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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第1章 非-女流ハープ奏者の告白

  •  自分の人生が成功であったのか失敗であったのか、私には分かりません。しかし、他の人生を歩むかわりにこういった人生を歩んできたことには何ら迷いめいたものはなく、私はただ、物事を偶然こっちへやってきたものと考えることで人生の多くの時間を楽しんできました。
     私は、いまだかつて有名人だったことがありません。見知らぬ人が道で私を見て立ち止まり、サインをねだってくることは決してありません。人々は、衣裳なしでは私だと分からないのです。世間の人々は私の声を聞いたことがありません。この点で、私は弟のグルーチョ(彼こそ正真正銘の、14カラットの有名人)と大きく違います。
     私の顔かたちを知っているからといって、やっぱり私を見分ける手助けにはなりません。あなたは、以下の人相書きに一致するような人物を見たことがありますか?

     身長は平均よりもやや低め。ゆっくりで、ゆるやかな動作。目、グリーン。髪、かつてはブラウンであったかも知れないが、今は言うほど残っていない。肌の色、ゴルフプレーヤーのような日焼けした色。顔立ちにこれといって特徴的なものはないが、あるとすれば眉ぐらいか。眉はたいていいつも上がっている。困惑しているようでもあり、好奇心を示しているようでもある。どっちと言うのは難しい。社交的な集まりにおいては目立たない。手を広げる仕草をして、そっとテーブルの端に座ってしまいがち。それで人が通りかかれば微笑みかける。時たま、誰も聞いていないような何か言葉を口からもらす。年齢はてんで見定めがつかない。見た目よりは年をとっているらしい。言ってみれば未熟なまま円熟している。

