだったろうか。それは、グラウンドを時計回りに逆走することと何か関係があるだろうか。元カノである「海荷」とのデートでは「行き」ではなく「帰り」が楽しかったという太郎だが、グラウンドのトラックにおいてはその円環構造によって「行き」と「帰り」という対立が無効化されているようにも、逆走することで永遠の「帰り」を手に入れているようにも思える。
いや、いいんだよべつに太郎のことなんか。そうじゃなくて白子だ。うーん。
何を言い募ったところで、渡り廊下での風景に気が気ではないのは変わりないのだけれど、上に見てきたような読みがある程度当たっているのだとすれば、太郎に写真を渡すその行為はやはり彼女の言うとおり「告白ではない」のであり、なにがしかの儀式のようなもので、けっしてそこに恋愛対象としての太郎が見据えられているわけではないということになる。その推測は〈手強いライバルとしての太郎〉という危惧を消してくれはするが、同時に、〈恋愛的なものから身をかわそうとする〉かのような彼女の振る舞いが浮かび上がりもし、むしろそのことのほうが、ぼくの片思いにとっては厄介なのかもしれない。そんな白子にたいして「対策」のようなものがあるとしたら、やっぱり、それは「気にしない」ってことしかないような気もする。まあね、長々書いてはみたものの、白子のことはよくわからないのだ。vol.3の終盤、写真を渡すという儀式を通じて〈太郎の眼差し(から世界を見ること)〉を手放し、ついに自身を取り戻したかにみえる白子は、ぼくにとって都合のいい方向に、何か変わってくれたろうか。
けっきょくのところ、明日、学校で、「好きなんだよね」と言うところからはじめるしかないのだろう。言えるだろうか、それ、ぼくに。いや、言うしかないんだけどね。明日、白子がまだ、そこにいてくれることを信じて。
あー! 付き合いてえー!

Walking: 106 meters • 168 steps • 2mins 47secs • 5 calories
本日の参照画像
(2017年4月 4日 09:31)

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/ 1 Apr. 2017 (Sat.) 「トレーシーの死なない『女王陛下』」

ついにポシュテ登場。その右下に見えている柄が、感じからするとたぶんロビン。2008年11月。

『007 スペクター』

3月下旬の日記はごっそり割愛。それで一気に、エイプリルフールであるところの本日。
だからって嘘ではないのだが、じつをいってわたし、ずーっといままで──まずロードショーを観のがしたあと、リリース直後にブルーレイを買ってもあったのだけど、にもかかわらず──、『スペクター』 を見ていなかったのである。で、今日やっと見て、そしてびっくりしている。
まずこれは前作『スカイフォール』を劇場で観た直後に、日記に書いた一節。

というわけでここまで結末部分のネタバレには踏み込まずに書いてきたけれど、だからまあ、あのラストシーンを堪能し、こりゃ次作、クレイグ=ボンドはついに堂々と「スペクター」と戦う──もしくは、次作においていよいよ「スペクターの誕生」が描かれる──のではないかと期待するところのわたしである。
2012年12月7日付「『スカイフォール』を観る」

 で、二年後の 2014年12月、次回作のタイトル『スペクター』がまんまと発表されたわけだが、さらに、その報を受けてのわたしのツイートがこれだった。そう、『スペクター』は、(わたしがいまやっと見たというだけでみなさんはすでにご存知のとおり、)このわたしの予想/夢想どおりの映画だったのである。それに先立つ関連ツイートも併せて載せておくが、つまり 3つ目のツイートね。

@soma1104: きゃー。来年11月公開の007新作、タイトルは『SPECTRE』(スペクター)だって! http://jamesbond007news.com/2014/12/04/bond24-title-is-spectre-2/
2014年12月4日 22:20

@soma1104: 「車椅子の人?」と妻。ブロフェルドといえば、なぜか妻のなかでは『ユア・アイズ・オンリー』のそれらしい。
2014年12月4日 22:49

@soma1104: もう何作かのち、ついに、ラストでブロフェルドにトレーシーを殺されない『女王陛下の007』を作ってシリーズ完結、ってのは?
2014年12月4日 22:55

とにかく屈強な敵のサブキャラクター、雪山の頂にある療養施設、同業者の娘であるボンドガール、(ほんとうに東京でロケしたのかは知らないけど)いちおう出てくる日本、列車内での格闘、ボンドガールが敵アジトで着せられるチャイナ風ドレス、エトセトラエトセトラ……という具合に過去作のスペクターをすべてなぞった上で、ラストはほんとうに、〈トレーシーが死なないままエンドロールを迎える『女王陛下』〉なのだった。こりゃすげえ。
途中からいっしょに見ていた妻はというと、終盤、ブロフェルドが足を負傷した場面で「あ、これで車椅子か!」と言い、あくまでも車椅子姿のブロフェルドにこだわりを見せる。あと、その手前、スペクターの拠点が大爆発を起こしてブロフェルドが巻き込まれた(であろう)シーンでは、「あ、これでハゲになるの?」とかも言ってた。(いずれの予想もハズレ。ただまあ、車椅子でこそないものの、形勢逆転されてからのブロフェルドは『ユア・アイズ・オンリー』ぽくもあり、ブロフェルドもまた多面=多作的。)
まあ、とにかく楽しい映画だったのであり、そしてびっくりしたという報告。

Walking: 1.4km • 2,096 steps • 19mins 26secs • 66 calories
Transport: 16km • 16mins 51secs
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(2017年4月 4日 06:51)

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