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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #6

  •  ともかくも、家の中と外とで(「外」というのはわれわれの住むフラット以外の、街のあらゆる場所ということです)、読むことを学びました。「ネコが一ぴきいます。あのネコをみてください」とか、「一銭の節約は一銭のもうけ」とかいうような手習い帳の文句にグルーチョが取りかかっている頃、私は、「この水、馬用」とか、「エクセルショール玉突き場、ひと突き1セント」とか、「酒処、ランチ自由未成年者お断り」とか、「芝生に入らないでください」とかの文句、それから壁や歩道の、たぶん元から書かれてあったんじゃなくて年上の子供たちが書いていった言葉なんかを通して、アルファベットだの語彙だのを修得していました。
     時計の見方を学んだのは93番街のセカンドアベニューにある、エーレット醸造所の塔に取り付けられた時計によってで、われわれ家族にとっての唯一の時計だったそれは、祖父がシェードを降ろしてしまわないかぎり正面の窓から見ることができました。家族内における正統派信仰の最後の砦だった祖父は、しばしば正面の部屋でもってお祈りをしたり、旧約聖書の勉強をしたりしていました。そうなればシェードは降ろされてしまい、醸造所の時計なしでやっていかざるを得なくなって、時間も存在しないことになりました。
     その頃からずっと、シェードが降ろされたり太陽が沈んだり、家の灯りが消されたりすると、時間そのものが止まってしまったように感じたものでした。それはおそらく、これまで私が睡眠に何の問題も抱えてこなかったこと、それと早起きだったことが理由でしょう。太陽がのぼって窓のシェードが上げられると、醸造所の時計は仕事に戻ります。時間は復活し、何だか待っていたように感じるものが始まりだすのです。
     平日、アル叔父のブッキングに大わらわのミニーが外出し、フレンチーが裁断テーブルでせっせと働き、チコとグルーチョは学校、ガモとゼッポは玄関前の階段で遊んでいるというような状況で、祖父と私はよく一緒にすごしたものでした。
     祖父はときどき、ハッガダー〔ユダヤ教伝承の伝説・民話などで、律法的性格のないもの〕から引いてきた物語を話してくれたり、旧約聖書をもとにして講義をしてくれたり、あるいは祈りの言葉を教えてくれようともしました。けれども祖父の宗教教育は、思うに学校での勉強に近すぎて、私の興味を引くには至らず、ミス・フラットーがそうだったように結局その目的を果たすことはありませんでした。それでも、充分に理解できたかどうかは別として、1課程は修めました。ドイツ語を祖父から教わったのです。(私は英語を祖父に教えようとしましたが、途中であきらめました)
     快活に感じてシェードも上げられているようなときには、祖父は私の前でマジックを演じたものでした。自分のあごひげや私の鼻や耳から1セント銅貨を出してみせては、コインを手のひらにしのばせるトリックを私に稽古させるのです。そんなとき祖父は、決まってパイプに火をつけ、妻と一緒にドイツのミュージックホールをまわっていた日々の話をしました。国にいた当時、祖父は腹話術師兼マジシャンとして舞台に立ち、祖母はその演技のあとにダンス用のハープを弾いたのでした。
     生前の祖母についてはあまりよく知りませんでしたが、それでもなぜか遠い存在のように感じなかったのは、祖父の部屋の隅にいつも彼女の弾いた古いハープが置かれていたからでした。ハーフサイズのハープでした。弦はもうどこかに行ってしまっていました。フレームもいびつに曲がっていました。はげ落ちた金色の薄片がかすかに残っていて、それだけがかろうじて往時の輝きをとどめている状態でした。ですが私の目には、それは美なるものに映っていました。一体どんな音を奏でるのかと、祖母がそれを弾いているところを想像してもみましたが、駄目でした。それまで一度もハープの音を聞いたことがなかったのです。別の種類の音楽たちで、私の頭の中はいっぱいでした── アル叔父のパターソング〔ミュージカルなどで、滑稽味を出すために単純な調子の早口ことば(またはセリフ)を盛り込んだ歌〕、聖パトリックの日のバグパイプの音、大統領選挙の日のドラムやラッパの音、セントラルパークの回転木馬についた蒸気オルガンの音、ヨークヴィルのビヤガーデンの自在ドアから聞こえるツィター〔主に南ドイツ・オーストリア地方の弦楽器〕の音、ノースビーチの遊覧ボートで盲人の演奏するコンサーティーナ〔半音階的に配列したボタンのある六角形のアコーディオン〕の音。けれども、ハープの音は聞いたことがなかったのです。
     祖母がひざにピカピカと輝くその楽器をのせている姿は目に浮かべることができましたが、私の白昼夢もそこまでで、彼女の手がその弦に触れても何も聞こえてはきませんでした。
     私は決めました。記憶に残っている数少ない決心のひとつですが、仕事を見つけて自分の金を貯め、そのハープをハープ屋さんに持っていって弦を張ってもらい、それが一体どんな音楽を奏でるものなのか突きとめてやろうと思ったのです。
     はじめて働いてお金をかせいだとき、しかしながら私には、パン生地を買うというより火急な命題があったのでした。私がはじめてハープの弦をかき鳴らす、その15年近く前のことになります。がっかりはしませんでした。お金を貯めるに見あうだけのワクワクが、そのことにはありました。
     いずれにしても、ドイツ語とマジックを教えてくれた祖父が、私にとって最初の、本当の先生でした。二番目の先生は、よりずっと実践的な方法で私の教育を押し進めていくことになります。兄のチコが、その人でした。

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