     あるいは、この男なら見たことがあると、そう思われるかも知れません。思い浮かべていらっしゃるのは南部地区グレープフルーツ栽培者総会の集合写真に写っている、四つ目のテーブルの端から二人目の彼でしょうか。カゴにバナナ2本とフィグニュートン〔イチジク入りの棒形クッキー〕の箱しか入っていないのを見て、あなたがスーパーのレジで先をゆずってあげた彼でしょうか。でも、それは私ではありません。私はグレープフルーツ事業に関わっていますが、総会に出たことはありません。私は食べることが好きですが、買い物に行くのは妻のスーザンです。
     妻はまた料理もしますし、針仕事も好きです。趣味で油絵も描きます。彼女はショー・ビジネスの世界にいました。それは本当ですが、しかし彼女は三十年近くも前、私と結婚する際にその世界をあとにしました。私たちの四人の子供たちは誰一人、舞台に上がる仕事につこうという考えを持っていません。彼らが興味を持っているのはそれぞれ、作曲、自動車整備士、ロケット力学、それに馬です。犬は三匹飼っています。どれも雑種です。
     私たちは田舎での静かな生活を送っています── あるいは、アレックスが運転免許を取って、古いフォード車のマフラーを乱心させターボ・ジェットのような音を出すまでは、そうでした。
     私を特徴づけるようなものが何かあるとすれば、それは世間の人々が最も知らない部分のひとつ── 私の声です。私はいまだに、ニューヨーク東93番街アクセントでしゃべります。私が自分の名前を発音するときは「ホッポ」となります。それから電話に出るとき、「もしもし」とは言わずに「ハイ?」と── まるで、いつも何かちょっと面白いことはないかと期待しているかのように── 言います。たいていそうします。
     さてここらで白状しなければなりません。私と同じ名前で世間に知られている、有名人といった種類の人物がいます。その男はぼさぼさした赤毛のカツラをかぶり、ぼろぼろのレインコートを着ています。口はきけませんが、そのかわり間抜けな表情を作り、警笛を鳴らし、口笛を吹き、シャボン玉を吹き、ブロンド女性に色目を使ったり飛びついたりして、その他ありとあらゆるいんちきジェスチャーをやってみせます。私は、この人物の名声や幸運をねたんではいません。1セントを稼ぐのに、ひとつのカーテンコールを勝ちとるのに、彼は実に一生懸命に、べらぼうに働きました。私は、彼を何らねたんではいません── なぜといって、彼は才能などまったく持ち合わせずにスタートしたのですから。
     マルクス兄弟の映画を見たことがあるならば、彼と私の違いが分かることでしょう。彼が女の子を追っかけてスクリーンをかけまわるとき、それは「彼」です。彼が腰を下ろしてハープを弾くとき、それは「私」です。私はハープの弦に触れるときはいつでも、役者であることをやめました。
     この「私」というやつが、次第にありきたりな男に思えてきたでしょうか。おそらくはそうですが、しかし私は人生の中で、幸運にも、たいていの人にとっては決してする機会がないようなことをたくさんすることができました。
     私は、売春宿でピアノを弾いたことがあります。ロシアから機密文書をこっそり持ち出しもしました。ソファでペギー・ホプキンス・ジョイスと夕べをともにしたこともあります。ギャング一味を相手に、ピンチー・ウインチーのやり方を教えたこともあります。州知事のアル・スミスを電話口に待たせたままのハーバート・ベイアード・スウォープと、クローケーを楽しんだこともありました。ニック・ザ・グリークと賭けをし、グレタ・ガルボと床に座り、ベニー・レオナルドとスパーリングをこなし、プリンス・オブ・ウェールズと乗馬に興じ、ジョージ・ガーシュウィンとはピンポンをして遊びました。ジョージ・バーナード・ショウは私にアドバイスを求めてきました。オスカー・レヴァントは、私のために1回1ドルでプライベート・コンサートを行ってくれました。ベン・ホーガンとサム・スニードと一緒にゴルフをやったこともありました。サマセット・モームとエルザ・マクスウェルと一緒に、リヴィエラで日なたぼっこしたこともありました。モンテカルロで、カジノから叩き出されたりもしました。
     ポーカーに勝って得意になり、アレクサンダー・ウルコットに字なぞ遊びの対決を申し込んだり、アーサー・デューア・ミラーに綴り字競技をけしかけたりしました。世界の卓抜した音楽家たちにレッスンをほどこしたこともありました。アーサー王の時代からつづくたいへん著名なふたつの円卓会議のメンバーになったこともあります── ひとつは、ニューヨークのアルゴンキン・ホテルで、1920年代の最も優秀で創造的な精神の持ち主たちと席を並べ、もうひとつは、ヒルクレスト・ホテルで、ハリウッドを代表する鋭い才知を持った知的職業の方たちと席を並べました。
     (後段になってその全貌をお話しするとき、これらの活動のうちのいくつかは、それほどたいして印象的なものには映らないでしょう。例えば、私がペギー・ホプキンス・ジョイスとソファで何をしていたか、とか。私は彼女に四コマ漫画を読んで聞かせていました。)
     本当のことを言えば、私は以上のようなことに関わり合う権利など持っていませんでした。私は楽譜の音符など読めませんし、学校で二年生を終了してもいません。ですが、自分を無学の成り上がり者と見なすには、あまりにも楽しいことだらけでした。



