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ハーポ・マルクス&ローランド・バーバー『ハーポがしゃべった!』 訳=相馬称

第2章 私の教育 #4

  •  ミニーの母、ファニー・シェーンバーグはわれわれが東93番街に越して間もなく亡くなってしまいましたが、シェーンバーグおじいちゃんは、ついにその一世紀に及んだ生涯を辞することになる1919年まで、われわれ世帯の構成員の一人であり続けました。それゆえ、おじいちゃんを「親類」に分類することはできません。彼は「家族」でした。
     「親類」と言うと、誰であれシェーンバーグかマルクスの姓を名乗る人、低地ドイツ方言を話す人、夕食どきにアパートにやってきてはわれわれの分け前を減らしていく人、それらみんなが「親類」でした。実にたくさんの、怪しい身なりをした見知らぬ人たちが「親類」になりましたが、追い返された人は一人もいませんでした。
     そんな中、一番の歓迎を受けたのがアル叔父でした。さかのぼって数年前、アル叔父はズボンのアイロンかけの仕事をしていましたが、仕事をさぼってはカルテットを組み、歌をうたっているという状態で、職の方は続かずにいました。それが今や、彼の愛しき姉であり、個人マネージャーであり、出演契約進行係であり、宣伝係であるミニーのおかげで、アル・シーンと言えばヴォードヴィル界の大立て者となっていました。彼は身内の「有名人」であり、また彼は、そうした役どころをしっかりと担ったものでした。
     高価なフランネルとブロードに、調和のとれたフェドーラとスパッツ、それに10ドルもするような靴でめかしこんで、月に一度、アル叔父はわが家へとやってきました。いくつもの指輪や飾りピンをきらめかせて、オーデコロンの燃え立つような香りを放っていました。アル叔父がおじいちゃんとドイツ語で世間話をしている間、フレンチーはアル叔父の着ているスーツやシャツの生地を鑑定しては、仕立屋職人としての見地からやや批評的な舌打ちをしてみせたりしていました。
     そのうちに、ミニーはしゃべる言葉を英語に変え、話題を出演契約や興行広告についてといった方向に移します。すべてが終わると、アル叔父は、グルーチョに前々から絶えずせがまれていたことを実行して、われわれのために歌をうたってくれました。これこそ、グルーチョが一ヶ月の間待ちに待っていたものでした。いよいよ帰るという際になると、アル叔父はわれわれ男の子ひとりひとりに、ピカピカの10セント硬貨をくれました。これこそ、チコが一ヶ月の間待ちに待っていたものでした。
     玄関で、アル叔父が最後のサヨナラを言っているそのころ、チコはもう2ブロック向こうの賭博場でした。
     アル・シーンがもっと有名になるにつれ、彼はその月々のボーナスを値上げして、10セント硬貨1枚が2枚に、やがては、信じられないことにひとりに25セントずつ、ということになりました。クォーターまるまるですよ! 5セント劇場なら5回分! 中古のワゴンの車輪と駆動軸だって、ちゃんと一揃い買えちゃうんだ! 玉突きゲームなら25試合!
     自分で25セント硬貨を稼いだり、あるいは盗んだりした場合、その一部だけでも家計のために寄付すべきだったろうかと気がとがめたものでしたが、アル叔父からもらうお金に関しては別でした。アル叔父からもらうお金は、釜のふたが開こうが開かなかろうが、純然たるおこづかいでした。
     「親類」部門では、シェーンバーグ方がマルクス方に数や声の大きさでまさっていましたが、一方フレンチーの家系は、大物を輩出するようにできていました。例えば、いとこのサム。サム・マルクスは、58番街の、グランドアーミープラザ近くにある高級な一角でオークションハウスを経営していて、また、タマニーホールの有力者でもありました。
     サムの弟である、いとこのマックスについては、よくは知りませんでした。彼は劇場付きの仕立屋、それも優秀なそれで、フレンチーなぞは商売上の話をするのを用心して、彼を遠ざけたがっていました。私は、「マックス・マルクス」という名前を、男性が持つことのできる最高にダンディーな名前だと考えていました。「ジェイムズ・J・ジェフリー」は別ですが。
     ニューヨーク市の、116番街とレノックス通りが落ちあうあたり、そこにある── もしくは私の知る範囲では、あった── のが、「マルクス通り」と呼ばれる路地です。一般的には、社会主義者のカールの名前をとったのだと信じられているものです。事実はそうではありません。いとこのサムの名前をとったのです。いとこのサムは、通りの名前を決めたりとか、その他もろもろを司る市政を、まだタマニーが牛耳っている間に亡くなったのでした。
     フレンチー方の、変わり者の親戚は、二人ペアでやってくるように思われました。父はよく、神秘的なたぐいの畏敬の念を払いつつ、フラッチーとフリエッチーという名の二人の大おばに関する話をしてくれました。フラッチーとフリエッチーという名前からして、私はてっきり、二人の貴婦人による綱渡り芸か、ダンシングチームあたりだろうと見当をつけていました。違いました。彼女たちは双子で、その芸当というのは、アルザス=ロレーヌの歴史で最も長く生き、同じ日に、102歳という年齢で眠りにつくというものでした。
     それやこれやの中、最も風変わりな親戚といえば、フレンチーの遠い血筋にあたるとかの二人の小柄な女性で、年に一度か二度やってきました。彼女たちは、私の記憶する唯一の、夕食を食べていかない訪問者でした。台所にいて、フレンチーと低地ドイツ方言で話しているのですが、その声は常に低くて、何を言っているのかは他の誰にも聞き取れませんでした。二人とも、床までとどく黒いスカートをはいていて、手には、決してはずしたことのない白い手袋をはめていました。ストーブが点いていないときには、二人でストーブに腰かけます。ストーブが点いているときは、わが家にいる間立ったままでした。そうして、頭を横に振りながら帰っていきました。私がフレンチーに、あの人たちは誰なのかと聞いても、フレンチーが頭を横に振るだけでした。私の考えでは、彼女たちは、フレンチーの知ってる誰それが死んだということを告げに、やってきていたのだと思います。あの二人の小柄な女性が訪ねてきた後のフレンチーは、見たことがないくらい絶望的な面持ちでピナクルをしに行ったものでした。フレンチーにとってのピナクルは、酒やアヘンのようなもので、唯一の逃避の手段でした。

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