     ひどい食事をしたことというのは記憶にありません。これまでに、サンシメオンにあるウィリアム・ランドルフ・ハースト氏所有の貴族風の食堂で食べたこともあれば、ヴォイジンズ・アンド・ザ・コロニーでも、パリの最上級のレストランでも、私は食べました。けれども私が食事をした場所で、最良の記憶として残っているのは、慢性的な餓死状態にあった頃の話ですが、マックスズ・ビジー・ビー(「マックスの働き者」)とわれわれが呼んでいた、その安レストランです。ビジー・ビーでは、サーモンのライ麦サンドイッチを1平方フィートあたり3セントで買うことができ、さらにもう4セント出せば、ホイップクリームのたっぷりかかったイチゴのショートケーキとレモネード1杯がついてきました。しかし何と言っても、これまで食べたうちでダンゼン最高においしかったものといえば、それを出してくれたのは、私の知る限りで最も霊感を与えられたシェフ── 私の父── でした。父には霊感が与えられなくてはなりませんでした。なぜといって、他に仕事はしていなかったのですから。
     夜ぐっすり眠れなかったことというのも記憶にありません。カンヌやアンティーブの別荘、ヴァーモントにあるアレクサンダー・ウルコットの隠れ島、ヴァンダービルトやオットー・H・カーンの大邸宅、ニューヨークはグローバースヴィルの留置場、それやこれやで、私は寝たものです。また、玉突き台の上や楽屋のテーブルの上、ピアノの上、更衣所のベンチ、ぼろ服を入れるカゴの中、ハープケースの中でも寝ましたし、寝台の上段に四人並んで、ということもありました。六月の太陽のもと、芝生の上で、凧上げの糸が足の裏をコチョコチョやるのを感じながら、私は居眠りという無上の快楽を知ったのです。
     ひどいショーを見たことというのも記憶にありません。コニーアイランドのヴォードヴィルからモスクワの芸術劇場まで、ありとあらゆるものを見てきました。もしも劇場に足を留められてしまい、がっかりなことにショーが始まってしまったときには、見ずにすます手近な方法があります。寝ます。
     私の数少ない中毒品といえば── 年をとって、今やそれらとはすべて縁が切れましたが── ポケットビリヤードにクローケー、ポーカー、ブリッジ、それにブラックゼリービーンでした。煙草は二十年来吸っていません。
     私がただひとり愛した女性は、結婚して今も私といます。
     私が抱えるアルコール上の問題といえば、唯一、それが何の酒かということにあまり気をかけないということです。
     そういったわけで、私は何を告白すればいいのでしょう? 実は、本をものすに足るだけの大きな弱点が、私にはあります。弱点というのは人です。生来、あるところからあるところへ行くのに直線コースを辿るということができない私は、そのためたくさんの人に出会い、その言うことを聞かねばなりませんでした。さかのぼって20年代、全員が一斉に私に向かってものを言い出したとき、私は、数少ないプロの聞き手となりました。
     よくこう問いかけたものです。「ジョージ・S・カウフマンだの、マーク・コネリーだの、ハロルド・ロスだの、サム・ベーマンだの、ベン・ヘクトだの、ヘイウッド・ブロウンだの、フランクリン・P・アダムズだの、ドロシー・パーカーだの、エセル・バリモアだの、ベンチレイだの、スウォープだの、それにウルコットだの、そんなやつらと気軽にしゃべることになったら、一体全体オマエどんな話題を見つける?」 答えは単純です。そういった連中に取り囲まれたときには、何も話す必要はありません。私は聞いていました。
     いくつかの理由から、彼らは皆、私を快く受け入れてくれました。思うにそれは、私が彼らを最重要人物や天才としてではなく、カードプレーヤーや玉突き名人、クローケーファン、室内ゲームマニア、話し上手、はたまたイタズラ者── 何であれ、仕事をしていないときの彼らが最も興じているそれらこれらとして、受け入れたからでしょう。
     これらの注目すべき連中は、ふつうヴォードヴィルの喜劇俳優や独学ミュージシャンが付き合ったりするようなタイプの人たちではありません。ふつうなら、そういう人は成功のための黄金律といった法則に従いますから、道順を間違えてぶらぶらしたり迷ったりということはしないものです。私という人間が、独自の法則に従い、どこへ行くにも決して通常のコースを辿らなかったことを、神様に感謝する次第であります。
     このあとずっと、私のあとを追っていただけますれば── 経由いたしますはイーストサイドの酒場に質屋、オーフェウム・サーキット、ロングアイランドの地所に売春宿、オハイオ川の賭博船、ロシアの国境警戒区域、そして Metro-Goldwyn-Mayer ── 、私の言わんとするところがあなたにも分かっていただけるでしょう。なぜ私が感謝するのかが、分かっていただけるはずです。



     さてと。そろそろ時間です。私も、自分の凧を上げることにしましょうか。太陽のもと背伸びをして、靴を脱ぎとばし、こう言うのです、「戦いの日々は終わった」と。こうも口にするかも知れません。「今振り返ってみて、自らにこう言い聞かすことができそうだ。一片の悔いも残ってはいない」。
     どっこい、残っています。
     もう何年も昔、バーナード・バルークという名のたいへん頭のいい人が、私を傍らに置いて、腕を私の肩へとまわしました。「なあ、ハーポ」彼は言うのです。「君に三つのアドバイスを与えよう。君につねに心に留めておいてもらいたい三つのことだ」。
     私の心は弾み、期待は膨らみました。その先生の口から出る、リッチでバッチリな人生への魔法のパスワードを聞こうとしました。「はい、何でしょう?」と私が言うと、彼はその三つのことを教えてくれました。
     何だったっけなあ、その三つ。というのが私の悔いであります。

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